1話『姉妹』

最初に鼻を衝いたのは、煙の臭いだった。
身近で嗅いだことのないそれに、顔が歪むのが分かる。

「お? 起きたか。随分と気持ちよさそうに寝ていたから、死んだかと思ったぜ」

至近距離から聞こえてきた男の声に、[[rb:時雨 > しぐれ]]は唇を尖らせてムッとした。

「しんでない」
「ははっ。ひでー声だな。待ってろ。もうすぐ迎えが来るからよ」

掠れた声で文句を垂れても、男にはてんで効いた様子はなかった。
辺りを見渡せば、いつの間にか屋敷を脱出していたようで、薄暗い夜と朝の狭間の空が眠そうな星の光で地面を照らしている。
頼りない浮遊感は、男が時雨のことを横抱きにしたまま歩いていたからだった。
男が一歩、また一歩と地面を歩くたびに、時雨にもその振動が伝わってきて、慣れない高さの視点と他人の歩幅に、喉元まで吐き気が押し寄せてくる。

「うっ」
「どうした、吐きそうか?」
「ん」

こくこく、と素直に頷いた時雨に、男は道端にあった用水路の方まで移動した。次いで、繊細な手付きで、壊れものを扱うかのように時雨をそっと地面へ下ろした。
足にはまだ力が入らない。
その所為で、四つん這いにならざるを得なかった時雨は、仕方なく這う這うの態で、用水路に顔を寄せた。
込み上げてくる吐き気に逆らうことはせず、胃の中に残っていた僅かな食事と胃液を嘔吐する。

「うぇえええ……ごほっ、げほっ……ううぅ」

戻した際に目から、鼻から、身体中の穴という穴から一緒になって水分が放出されたような気がした。
涙と鼻水、それから冷や汗まみれになった時雨の恰好を見て、男が「あーあー」と憐みの籠った眼を投げて寄越す。

「おら、これで顔拭いとけ。せっかくの可愛い顔が台無しじゃねえか」

時雨は差し出された真っ白な手拭いをありがたく受け取ると、吐瀉物や涙でべとべとになった顔をごしごしと拭った。
さっぱりした、と声には出さず、表情で雄弁に語る時雨に男が口角を上げる。

「まだ吐きそうか?」
「へいき」
「そうか。なら、もう少しだけ歩いておこう。迎えには屋敷から出来るだけ離れて待つように言われてるから」
「ん」

時雨が返事をするや否や、男は再び時雨のことを抱き上げた。
今度は酔わないための配慮なのか、逞しい腕が時雨の尻を支え、まるで椅子に座るかのような安定した持ち方で、ずんずんと先を進んでいく。

◇ ◇ ◇

日が昇り始め、辺りが白んできた頃。
遠くから聞こえてきた蹄の音に、男の顔がゆるりと和らいだ。

「東雲(しののめ)~!! お待たせ~!!」

何かがものすごい勢いで男と時雨のもとに近付いてくる。
それは、見たことのない生きものだった。
つやつやと光るしなやかな四肢と、風に舞う艶やかな栗毛が朝焼けの中を縫うように走ってくる。
その後ろにくっついた固そうな布が被せられた小さな荷台――小屋が後ろにくっついているようにも見えた――と生きものの間に座っている人物がこちらに手を振りながら「お待たせ~」と再度声を上げた。

「……どうどう。いい子だね、飛々(フェイフェイ)。君のおかげで半刻も掛からなかったヨ」

白い手が生きものを労うように優しく撫でつけるのを、時雨は目を丸くしながら凝視していた。
その手の主の顔に、奇妙な鬼の面が付けられていたからである。

「悪いな、小炎(シャオイェン)。反対側まで迎えに来させて」
「ホントだヨ。抜けてくるの大変だったんだからネ」

男――東雲が鬼面を付けた青年の肩を叩きながら感謝を述べると、鬼面の青年――小炎が呆れたように東雲を睨んだ。

「そんでもって、この子が噂の時雨ちゃん? へえ、これはなかなか……。今から将来が楽しみな風貌だネェ」

面の隙間から覗く紅色が、時雨のことを覗き込む。

――食べられる。

第六感が危険を察して、時雨の身体は縮こまった。
きゅう、と痛いくらいの強さで東雲の首に手を回せば、頭上で「ぐえっ」と蛙が潰れたような声が上がった。

「く、苦しい。落ち着けって、時雨。おい小炎、一旦ちょっと離れろ。お前の面、至近距離で見ると怖いんだよ」
「え~? ボクはこれ結構気に入ってるんだけどナァ」
「……この際だからはっきり言うけど、俺でもちょっと怖いぞ、それ」
「むぅ」

