第1章『英雄の息子』2話

「シュラ」

 舌足らずな声が自分を呼ぶ。
 ぱち、と瞼を開いたシュラの視界に飛び込んできたのは、金色のカーテンだった。

「あさ。ききょう、呼んでいる」
「んー」
「はやく」
「分かっているよ。煩いな」

 銀と緑の異なる宝石は曇ることなく真っ直ぐに己を見ている。それがまたシュラの居心地を悪くさせた。

「というか、お前がそこに居ると起きられない。退いてくれないか」
「ん」

 今度は素直に言うことに従ったソレを一瞥し、緩慢な動作で身体を起こす。
 ここ数日を経て、漸く見慣れるようになった金色がシュラのベッドの端にちょこんと可愛らしく鎮座していた。

「おはよう」
「ああ」
「おーはーよーうー!」
「だから、ああって言っただろう。一体、何が不満なんだ」
「ちゃんといってない」
「……母上の所為で余計なことばかり覚えるな、お前」

 はあ、と深くため息を吐き出すと、シュラは徐にソレへと手を伸ばした。
 絹糸のような肌触りの髪をこれでもか、ともみくちゃに掻き回しながら、大きな声で「おはよう!」と叫んでやる。
 至近距離の攻撃に悶絶したソレを見て、漸く腹の虫が治ったシュラは、機嫌を損ねてはたまらないと、自らが乱した髪を手櫛で直してやった。

「悪かったって、ほら。今日は普通のでいいのか?」
「エルヴィ、おこった」
「だから、ごめんって言っているだろ」
「シュラ、いじわるする。きらい」
「だー! もー、面倒くさいなぁ」
 お詫びに好きな髪型にしてやる、と白旗を上げた。途端にぱあ、と表情が華やんだエルヴィにそっと胸を撫で下ろすと、そこへ運悪く妹がやってきてしまった。

「エルヴィー? 兄上を起こしに行くのにいつまでかかって——なに、してるの?」
「ご、誤解だアンナ。俺は、髪を整えてやろうと思っていただけで」
「女の子をベッドに上げておいて、誤解も何もないでしょう!? 母上、母上ー!! 兄上がエルヴィのこと、押し倒しているーっ!」
「ちょ、待てこら! 尾鰭を増やすな!!」

 ぎゃーすか騒ぎ始めた兄妹に、エルヴィがこてんと首を傾げていると、朝から騒々しい長男長女に般若もかくやといった表情の桔梗がドアの前にやってきて二人を睨んだ。

「こんな朝早くから騒がないでくれる? ご近所さんに迷惑が掛かるでしょう?」
「す、すみません」

 美人が怒ると怖いというが、桔梗のそれは更に上をいく。彼女の両腕に宿った龍神とそれを模った刺青の所為で、より一層凄みが増しているのである。

「二人とも、さっさと顔を洗っていらっしゃい。今日は、ホロさんたちの所に行くんだから」
「はーい」

 間延びした返事を残して我先に洗面台へと向かったアンナを恨みがましく見送ると、未だ己の腕の中に収まったままの少女にシュラは視線を落とした。

「今日はアンナが居るし、アンナに髪をしてもらえば良いだろ」

 それまでずっと三人のやり取りを黙って見つめていた目がシュラを見上げる。

「エルヴィの番、シュラ。シュラだけ触っていい、あさひさまいった」
「……あ、そう」

 ぱちぱちと瞬きを繰り返す息子に、桔梗は笑い声を上げそうになるのを必死に堪えた。
 あれはちょっと照れたときの顔だ。
 ああいう顔も夫であるシアンと瓜二つなのだから、遺伝子とは恐ろしいものである。
 母親が居ることも忘れて、髪型の相談を始めた二人の背に笑みを溢すと、桔梗は食事の準備をするために階段を降りていくのだった。
 シュラや下の兄弟たちが通っている魔導学校では生徒の入寮が義務付けられている。
 ただし、最高学年の中で最終試験――騎士見習い訓練――の受験を認められた者は、一時的に自宅へと戻る許可が下りる。そのため、シュラは現在、自宅から聖騎士団に通っていた。
 そして、二ヵ月に一度ある魔導学校の一週間休みとシュラの最終試験の日程が重なったこともあり、今朝のウェルテクス家の食卓は随分とにぎやかだった。

