序章、雨音

サアサア、天井から降り注ぐ雨が、静かに時雨の頬を濡らした。
久しく感じたことのない外界の空気とともに落ちてきた天井の残骸と、その上に降り立った男に視線が釘付けになる。
男は時雨の視線に気が付くと、額から流れていた血を乱雑に拭った。
琥珀の双眸が、獲物を捕らえた狼のような鋭さを持って時雨を射抜く。

「時雨(しぐれ)ってのは、お嬢ちゃんか?」

聞き慣れない声の低さに、時雨は思わず後退った。
手と足に繋がれた鎖が、柔らかいベッドには似合わない耳触りな音を奏でる。
男から視線を外さないまま、時雨は自分を守るように、骨の浮いた細い腕をきつく身体に巻き付けた。
雨特有の湿った香りが、じんわりと染み込むように部屋の中を満たしていく。

「おいって。聞いてんのか? お前に言ってるんだよ」

男は痺れを切らしたかのように、ガシガシと己の髪を掻きまわすと、鋭い舌打ちをひとつ零した。
そして、瓦礫の山からゆったりと下りてくると、時雨が蹲っている寝台に片膝をつく。

「悪かった。怖がらせるつもりはない。俺は、お前の姉ちゃん――梅雨(つゆ)に頼まれて、お前を迎えにきたんだ」

――梅雨。

男の言葉に、時雨はハッと息を飲んだ。
久しく聞くことのなかった名前に、涙で視界が滲んだ。

「う、うそだ。ねえ、ちゃんは、死んだって、おじさんが」
「……ああ、そうだな」

男の顔が、くしゃりと歪む。

「死ぬ間際に、頼まれたんだ。妹を助けてほしいって。随分と遅くなっちまったが、梅雨の代わりにお前を迎えにきた」

立てるか、と言われて、時雨はふるり、と頭を振った。
もう随分、自分で歩いた覚えはなく、ここ最近まともな食事を摂っていなかった所為で、座っているのもやっとだった。
そんな時雨の様子に男が眉間に深い皺を刻む。
雨に濡れた男の髪から雫がひとつ、ぽたり、とシーツに染みを作った。
拳一つ分ほどの距離を置いて近付いてきた男は、肌に纏わりつく水分を煩わしそうに拭うと、端正な顔立ちをこれでもかと曇らせて、盛大な溜め息を吐き出す。

「ったく、趣味悪いっての」

ガキン、と引っこ抜かれた鎖の音に驚いて、思わず前のめりになった時雨の小さな身体を男が難なく抱き留める。
次いで、そのまま抱き上げられたかと思うと、天井の穴と時雨とを見比べながら、真剣な声音で言葉を発した。

「……ここで死ぬのを待つか、俺と一緒に来るか、お前が自分の意思で選べ」
「え、」
「梅雨に頼まれたのは、お前をこの地下室から解放することだけだ。上にいたやつらも全員始末してある。お前がここに残りたいというのなら、当分は生活できるよう金を工面してやってもいい」

男の目は冷たかった。
けれど、その冷たさが時雨に冷静さを取り戻させてくれた。
劣悪な環境であったとはいえ、この家には梅雨と過ごした思い出がたくさんある。
ここでひとり朽ち果てるまで過ごすのも悪くはないかもしれない。

(時雨)

ゆるり、と柔らかく微笑んだ梅雨の顔が、脳裏を鮮やかに彩る。

「時雨は……、時雨はあんたと一緒にいく」
「いいんだな?」
「うん」

雨音はまだ止まない。
サアサア、と。
濁った心が、僅かばかり綺麗になったような気がした。