6話『僕の剣《さよなら》、俺の魔王《またね》』

魔王城のテラスから見下ろす中庭はナギのお気に入りだった。
月明かりがネモフィラの花を優しく照らす光景をうっとりと見つめていると、すぐ後ろで何かの気配がナギを揺さぶった。

「……さらばだ、って言ってなかったか、アンタ」
「ああ。そのつもりだったのだが、どうやらお前と結ばれた縁の所為で消えるに消えられんようでな」

ぼう、と青い炎を纏って現れたルーシェルの姿に、ナギは深い溜め息を吐き出した。

「やっぱり俺が引くのは貧乏くじばっかりだな」
「そう言うてくれるな。我をこのまま狭間の世界『境界』に封じてくれれば、お前に害はないはずだ」
「それがそう簡単に終わる話じゃないらしい」

ナギはまた溜め息を落とすと、帰ってきてから議題に上がった魔力結界のことをルーシェルに話した。
レヴィアタン曰く、ルーシェルがこの世に魂として復活した際、魔界を覆っていた彼の魔力が消滅してしまったらしく、人間界と魔界とを繋ぐ扉が常時開いたままになってしまったそうなのだ。
今まではルーシェルの力で魔界側を、アリスの力で人間界側の扉の力を押さえていたが、アリスの魂が消えた今、均衡は崩れ、いつ世界が衝突してもおかしくはない状態になっていた。

「そこで、アリスの力を継いだ俺が狭間の門番、つまり境界で二つの世界の扉を封じるって話が持ち上がった」
「なるほど……。ならば、我を封じても一度開いた扉は閉まることがないということか」
「そういうことだ」
「貴様の王は、それを許したのか」
「……」

ナギは静かにルーシェルから視線を逸らした。
言わずもがな、ヴォルグがその策を了承するわけがない。
癇癪持ちの子どものように卓をひっくり返し「他に何か策があるはずだ」と喚く彼の姿を脳裏に思い浮かべて、深い溜め息が漏れ出る。

「我を楔にすれば良いのではないか?」
「駄目だ。一度開いた門はどちらの世界にも通じる者でなければ閉じることが出来ない。つまり、俺のような混血児でなければ扉を閉じることは叶わないということだ。だが、俺以外の混血児は皆幼い。他に適任者が居ない以上、俺が門番になるしかないんだよ」
「やはり、血は薄まっても、アリスは変わらんなぁ」

しみじみといった風にそう言われて、ナギは面食らった。
思わずじとり、とした視線をルーシェルに送るが、彼は意にも介さない様子でナギの表情を楽しそうに見つめている。

「己の決めたことには怖いくらいに真っ直ぐで、それでいて己の愛する者を守りたいというのだから、質が悪い」
「なっ……」
「違うとは言わせんぞ? アレも我なのだから、お前(アリス)が惹かれるのは道理だ」

くくく、と喉を逸らして笑うルーシェルに、ナギは頬に熱が上がるのが嫌でも分かった。

「別に俺はアイツのことなんか……」
「ここは素直に好いておると言って、上手く丸め込んではどうだ?」
「ばっ!? そんなこと出来るわけないだろ!!」

勢い良く立ち上がったナギを見て、ルーシェルはますます楽しそうに眦を和らげて笑った。

「否定をするということは、肯定していることと同義だぞ?」

いつぞやにヴォルグに言われた台詞と全く同じことを言われて、ナギは瞑目した。
ふらふら、と大袈裟によろけてみせると、そのまま力なく花畑に倒れ込む。

「恋だの愛だの、そんなもの俺には分からん」
「何だ。二十年も生きておいて、そんなことも知らんのか」
「物心ついてすぐ剣を取った。そんなものに現を抜かしている暇があったら、親の仇をどうやって討つか、そればかり考えていたよ」

同年代の女子が花を摘んで楽しんでいた頃、ナギは戦場を駆けていた。
戦場に出ればジグの首を狙える。
隙を衝いてあの男を殺そう。そればかり考えていた。
そうしているうちにいつしか「聖人」に次ぐ役職「聖女」の称号を与えられた。
教会の中で上から四番目にあたる称号の効力は、似非神父たちから幼い仲間を守るには十分すぎるものだった。

