目を開けると、そこには白い靄が広がっていた。
辺りに漂う甘い百合の香りに、アマネは少しだけ顔を顰める。
花園の百合でもここまで匂いのきついものはない。
初めて嗅いだ強い花のそれに、険しい表情を浮かべた末妹を、ヨフィエルが苦笑しながら出迎えた。
「ふふっ。初めてだとやっぱり、この匂いは少しきついわよねぇ」
「あ、いえ、その……。これが夢の香りなのですか」
「そ。特に天使は百合の匂いを纏っていることが多いわ。人間だと、色んな香りがあるんだけど、この辺りの解説は戻ってからにしましょう」
先に進みましょうか、と言ってヨフィエルが一歩踏み出した途端――白い靄ばかりだった空間に鮮やかな色が宿った。
少しだけ不快だったはずの百合の匂いが、爽やかな初夏の風によって塗り替えられる。
肌の上を優しく撫でるそれは、ここが現実なのではないかと錯覚させるほどにはっきりとアマネの五官を刺激した。
青々しく茂った葡萄の古木を中心に、色とりどりの花々が足元に広がっている。
地上を見たことのないアマネにとっては初めて見るその光景の美しさに、感嘆の息が溢れ落ちた。
「どう? ここ、私のお気に入りの場所なの。気に入ってもらえたかしら」
「……はい。とっても!」
きらきらと目を輝かせるアマネのことを見て、ヨフィエルは眩いと言わんばかりに目を細めた。
「では、ここでアマネちゃんに問題です」
「は、はい!」
「人間と私たち天使の夢の違いとは何でしょうか?」
鴇色の瞳が瞬く。
銀の睫毛に縁取られた宝玉の如く鮮烈な煌めきを放つ瞳に、ヨフィエルの脳裏にかつて花園で育てていた人間――イヴが過ぎる。
「……人間は浅い眠りのときに、夢を見ると言われています。その際『無意識領域』に魂が移動していると考えられていて、その無意識領域に我々天使が介入しています」
「うんうん。それで?」
「人間は身体を休めることを第一目的とし、脳が起きている状態の浅い眠りのとき限定で『夢』を見ますが、我々天使は違います。その気になれば起きているときでも、意識を夢に移動させることが可能です。――つまり、『魂』の有無が夢に対する違いではないでしょうか」
「流石、勤勉ね。正解よ、アマネちゃん。私たちには『魂』が無い。よって、今この空間も正しくは『夢』ではない。『夢』に似たそれぞれの心象風景を表しているだけ」
「心象風景……」
「その人が一番大切にしたいと思っている光景や思いを形にした場所ってことよ」
ヨフィエルの言葉に、アマネはルーシェルに抱えられて初めて空を翔んだ日のことを思い出した。
あの日翔んだ薄明の空が、視界の端でふわり、と揺れる。
「あら~? 今、一瞬だけ何か過ったみたいね~??」
「な、何がですか!?」
「うふふっ。照れちゃって可愛いわねぇ。いいわ。今見たことは私の胸の内に秘めておいてあげる」
「ヨフィエル兄様!」
からかわないでください、と響いたアマネの声は、ヨフィエルの夢の中に柔らかく溶けていった。
◇ ◇ ◇
一通りの研修を終えると、ヨフィエルは「初日はこんなものかしらね」と満足そうに頷いた。
対するアマネはと言えば、どこか物足りなさそうな顔で指導官の兄を睨んでいる。
「……いいこと、アマネちゃん。ルーシェル兄様に言われたことをよく思い出してごらんなさい」
「『ヨフィエル兄様の言うことをしっかり聞くように』」
「よろしい。さ、兄様に合図を出して。引っ張り上げてもらいましょう」
アマネは唇を尖らせながら、懐にしまっていた小型の水晶を取り出した。
それは、ルーシェルの持っている水晶と繋がっていて、業務が終了する合図を出すための道具となっている。
コンコン、と指で軽く水晶を突く。
すると、水晶からルーシェルの声が響いた。
『終わったか?』
「はい。滞りなく」
『その割には、機嫌の悪そうな声だな。何だ? 何か、粗相でもしたのか』
「してません! もう少し、ヨフィエル兄様から学びたかっただけです!」
『……急がずとも、二週間はみっちりしごいてもらう予定なのだから、今日のところは戻ってこい』
なあ、ヨフィエル。
長兄の柔らかい声に、ヨフィエルが口元を綻ばせる。