「おはよう、兄上。……今度から時と場所は考えたほうがいいよ?」

 二番目の妹であるシィナの冷たい視線に刺されたシュラは、その隣ですました顔をしているアンナを睨んだ。

「アンナ、お前……!」
「私は何も言ってないわよ~? エルヴィが嬉しそうに髪を見せびらかしていたから、バレたんじゃない?」 

 妹が二人もいると厄介である。
 これ以上は何を言っても無駄だと判断すると、シュラは件の少女の行方を探した。

「リオ、キヨ、つれてきた」
「きたー!」
「……きた」

 双子の手を引いて現れた彼女にホッと息を吐いたのも束の間、両隣に飛んできたわんぱく坊主たちのセリフによってシュラは額を強くテーブルに打ち付けることになる。

「兄上、ちゅーした!?」

 元気いっぱいにそう言ったのは、双子の兄、リオラだ。朱色の髪から覗く目がきらきらと輝いている。

「エル姉、かわいいから、ちゅーする?」

 そう続けたのは、リオラと対処的な銀髪が目立つ双子の弟、キヨラである。普段は寡黙なくせに、こういうときばかりは一緒になってやかましくなるものだから手に負えない。

――ゴンッ。

 鈍く響いたテーブルの音に、それまで子供たちのやり取りに聞き耳を立てていただけの桔梗も、キッチンから野次馬根性丸出しで顔を出す。

「す、するわけないだろ! こんな訳の分からない奴と!!」

 こういうちょっと残念なところも、夫に似てしまったなあ。
 ふぅ、と瞼を押さえて天井を仰ぐと、桔梗は仕方なく助け舟を出してやることにした。

「あなたたち、私の話を忘れたわけじゃないわよね? 今日はホロさんたちのところに行くから、早く支度を済ませなさいって言わなかったかしら?」

 先程までの喧騒が嘘のように食事を再開した子供たちに肩をすくめて、自分もその輪の中に加わる。

「さあ、エルヴィも早く座りなさい。フルーツなら食べても大丈夫よね?」
「……たぶん?」
「一週間くらい水やお粥で慣らしたからきっと大丈夫。それに、昨日もらったばかりの桃だから美味しいわよぉ」
「ん」

 そう言うとエルヴィは、シュラの真正面に座った。

「……いや、アンナの隣でも良かっただろ。どうしてそこに座るんだよ」
「?」
「む、無自覚なのが、また腹立つぅ~」

 はあ、ととてつもなく大きなため息を吐き出した息子を桔梗が咳払いで黙らせると、一同は食事を再開した。

 ◇ ◇ ◇

 第一級犯罪者の烙印を押されたホロは、本来であれば聖騎士団を追われる予定であった。
 だが、彼の持つ技術や魔法の特殊さ故、それは一旦白紙となり、事態は長期化もかくやといった状態でホロは一時的に投獄されることになった。
 そこへ東の国国王の名代の桔梗と西の国屈指の武人であるウェルテクス将軍がやって来たものだから、元老院の面々は一様に冷や汗を浮かべたものだ。
 結果として、魔力制御装置の装着と側に監査官を配属させることを条件にホロはクラルテから少し離れた場所で特務少佐という新しい役職を与えられ、研究の日々に明け暮れている。

「ホロさーん。私です。開けてもらってもいいですか?」
『やあ。お待ちしていました、宮様。今、開けるね~』

 クラルテと世界樹を見渡せる小高い丘に彼の研究施設はあった。
 厳重な結界魔法と重厚な門を三つ抜けた先に古い砦を改装した建物が見えてくる。

「いらっしゃい~」

 その入り口に、昔よりも長く、ボリューミーになった髪を一つに結んだホロがへらりとだらしのない顔で笑いながら、こちらに手を振っていた。

「すみません。急にお願いして」
「丁度、研究がひと段落したところだったから大丈夫だよ。……この子が例の?」
「はい。世界樹の『蕾』です」

 ホロの緑色の眼が、不敵に瞬いた。
 これは良くない反応だ、と桔梗が苦笑するのと、シュラがエルヴィを庇うように自分の背中へと隠したのはほぼ同時だ。

「ちょっと、シュラくん。そこをお退きなさい。よく見えないでしょうが」
「見せないようにしているんですよ。どうせ先生のことだから『解剖していい?』って言いだすでしょう?」
「……よく分かっていらっしゃる」
「いいですか? 痛いことはなしですからね?」

 どこかで見たことあるような光景だなぁ、とどこか他人事のように彼らのやり取りを見守っていた桔梗だったが、不意に肩を叩かれて、弾かれたようにそちらを振り返った。

「アギアさん! お久しぶりです! いらしていたんですね」
「ええ、まあ。定期検診と弟の様子見を兼ねて」

 弟、というのは、ホロのことである。
 アギアはかつて、旭日の依り代として身体を乗っ取られていた。器には大きすぎた魔力量の所為で肉体が変化し、十八年前に意識を取り戻したあの日から、外見がまったく変わっていない。きっと、これから先も彼の身体はひどくゆっくりと歳を取ることになる。