「我に身体があるのなら、」

不意に目元に影が落ちる。
ルーシェルが近付いてきたのだとナギが気付くのと、彼の腕がナギの胸をすり抜けたのはほぼ同時であった。

「うお!?」

思わず素直に驚きの声を漏らすも、ルーシェルの纏う静かな空気は変わらない。

「今すぐにでも、お前を連れ去ってしまいたい」
「は」
「そして、誰にも邪魔をされない場所で――」

言葉の続きが紡がれるより先に、ルーシェルとナギの間を雷が引き裂いた。
無残にも黒焦げになったネモフィラの花を見て、ナギが瞬きを落とすと、ルーシェルの透けた身体越しに眉根を寄せたヴォルグと目が合う。

「ナギは僕のモノだと言っているでしょう? 口説くなら、別の人にしてください」
「やはり、我の子孫だな。アリスのことになるとすぐムキになる」
「……」
「何だ、その目は。事実であろうが」

ルーシェルはヴォルグの身体を通り抜けると、ぐいと伸びをしながら二人を振り返った。

「時が満ちたら呼べ。微力だが、手助けにはなろう」

そう言ってスーッと空間に溶け込んで消えてしまった彼に、ヴォルグが深い溜め息を落とす。

「消えたとばかり思っていたから驚いたよ。大丈夫? 何か変なこと、されなかった?」
「別に」
「何だい。随分そっけないねぇ」
「煩い。こっちに来るな」

――どうせ。

どうせ、もうすぐ離れ離れになってしまうのだから。
踏み込まないでほしい。

『こちらに来るな』

ナギは確かにあのとき、そう言った。
それなのに、ヴォルグはその言葉を無視してナギのことを助けに来た。
その結果がこれだ。
本来なら、出会うはずのなかった二人。
けれど、一度出会ってしまったら、もう後には戻れない。
あの時アリスが言っていた縁を結ぶという言葉の意味が、今になって痛いくらいに理解できる。

「……僕、君に何かしたかな?」
「……」
「ねえ、ナギ」

夜風が髪の隙間をざわざわと囃し立てるように、通り抜けていく。
ナギは何も応えなかった。
代わりに、ゆっくりとヴォルグに向かって、震える手を差し出した。
震えている割に、存外に強い力で握られたそれに釣られて、緩慢な動作で身体を傾けると、すぐ傍で金色の宝玉が月明かりに反射して輝きを放つ。

「俺は、お前が嫌いだ」

そう言って噛みつくように唇が塞がれた。
甘い果実酒に似た唾液が咥内を満たしていく。
ごくり、とそれを飲み干してから、彼女の身体をゆっくりと引き剥がすと、涙に濡れた目と目が合った。

「嫌いだ」

嫌い。
きらい。
大嫌いだ。

拙い、言葉を覚えたばかりの幼子のように同じ言葉を何度も繰り返すナギを、ヴォルグは黙って見つめ返す。

(叶うならずっと、お前の傍に居たい)
(けれど、お前が愛するこの世界を壊したくない)
(だからもう、これ以上、俺に触れないでくれ)

心の中に流れてくるナギの本音と対するように涙交じりに呟かれるそれを甘んじて受け止めた。

「魔王(おまえ)なんて、嫌いだ」

涙を流して自分を見つめるナギを、ヴォルグは優しく抱きしめた。
次いで、これ以上彼女が言葉を紡がないように、その唇を塞いでしまう。
そうすると、ナギの心から言葉が溢れ、頭の中に直接、濁流のように彼女の感情が流れ込んできた。

『我に身体があるのなら、今すぐにでもお前を連れ去ってしまいたい』

ルーシェルの言葉が、脳内で繰り返し再生される。
叶うなら、これからもナギと共に歩みたい。

けれど、それは許されないのだと知ってしまった。
会議の後、レヴィアタンとベヒモス、それからアスモデウスの四人がかりで古い文献を漁って調べてみたが、扉を閉める方法はどこにも記されていなかった。
改善策が見つからない今、いつ衝突するか分からない世界で生活していくのは困難を極める。

――魔界を統べる者として、ヴォルグが下す決断は一つしかなかった。

「酷い王だと、いくらでも罵ってくれて構わない。けれど、これは君以外に頼めないことだから、」
「……お前なら、そう言うと思っていたよ」
「何年、何十年先になるのか分からないけれど、必ず君を迎えに行く。だからその時まで、待っていてくれるかい?」