渋々と言った様子で離れた小炎に、時雨の身体から漸く力が抜ける。
それにホッと一息ついたのも束の間――小炎がやってきた方向から土煙が上がっているのが見えた。

「お前、抜けてきたって言ってたけど、まさか……」
「ヒヒッ。最短距離で突っ走ってきたから、付いてきちゃった」

ごめーん、と悪びれもなく小首を傾げた小炎に、東雲が馬車の中へ飛び込む。

「分かってんなら、さっさと出せ!! 追い付かれるぞ!!」
「はいはい。ったく、ボク遣いが荒いったらないネ」
「小炎ッ!!」
「じゃ、出発進行ォ~!」

小炎が手綱を小気味良く弾く。
飛々が嘶いたかと思うと、突風の中に飛び込んだかのような速度で地面を駆け始めた。
治まっていたはずの吐き気が再び顔を覗かせようとするのを必死に耐える時雨を嘲笑うかのように、舗装されていない道を猛スピードで進んでいく。

「うえッ」
「待て待て待て! ここで吐くなよ! 今日の依頼品も積んでんだ。吐くなら道に向かって顔出してくれ!」

慌てた東雲に布の隙間から顔を出すように言われて、その通りにする。
びゅんびゅん、と入れ替わる景色の早さに、胸に込み上げてきた吐き気がすうっと消えるのが分かった。

「……きもちいい」
「なら、良かった」

東雲が安堵の溜め息を漏らす。
馬車の中は、お世辞にも快適とは言えなかったが、見たことのない草花や高そうな装飾品が至る所に吊るされていて、見ているだけで十分楽しかった。
外の景色に飽きた時雨は、東雲を安全ベルトにして、彼の膝の上から手の届く範囲の物をかき集めては、それぞれの用途を東雲に問い質した。

「こっちは、血止めの薬草。これは、婦人薬に使うもんだな。ああ、それには触るなよ。俺が後で小炎にどやされる」

そんな風に何度か質問を繰り返しているうちに、目的の場所へと辿り着いたらしい。
ゆっくりとした歩調になったのを感じて、東雲は馭者席に座る小炎に視線を送った。

「何とか撒いたみたいだヨ。どうする? 先に黒燈(こくひ)のところに行こうか?」
「そうだな。星羅に頼んで何か恵んでもらおう」
「はァい」

大人たちの会話を横目に、時雨は再び布を持ち上げて外の景色を眺めることにした。
先程まで走っていた湿原の姿から一変――人や馬が入り乱れながら往来を歩いている様に思わず「わあ」と感嘆の声が漏れ出る。

「どうした?」
「ひと、いっぱい。時雨、こんなのはじめて」
「こんなの、まだ少ない方だぞ。もう少し進んだら、もっといっぱいになる」
「すごい」

キラキラと輝く瞳に、東雲が苦笑を零す。
何でもかんでも新鮮に映る時雨の視界が、少しだけ羨ましく思えた。

東雲と小炎の友人、黒燈の店に辿り着いたのは昼時より少し早い時分であった。
敷布の製作や染色を商いとしている黒燈の店があるのは中央通りから少し離れた――裏街と呼ばれる場所にある。
『黄昏通り』の異名を持つこの通りは、その名を冠するに相応しく夕方から営業を始める店が多かった。
黒燈の店もその一つで、主な客は同じ通りにある娼館や飲み屋の従業員や客たちである。

「おう。遅かったな」

右目に革で造られた眼帯を付けた男が片手を上げて小炎に声を掛ける。

「ごめんね~。途中で東雲を回収してたら、時間が掛かっちゃって……」
「おいっ! 他人の所為にしようとするな! 半分はてめえが追手を引き連れてきたのが原因だろ!」

ぐあ、と噛みつく東雲の姿に、眼帯の男――黒燈が口元に弧を描いた。

「わーった。わーったから、店先で叫ぶな。俺ァ、荷が無事なら文句はねえよ」

暗に現物を早く見せろと催促されていることに気付いて、東雲が時雨を抱えたまま片手で幌の袷を解いた。
緩くなった入り口から見えた荷台の中には、黒燈ご所望のお高い布が小山を形成している。

「はい、確かに。今回もご苦労だったな。泥を落としたら、いつもの部屋に来い。星羅が腕によりをかけて食事を用意している」

食事、という言葉にいち早く反応したのは、今の今まで馭者席で重労働を強いられていた小炎である。

「いやっほう!!」

どこのいたずら小僧だ、と言わんばかりの喜びようで馬車を厩番に預けると我先に駆け出していった。

「待て、小炎。俺らの分も残しておけよ」
「わーかってるよぅ!」
「ありゃ絶対分かってねえな」

子どもみたいに燥ぎながら消えていった後姿を見送ると、東雲は静かになった腕の中に視線を遣った。
見れば、黒燈の顔と東雲の間を忙しなくいったりきたりしている小さな眼と目が合った。

