5話『夜を纏う翼』

いよいよ、試験当日である。
無事に上級天使二名――前日の夕方、滑り込みギリギリである――から試験内容変更の許可を得たルーシェルのおかげで、試験官テヴァを黙らせることに成功したアマネは、シーレたちの順番が回ってくるのを今か今かと待ち侘びていた。

――天使が通った後のような静けさ、とは、人間たちの間で起こる気まずい沈黙のことである。

だが、それは実際に天使たちが人間の頭上を通り過ぎた際、その人間たちに祝福を与える前触れであり、祝福を与えるに相応しい人物かを短時間で見極める必要性がある難易度の高い業務の一つだった。

特に飛翔能力の高い天使がこの仕事に就くことが多く、天使見習いたちの間では人気職業の上位に挙げられているほどだ。

「明星も来られたら、良かったのですが……」

ルーシェルはここ数日、上級天使に承認の判を押してもらうため、慣れない対人環境を余儀なくされた所為か珍しく伏せっている。
今朝も、常であれば一緒に行こうとしつこく誘うアマネを叱っても良い場面なのに、ルーシェルは声を出す体力も残っていなかったのか、彼女を無言のまま睨んで部屋から抓み出していた。
その現場を遠巻きに見守っていたイルとラムは、残念そうに唇を尖らせるアマネに苦笑を溢した。

「貴方たちから見て、シーレ様たちは合格できると思いますか?」
「はい。問題ないかと」
「ええ。僕もイルと同意見です」

ルーシェル付きの二人が迷いなく頷いたのを見て、アマネは口角を持ち上げた。
特に普段は厳しいイルが問題ないと言ったことに、内心でホッと安堵の息を漏らす。

「では、試験を開始する!」

テヴァの凛々しい声が、試験会場に響き渡った。
実際に下界の空を想定して作られた特別な会場は、人間役の天使数名と、今回昇級試験を受ける下級天使――元悪魔たちも含む――たちでごった返している。

「各組に分かれて、試験を執り行う。第一組、前に出ろ!」

組み分けは全部で七組。
ルーシェルの部下たちは五組から七組に振り分けられているようだった。

どこか落ち着かない様子で彼らの番を待っていたアマネだったが、いざ彼らに順番が回ってくると形ばかりの心臓が口から飛び出そうなほど激しく脈打つのを感じた。

「五組、前へ!」

五組の先頭に立ったのは、ルーシェル配下筆頭のシーレだ。
彼は深々と試験官たちに一礼を捧げてから、翼を広げてみせた。

「なんだ、あれ」
「醜い翼を広げて、恥ずかしくないのか」
「あの色を見たか? 穢れが移ったらどうしてくれるんだ……」

会場内にどよめきが沸き起こる。
他の下級天使たちの反応にシーレが顔を曇らせるのを、アマネの目は見逃さなかった。

「――誰です! 今、悪態を吐いたのは! 前に出なさい!!」

突然現れた、神の寵愛を受けし一人娘の姿に、会場内に再び激震が走る。
イルとラムが必死でアマネの足に追い縋るも、彼女は彼らの妨害を物ともせず、シーレの隣に並び立つ。

「もう一度、大きな声ではっきりと申してみなさい! 誰の翼が醜いですって!?」
「ア、アマネ様。落ち着いてください。あのような扱いには慣れていますので……」
「慣れてどうするのですか! こんな陰口を甘んじて受け入れていては、いつか心が腐ってしまいます。これでは、どちらが『悪魔』か分かったものではありません!」

恥を知りなさい!

そう啖呵を切ったアマネの横顔が、不意にルーシェルのそれと重なる。
シーレは思わず現状を忘れて、その凛々しい横顔に見入った。

「……ルーシェル、様」

姿形は変われど、自分たちが慕うのは、あの長兄の自信に満ち溢れた凛々しい姿だった。
美しかった彼の翼も、今は濁った『灰色』。
自身を愚弄した言葉はすなわち、誰より慕うルーシェルをも愚弄されていることに他ならなかった。

「試験官に問います」
「……何だ」

それまで騒ぎに介入することもなく無言を貫いていたテヴァが、シーレの顔を真っ直ぐに見つめる。
シーレは怒りで震えそうになる声を何とか堪えると、意を決して言葉を紡いだ。