ナギは、カラカラと笑い声を上げて、ヴォルグの胸に顔を埋めた。

「いいぜ。待っていてやる。けど、俺はそんなに気が長くないからな。先に貰えるものは貰っておく主義なんだ」
「?」
「お前と共に朝を迎えたい。この夜を俺にくれ」
「…………本気で言ってる?」
「こんなこと、冗談で頼むと思うか?」

思っていた反応と違うものを返されて、ナギは頬に血が上るのを感じた。
らしくないことを言ったのは百も承知だが、常のヴォルグであれば茶化すくらいのことはしてきそうなものなのに。
じっと見つめるだけに留まった主人に、ナギが居心地悪そうに身動いだ。

「……か、確認なんだが、」
「?」

自ら共寝を要求しておいて、生娘のように頬を赤らめるナギに、ヴォルグは首を傾げた。

「お、お前ってさ、おっ、俺で勃つ?」
「んなっ!?」

今度はヴォルグが顔を真っ赤にする番だった。
妙齢の女性の口から紡がれたとは思えない下品な言葉に、相手が気心知れたナギであることも忘れて、わなわなと口を震わせる。

「ま、えに、シたときは、ほら、なんか、雰囲気に呑まれた、みたいなとこ、あったじゃねえか」
「……」
「だ、だから、その、」
「……ごめん。それ以上、喋らないで」

ヴォルグはぐちゃぐちゃになった心を悟られないように奥歯を噛み締めると、乱暴にナギの身体を遠ざけた。
そして、彼女の腕を強く引き、兆しを見せ始めた己のそれに導く。

「う、あ」
「それで? 他に何か心配事は?」

狼のように細められた緋色の眼に真っ直ぐ射抜かれる。
蛇に睨まれた蛙はこんな気持ちなのだろうかと、痛いくらいに突き刺さるヴォルグの視線から逃れるように、ナギは目を伏せることしか出来ない。
ぐっと押し黙ったナギの姿に、ヴォルグは彼女と血の契約を交わした日のことを思い出した。
あの時もこんな風に渋る彼女を説き伏せて、無理やり自分の配下へと迎え入れたのだ。

ヴォルグが魔王になって与えられた呪いは『嫌悪』。
身内以外の同族を警戒、嫌悪するようになったのは父王を殺されてからだったが、その恨みが呪いに拍車をかけたのは言うまでもない。

そんな荒れた心の時分に出会ったのがナギだった。
初めは戦場で、煌めく金色に惹かれた。
圧倒的な戦力差の中でも、決して折れない心。
一度見たら灼きついて離れないあの閃光が忘れられなくて、門が開くたびに先陣を切っていたといっても過言ではない。
『あれ』が欲しいと思うのに、そう時間は掛からなかった。

思えば、あの雑踏の中で燃えるような金色を見つけたときから、ナギに心を奪われていたのかもしれない。

「ナギ、」

本当は行かないでほしい、と握った手に力を込める。
けれど、名前を呼ばれた彼女の顔が何かを耐えるように、くしゃりと歪んだのを見て、ヴォルグは喉元まで込み上げてきた想いを必死に嚥下した。
言葉を吐き出せない代わりに、触れるだけのキスを落とす。

触れて、離れて、また触れて。

何度か角度を変えて唇が触れるたび、ナギの表情は辛そうなものへと変わっていった。

「……このままずっと、朝が来なければいいのに」

ヴォルグがぽつり、と溢した言葉に、ナギは一瞬だけ驚いた表情になったが、次いで目線を逸らしながら「そうだな」と呟いた。
緊張と興奮で冷たくなってしまった指先を、ナギの熱い掌に重ねる。
無言で歩き始めたヴォルグの背中を、ナギは静かに追いかけた。

◇ ◇ ◇

目が覚めると、ナギの姿はそこになかった。
薄っすらとシーツに残る彼女の温もりをなぞって、ヴォルグは唇を噛み締める。

きっと、さよならはいらない。

今、ナギを追いかければ、彼女は自分の元へ戻ってきてくれるような気がした。
それが分かっているからこそ、ヴォルグはナギを追いかけることが出来なかった。

酷い男だと、そう罵ってくれたらどれほど良かっただろう。
それなのにナギは肌を触れ合わせている間、非難の言葉を一切口に出さなかった。
全てを包み込むように優しくヴォルグを抱きしめて、涙の代わりに甘やかな嬌声を溢していた。