「こいつは俺の友達。今からご飯食べさせてくれるんだってよ」
「ともだち、ごはん……」

こてん、と首を傾げる時雨に、東雲が苦笑を噛み殺す。

「何だ、どうした? 遂に人身売買にも手を出したのか」
「ちげーっての。――こいつ、梅雨の妹」

先程から気にはなっていたのだろう。
黒燈があからさまな口調でからかってきたので、普段の仕返しも兼ねてすっぱり言い放ってやると、その顔が瞬く間に悲痛なものへ変わった。

「……そう、か」
「おう」
「お前たちがいつも使っている向かいの部屋に、アレがガキの頃に着ていた服がある。好きに使え」

よろよろ、と先程までの威勢の良さが嘘みたいに項垂れた黒燈が小炎を追うように建物の中に入っていく。

「ありゃ、重症だな」

丸まって小さくなった背中を見て、東雲が肩を竦める。
時雨は尚も不思議そうに首を傾げるだけだった。
食事が用意された部屋に行くと、東雲と時雨の姿を捉えた黒燈の部下、星羅(せいら)が悲鳴を上げた。

「そんな恰好で食事をさせるわけにはいきません! 二人とも、お風呂に入っていらっしゃい!!」

げ、と顔を引き攣らせたのは東雲で、「お風呂」という聞き慣れない単語に瞑目したのは時雨だった。

「ヒヒッ。怒られてやんの~。今日ばかりは星羅に逆らうわけにはいかないネェ」

そう言って、小炎が箸で器用に摘まみ上げた料理を見て、東雲が獣よろしく唸った。

「何で今日に限ってシュウマイ作ってんだよ……!」
「東雲様の好物を、と黒燈様と小炎様に頼まれたからです」
「ふっふっふ~。平らげられたくなかったら、さっさとお風呂に行っておいで~」

悪魔だ、鬼だ、と散々詰ってみたものの、小炎と星羅の意思は固く、東雲は泣く泣く風呂に入らざるを得なくなってしまった。
今頃になって、額に負った傷がじくじくと痛みだしたような気がしてくる。

「おふろ、なに?」
「あー……。身体を綺麗にするところだよ。俺ァ、ちょっと苦手なんだ」
「東雲の風呂ギライはちょっとってレベルじゃないでしょ」
「うるせえ! 誰の所為で生傷が絶えないと思っていやがる!」

舌を突き出しながら、風呂に向かった東雲の背中に、小炎と星羅の笑い声が痛いほど突き刺さった。

黒燈の店は、従業員が住み込みで働いていることもあり、二階の一部が住居を兼ねた造りになっている。
渡り廊下を越えて、白壁が目立つ建物に入ると、東雲は深い溜め息を零した。

「よし、じゃあ服を脱げ」

少し湿気の多い部屋に入ったかと思うとそんなことを平然と言ってのけた男に、時雨は目を丸くした。
次いで、眉間に深い皺を刻んだ少女に、東雲が片手を彼女の前に突き出して「待て、誤解だ」と言った。

「言っておくが変な意味じゃないぞ。湯に浸かるのに、服を着たままだと困るだろ」
「別に困らない」
「いやいや、俺が後で星羅に怒られるから」

言いながら時雨が着ているボロボロの服の帯を外そうとした東雲に、時雨が「いやっ」と初めて大きな声を出した
かたかた、と小さく震える肩と、はっきりとした拒絶の色を滲ませる幼い双眸に、東雲が猫のように目を細める。

「……心配しなくても俺は一緒に入らない。お前の裸を見ることも、触ることもしないと約束する」

暗に何もしないと伝えてみるも、時雨の震えが治まる様子はない。

「ほんとに? ほんとに、なにもしない?」

それから数分の睨み合いを経て、時雨がか細い声でぽつりと言葉を吐き出した。

「ああ」
「……はだか、なると、叔父さんたちが触ってくる。いつも怖かった」

告げられた内容に、東雲の喉がグッと詰まる。
こんな幼い少女を相手に無体を働いていたのか、と思うと、殺したはずの男たちをもう一度殺してやりたい衝動に襲われる。

「俺がアイツらと一緒のことするわけないだろ」
「ん」
「……怖いなら、外で待ってようか?」
「いい。ここにいて」
「分かった」

時雨はふう、と深呼吸すると、自分から帯を解いた。
元は白い服だったのだろう。
黄ばんだ服の内側は所々に本来の色を残しながらも、血や汗が滲んですっかり汚れてしまっていた。