「ええ、もちろんよ。びしばし鍛えてあげるつもりだから覚悟してね」
ふっと身体が軽くなる。
二人の視界を淡い光が再び包み込んだ。
「どうだった?」
「飲み込みが早くて助かります。特に夢への耐性も問題ないようですし、予定を少し早めても問題はないかと」
「そうか」
「はい」
「すまんな。お前も忙しいのに」
「いいえ。お兄様たちたってのお願いですもの。断ったら、『神の美』の名が廃ります」
ゆるり、と笑ったヨフィエルに、ルーシェルは肩を竦めた。
「お前の美しさがそんなことで損なわれるものか」
「まあ! お兄様ったら!」
「……ん、」
ルーシェルたちの笑い声に反応して、アマネがゆっくりと身体を起こす。
初めての夢渡しで、一時間も潜っていた割に疲労はあまり感じていない様子だった。
それどころか、ふわあ、と呑気に欠伸を溢す仕草に、ルーシェルとヨフィエルが声を揃えて笑った。
「え、な、何です。二人して……」
「これは将来、大物になりますねぇ」
「くっ、はは! 違いない!」
「だから、何なんですってば~!!」
教えてください、と囀る末妹の頭に手刀を落として黙らせると、ルーシェルはヨフィエルに礼を言ってアマネを引き摺りながら御所への帰路に着くのだった。
◇ ◇ ◇
ヨフィエルの研修を受け、一週間が経とうとした頃。
夢渡しの天使に欠員が出たと、ミカエルが会議の後に慌てた様子でルーシェルを呼び止めた。
「どうして、その報告を俺に寄越すんだ」
「イルかラムの手を借りたいんだよ。彼らは中級一位だろ。夢渡しの経験も十分にあるはずだ」
「それはそうだが、それでは俺の業務に支障が出る」
「何も一度に二人貸し出せとは言ってないでしょう。次の担当が決まるまでの間で構わないから、交代で出勤してもらえないかな?」
「……交代で、か。なら、アマネもそこに加えておいてくれ。ヨフィエル曰く、あれの筋はいいらしいからな」
「本当!? それは助かるよ! あとで人事に回しておくから、書類作るの手伝ってね」
よろしく、兄さんと元気良く会議室から走り去っていた次弟に、ルーシェルは深いため息を吐き出した。
相変わらず忙しない弟だ。
下の兄弟が増えたことで落ち着くかと思っていたが、どうやらその逆だったらしい。
天使が増えるに比例して、仕事量は楽になるどころか増える一方なようで、以前にも増して城内のあちこちを飛び回っている。
(――そういえば、あれらは俺がいない間も、神を支えてきたのだったな)
硝子張りの廊下を歩きながら、ルーシェルは無意識のうちに下唇を噛んだ。
「と、いうわけで、お前たちにはこれから一週間ほど、夢渡しの業務に参加してもらうことになった」
「……はい」
「どうしたラム。声が小さいぞ」
「当たり前じゃないですか! 僕たちはいつ休息を取ったらいいんです!? 夢渡しって夜勤なんですよ!!」
「俺に反抗するとはいい度胸だな、と言いたいところだが、その点は安心しろ。業務に出た次の日は半休とする」
ルーシェルの言葉に、イルとラムの目が大きく開かれる。
ともすれば、溢れ落ちてしまうのではないかと思うほどに見開かれた四つの眼に、ルーシェルは居心地が悪そうに頬を掻いた。
「お前たちが倒れたら、元も子もないだろう。俺の方にも人員を割いてもらうよう、申請はした。こちらのことは気にせず、夢渡しに尽力してやってくれ」
「ル、ルーシェルさまぁ~!!!!」
「情けない声を出すな。お、おい、まさか、今俺の服で拭ったのは鼻水じゃないだろうな!?」
「ふ、ふふ」
「笑ってないで、何とかしろイル! お前の相方だぞ!」
「申し訳ありません。私も涙で前が見えないので、ルーシェル様の懐を借りたく存じます」
「やめんか!」
ぎゃいぎゃい、と珍しく騒がしいルーシェルの執務室に、本日の研修を終えたヨフィエルとアマネがひょっこりと顔を見せる。
「あら、なあに? 随分楽しそうなことをしているじゃない。私たちも混ぜてちょうだいな」
「……ややこしいところに、顔を出すんじゃない」
両足にイルとラムをくっ付けたルーシェルの姿に、アマネが小さく笑い声を奏でた。