「またね、僕の剣」

窓越しに見えた浅葱色を指で辿る。
暫しの別れだ。
また、すぐに巡り会える。
冬の朝空に、そっと願いを呟いて、ヴォルグは別れを惜しむように窓から視線を外した

「さよなら、俺の魔王」

ヴォルグは何も言わなかった。
ただ、優しく腕にナギを抱いて、ひとときの夢を見せてくれた。
触れることさえ嫌悪していた男の身体だったのに、それがヴォルグのものだというだけで、途端に愛おしく思えてしまった。
辿々しく触れる唇と指の感触が、今でも身体に残っている。

「この思い出だけで、俺は生きていけるよ」

眼前に聳え立つ巨大な白い門にナギは手を這わした。
淡い光を放って、ゆっくりと開き始めたそれをじっと見つめる。

「行くのか」

振り返れば、そこにはベヒモスとレヴィアタン。それからマリーが立っていた。

「ああ」
「そうか」
「……親不孝な娘ですまない」

俯いてそう言ったナギを、ベヒモスは力強く抱きしめた。
窒息してしまうのではないかと思うほどに強く、自分を抱きしめる父親にナギは唇を噛み締め、涙を堪えた。

「お前は私とチヨの宝だ。どこに居ても、それは変わらん」
「親父殿」
「愛しているよ、ナギ」

額に親愛のキスが落ちる。
たったそれだけのことで、堪えていた涙のダムは容易く決壊した。
わんわん、と泣き出したナギをベヒモスは黙ったまま抱きしめる。

「これを」

ひとしきり泣いて落ち着いた頃、レヴィアタンが遠慮がちにナギへと腕を差し出した。

「これは?」
「通信用の水晶です。まだまだ改善の余地がありますが、魔力さえあればどんな場所でも使えるはずです。持っていきなさい」
「でも」
「いいから」

拳に握り込まされたそれと叔母の顔を交互に見比べていると、不意に背中を衝撃が襲った。
ドンッとほとんどタックルのような形で抱き着いてきたマリーを、ナギは痛みに歪んだ顔でゆっくりと振り返る。

「マリー」
「……」
「マ、」
「行かないでくださいまし」

その声は涙に掠れて、上手く聞き取れなかった。

「ごめん」
「ずっと。ずっとここで一緒に……っ!」

自分を心配してくれる、温かい家族。
初めて出来た優しい友人。
ずっと、一緒に居たいと思っていた。

けれどそれは出来ない。
この人たちを、魔王が愛するこの世界を、ナギは終わらせたくなかった。

「……もう、行くよ」

さよならは言わない。
また会えると、そう信じているから。
一歩踏み出したナギの胸元が淡く光を放った。

「な、何だ!?」

驚いて懐を探ってみると光の正体は、ネモフィラの花だった。
いつぞやに、ヴォルグから一輪手折ることを許された、あのネモフィラ。
ずっとお守りにしていたその花はすっかり萎れていて、美しかった面影はない。

パチン、と光が弾け飛ぶ。
ナギの掌からネモフィラの花は消えた。
だが、代わりに現れた物を見て、ナギの目はこれでもかというほど、大きく開かれる。

「あの野郎」

――また会う日を願って。最愛の君へ捧ぐ。

サファイアが埋め込まれたシルバーの指輪にはそんな言葉が刻まれていた。
どの指に嵌めるのか、なんて聞かなくても分かる。
だが、ナギは敢えてそれを指に嵌めることはしなかった。

「てめえがつけてくれるまで、大事に取っておくよ」

そう言って、ナギは笑った。
朝焼けの空がぽっかりと開いた暗い穴へナギを迎え入れる。
古びた音を立てて閉じた門が、空間に溶け込んでいくのを一同は黙ったまま見つめていた。

その日、一人の勇者を犠牲に、二つの世界は平和な日常を取り戻した。
そして、二度と交わることがないように、勇者は世界に通じる門を全て閉じてしまった。

二つの世界は二度と交わらない。
魔王と勇者が交わることも二度とない。

『またね』

その言葉を胸に、ナギは一人きりの世界で生きていくために、足を踏み出したのであった。

《完》