「脱いだ」

あまりじっと見ていてはまた脱ぎたくないと言われかねないと途中で目を逸らした東雲に、時雨が元気よく服を取っ払ったことを宣告する。

「じゃあ、この手拭いを二枚持って中に入れ。一枚濡らしたら、手だけ出して俺に渡して」
「ん」

ガラララ、と軋んだ音を立てながら浴室の扉が開かれる。
長い黒髪がカーテンのように揺れて、時雨の白い肌を隙間から見え隠れさせた。
汚れた服を着ていたわりに、その肌は雪のように真っ白で、東雲は知れず見入ってしまった。思わず手を伸ばしそうになったのを「東雲?」と名前を呼ばれたことで正気を取り戻す。

「アレ、入るの?」
「そうだ。あそこに桶があるだろ? あれで身体に湯をかけてから、あの中に入るんだ」
「わかった」

先程まで裸になることを渋っていた少女と同一人物にはとても見えない様子で、嬉しそうに風呂の中へ入っていった時雨の横顔が、記憶の中で彼女の姉――梅雨と重なる。

「……そっくりだな」

初めて風呂を見た反応まで一緒だ、と東雲は小さく笑みを噛み殺した。
それから何事もなく風呂を終えた二人――東雲は時雨に絞ってもらった手拭いで身体を拭いただけである――は、先程、黒燈から教わった部屋に足を運んでいた。
生前、梅雨は黒燈の店で暮らしていたこともあり、幼い頃に彼女が身に着けていた服を数着ほど黒燈が残していたらしかった。

「大事に取っている辺り、黒燈の兄貴も難儀な性格してるよな」

ありがたい気持ちが半分、自分の知らない梅雨の姿を知っている嫉妬が半分、東雲の中でせめぎ合う。

「これ、姉ちゃんの?」
「ああ。そうらしいぞ。好きなの着ていいってさ」

梅雨は青い服を好んで着ていた。
柘榴のように燃える赤の瞳をしていた彼女に、東雲が「赤とかも着てみれば」と告げると、彼女は決まっていつも同じ台詞を繰り返した。

『たまにしか会えない妹の色を身に纏っていたいの。そうすれば、いつでも一緒にいる気がするから』

ぼうっとその言葉を思い出して、東雲は時雨の顔を覗き込んだ。
大きめのタオルを身体に巻き付けた少女は、あれでもない、これでもないと箪笥の中を漁るのに夢中で、東雲の視線に気が付く様子はない。

「時雨」

思わず名前を呼べば、小さな目が「なに」と言いたげに東雲を見上げる。
空色の宝石が二つ。まだ幼さの残る顔つきの中で、堂々と輝きを放っていた。

「いや、どれにするのか決まったかな、と思って」
「まだ」
「そうか」
「もうちょっと、見たい」
「……お前、もしかして、全部着たいとか思ってねえよな? 重ね着するにも限度があるぞ」

五着ほど手に持ったまま固まった時雨に、東雲が「嘘だろ」と片手で両目を覆った。

「別に今日全部着なくても、明日や明後日に回せばいいだろ。逆にそれ全部着たら動きにくくて仕方ねえぞ」
「う、動けるもん」
「ぜーったい無理。――今日はこれにしとけ。明日また違うの着ればいいから」
「ううぅ」

東雲が選んだのは、白地に薄い青で蓮の花が描かれていたものだった。
小さく唸り声を上げて抗議する少女の頭を軽く叩いて、ほとんど強制的に頭から服をかぶせる。
時雨には少しだけ大きかったのか、袖で手先が隠れて見えなくなってしまう。だが、丈の方は問題ないようで、膝小僧が見え隠れするそれに東雲は満足そうに頷いた。

「よしっ。戻ってシュウマイ食うぞ!」
「ん!」

満腹になったことですっかり気が抜けたのか、布団の上で寝息を立てる少女の姿に、黒燈と東雲は二人して眉尻を下げた。

「食べたらすぐ寝るとこまで一緒かよ」
「そうさな。容姿だけじゃなく食い意地が張っているところまでそっくりと来た。……まるで、梅雨が生き返ったのかと一瞬錯覚するくらいには、よく似ている」

夜色の髪を優しく撫でつけた黒燈の横顔に、東雲が苦虫を噛み潰したような表情になる。
梅雨を看取ったのは、この店だった。
血の気が引き、冷たくなっていく彼女の身体を思い出して、東雲がグッと奥歯を噛み締める。

「……すまん。嫌なことを思い出させたな」
「いや、俺の方こそ。何も知らせず、悪かった」
「いいんだ。時雨が生きているとは思ってもいなかったから」

深い溜め息を漏らした拍子に、黒燈の長髪が垂れて彼の顔を覆い隠してしまう。

「梅雨の分も、こいつを頼む」
「……ああ」

東雲はそれだけ答えるのがやっとだった。