「翼の色が、採点結果に影響を及ぼす可能性はあるのでしょうか?」

隣に立つアマネがハッと息を呑むのが、シーレにははっきりと聞こえた。
テヴァが僅かに顔を歪める。
次いで、呆れたように短くため息を吐き出した。

「そんなもの関係あるわけがないだろう。今回の合格条件は、飛翔能力の有無と滞空時間に変更されている。分かったら、さっさと飛んでみせろ」
「……はいっ!」

シーレは今度こそ迷わなかった。
闇を切り取ったように、漆黒を纏った彼が、雲で出来た地面を飛び降りる。

頬を撫でる風がこんなにも心地良いと感じたのは、随分と久しぶりだった。

◇ ◇ ◇

結論から言うと、試験結果はルーシェル配下の悪魔が上位を占めるものとなった。

特にシーレの飛翔能力は高く、彼の翼を見て醜いなどと陰口を叩いた天使たちの追随を許さなかったのである。
ぶっちぎりで合格ラインを突破した彼らの凱旋は華々しく、この日、ルーシェルの御所はいつにも増してお祭り騒ぎとなった。

「我が君!」

あまりの騒がしさに自室からのっそりと顔を見せたルーシェルに、シーレ以下今回の昇級試験に参加した十五名の天使たちが駆け寄る。

「……ふん。随分と嬉しそうなところを見るに、誰一人として落伍者はいなかったらしいな」
「はい! それどころか、我ら元悪魔のほとんどが、成績上位で試験を突破いたしました!」

褒めてください、と言わんばかりの視線を一心に浴びて、ルーシェルは苦笑を噛み殺した。

「流石は、俺が見込んだ者たちだ」

長兄から贈られた賛辞に、一同はその場に頭を垂れて平伏す。
その光景はまるで、絵画を切り取ったように神々しく美しい景色だった。
葡萄酒を片手に彼らを見守っていたアマネの口から、恍惚のため息が溢れる。

「……明星でも、あんな嬉しそうに笑うのですね」

アマネの隣で給仕に励んでいたラムが、それを聞いて不思議そうに首を傾げた。

「分かりにくいかもしれませんが、近頃はずっと楽しそうにしておられますよ」
「え?」
「アマネ様がいらしてから、随分と口数が増えたように思います」

「なあ、イル」とラムがイルに呼び掛ければ、彼は無言のままこくりと頷いた。

「それって、どういう――」
「アマネ様!!」
「わ!?」

アマネがラムを問い質そうと前のめりになっていると、突然周りを囲まれてしまった。
つんのめりそうになった身体を、満面の笑みを浮かべたシーレに支えられ、事なきを得る。

「すみません。ご歓談中だから、少し待てと言ったのですが……」
「い、いえ。大丈夫です。それよりも、皆さんどうされたんですか? 明星と話していたのでは?」

アマネの問いかけに、シーレは彼女からそっと離れた。
そして、星屑を流し込んだような美しい銀髪を僅かに揺らすと、その場に膝を折った。
彼に倣って、他の天使も一様に跪く。

「我ら一同、アマネ様に心から感謝を申し上げます」

夕暮れと夜の合間を縫うように、少し冷えた風が彼らの黒い翼を優しく撫でた。
明けの明星を司りし、ルーシェルの配下に相応しい『夜』の色をその身へと宿した元・堕天使たちの姿に、アマネの視線が釘付けになる。

「どうした。固まって」

面白がっています、と言わんばかりの表情で、葡萄酒片手に姿を見せたルーシェルに、アマネは金魚のように口をパクパクと動かした。

「あ、あの、」
「……シーレ、その辺にしておいてやれ。俺と同様に、形式ばったものが苦手らしい」

ルーシェルが肩を震わせながらそう言うと、シーレも満面の笑みで頷いた。
まるで、打ち合わせでもしていたかのように、全く同じタイミングでルーシェルとシーレが自身の両手を二回叩く。
どこからともなく現れた新しい料理の数々に、それまで跪いていた者たちが嬉々とした様子でそちらへと近付いていった。

「す、すみません。あのようにたくさんの方々から御礼を言われたのは、初めてで……」
「意外だったな。お前は、構うのも構われるのも好きな部類なのかと思っていた」
「そっ……」
「ないとは言い切れんだろ? 常もイルやラムを侍らせては満足そうにしているではないか」
「侍らせるとはなんですか! 人聞きの悪い! あ、あれは、談笑しているだけです!!」

違います、と力一杯叫ばれて、ルーシェルは顔を顰めた。
拳一つ分ほどしか開いていない距離感で、そんな金切り声を上げられては鼓膜がいくつあっても足りはしない。

「分かったから喚くな。そら、お前も奴らと大好きな『談笑』に興じてくるといい」
「明星ッ!!」
「あはははっ!」

大口を開けて笑う彼の背に掌底を打ち込むも、効き目は期待できそうにない。
きゃらきゃらと、まるで子どもみたいに笑うルーシェルに、アマネは顔を真っ赤にして怒りながら、食事を楽しむシーレたちの方へと歩みを寄せるのだった。