「う、ふふっ、す、すみません。何だかとっても微笑ましくて」
「なら、お前にも分けてやる。こちらに来い。鼻水まみれのラムを贈呈しよう」
「――絶ッ対に遠慮します!!」
「あ、ひどい! アマネ様! そんな全力で拒否しなくてもいいじゃないですかあ!」
わあん、と大袈裟な泣き声を上げて近付いてくるラムを、アマネは俊敏な動作で避けた。
当然、彼女の後ろに立っていたヨフィエルがラム基――鼻水爆弾を受け止める羽目になってしまい、「嘘でしょ!?」と声にならない悲鳴を上げている。
「ヨ、ヨフィエル様まで、ひどいですよ~!!」
「ごめんね、ラムちゃん。でもこればっかりは生理的に無理なの……。天使に鼻水って必要なのか、今度お父様に掛け合わなくちゃ……」
「真剣な顔で阿呆なことを抜かすな。アマネ、お前にも伝えておくが、暫くは『夢渡し』の業務に入ってもらうぞ」
「わ、私がですか?」
「ああ。欠員が出たらしくてな。イルとラム、それからお前に声が掛かった」
欠員、という言葉にヨフィエルの紅顔が翳りを帯びる。
夢渡しの業務は年に数度、人員が入れ替わることがあるが、今年はまだ新人が入ったばかりで空きはなかったはずだ。
「……お前たちは明日からの業務時間をミカエルのところに行って確認しろ。アマネ、お前も二人と一緒に自分の時間割を貰ってくるといい」
そんな険しい表情の弟にルーシェルが気付かないはずもなく、彼は首尾よく小さな弟妹たちを部屋から追い出した。
パタパタと忙しなく走っていく天使たちの足音を背に、ヨフィエルが「どういうことですか」と口火を切る。
「『夢堕ち』だ」
「二人一組であるこちらが競り負けるほどの、ですか?」
「ああ。恐らく、並の悪魔ではない。もっと上級の存在であることが示唆されている」
「…………まさか、あの方が?」
「そこまでは分かっていない。人間に悪影響が出ないように、暫くは人員を増強し、様子を見るとのことだ」
常にも増して硬い口調で言葉を告げると、ルーシェルはそれっきり黙り込んでしまった。
きっと、彼の頭の中には今、ひとりの女性が描かれていることだろう。
ヨフィエルは長兄から視線を逸らすと、グッと握り拳を作った。
「『俺』が出ます」
「――何を言う! お前が出れば、誰が門を守ると言うのだ!」
「ですが、あの方の狙いはきっと『俺』か『貴方』です」
「ヨフィエル!!」
「分かっておいででしょう、ルーシェル兄様。我らの内、どちらか一人が出てくるまできっと、『イヴ』様は諦めませんよ」
迷いなくイヴの名を口にしたヨフィエルに、ルーシェルは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「ならば、俺が行く。瘴気への耐性なら俺の方が強いだろう」
「ですが」
「それに、お前は天界にとってなくてはならない存在だからな」
ルーシェルの手が、ヨフィエルの頬を優しく撫でた。
久方ぶりに感じる長兄のあたたかな体温に、ヨフィエルの眦に涙が浮かんだ。
「それは、貴方にも言えることですよ。ルーシェル兄様」
「そんなことを言うのは、お前くらいだ」
地獄から舞い戻った日。
快く自分を迎え入れてくれたのは、このヨフィエルだけだった。
ミカエルやガブリエルとて、説得に通い続けてくれたことに変わりはない。
だが、それは神から与えられた命を執行するため、義務感といったものに近くて、ルーシェルには彼らの心根が理解できなかった。
自分が知らない間に、門番を任されるようになった四人目の弟。
他の天使が臨戦体制を取る中でただ一人。彼だけは、ルーシェルに刃を向けなかった。
それがどれほど、嬉しかったか。
眼前の弟はきっと知るはずもない。
「至高の美。その名を賜ったお前が、あんな薄汚れた場所へとわざわざ堕ちる必要はない」
「兄様、」
「それに――俺は一度、堕ちた身だ」
地獄には慣れている、とルーシェルが告げれば、ヨフィエルの顔が途端に曇る。
「ルーシェル兄様」
「……二度は言わん。この件は俺が預かる」
ルーシェルはその言葉を最後に口を噤んだ。
そんな長兄の姿に、ヨフィエルも何も言えず、こくりと頷くだけに留まった。