「体調はどうですか?」
「桔梗様は心配性ですねぇ。大丈夫ですよ。今のところ、変わったことはありません」
「なら、良いのですが」

 ほっと胸を撫で下ろした桔梗に笑みを浮かべると、アギアはホロと彼の興味を掻き立てているエルヴィに視線を移した。

「……人、ではありませんね?」
「はい。旭日様が世界樹の蕾に器を」
「なるほど。道理で懐かしい気配がすると思いました」

 優しく細められた目には、怒りも憎悪も感じられない。自分の身体を使って繰り広げられた惨劇を知っているはずなのに、目覚めた彼が最初に告げた言葉は『ホロは、俺の弟は無事ですか!?』だったものだから、拍子抜けしてしまったことを今でも昨日のことのように鮮明に思い出せる。

『相変わらずだな、お前は』

 ぬるり、と姿を現した旭日に、アギアの表情が綻んだ。

「お久しぶりです。旭日様」
『ふん』

 この二人のやり取りにもすっかり慣れてしまった。
 桔梗は母が子を見守るような優しい笑みを浮かべて彼らを見ていたが、不意に息子の「ぎゃあ!」という悲鳴に現実へと引き戻される。
 ホロがシュラを片膝で地面に縫いつけ、エルヴィの腕に今にも注射針を刺さんとしていた。

「ホロさん~??」

 ビリッ、と静電気を纏った桔梗に、ホロが眉尻を下げた。
 ここには研究を記録するための機械がたくさん置いてある。こんなところで、桔梗が雷を発生させれば、あとで部下や手伝いに来てくれている学生たちに泣きつかれるのは目に見えていた。
 慌ててシュラから足を退け、エルヴィの腕を離したホロを見て、桔梗も魔力を収める。
 次いで、だらしのない格好で床に伏したままの息子に青筋を浮かべた。

「ホロさんはこう見えて対人戦が得意だから油断しちゃだめって、いつも言っているでしょう? いい加減、学習なさい」
「……すみません」
「さ、立って。――ホロさんもあまり息子をからかわないでください」

 そう言ってため息を吐き出した桔梗に、ホロの眦が和らぐ。

「ごめんって~。それじゃあ、今度こそ、本当の検査しようか。あっちの部屋に全身の魔力感知が可能な機械があるから、先に行って待っていてくれる?」
「分かりました。行くぞ、エルヴィ」
「うん」

 雛鳥のようにシュラの後について行ったエルヴィの後ろ姿を見送って、ホロは肩を竦めた。
 そんな彼の様子に、桔梗とアギア、そして旭日の顔が曇る。

『何か分かったのか?』
「……ええ、まあ。早めに手を打たないと、まずいということが」
「どういう意味ですか?」
「彼女、自分の体内で魔力を生成して、循環することが出来ないみたいなんだ。あとで、詳しく検査したら、はっきりとした数値は分かるだろうけど。このままだと、世界樹が保たないのは確かだね」

 世界樹が保たない。
 桔梗は思わず、下唇をぐっと噛んだ。
 シュラが不用意に近付いてしまった所為で、蕾の魔力に異常を来したのか。
 重いため息を吐いた桔梗を慰めようとしたのか、彼女の左腕から黒髪の女性が姿を見せる。

『貴女の所為ではありませんよ、桔梗。世界樹は昔から代替わりを繰り返しています。今回の代替わりが常とは異なっているというだけです』
「華月様」

 母であり、また姉のような存在の華月からそう言われて、桔梗の表情に僅かばかりの明るさが戻る。

「それと世界樹が保たないのは、どう繋がるんだ?」

 アギアの問いに、ホロが困ったような笑みを口元に携えた。

「親は子を守ろうとするだろう? 世界樹は自分の魔力をあの子に注いで、成長を早めようとしている」
「そんなことをしたら、世界樹が」
「そ。だから、まずいかもしれないって言ったんだ」

 大人たちが深刻な表情で悩んでいることなど露知らず、別室に入ったシュラとエルヴィは呑気に機械を見て目を輝かせていたのであった。
 結果として、ホロの推測通りエルヴィは自分で魔力を生成することが出来ない、ということが判明した。 そうすると、困るのは世界樹周辺の村々である。
 世界樹が大地の魔力を吸い上げている所為で、未だ熱暴走が続いているのだ。
 まずは、世界樹の方をなんとかしなければならない、というのが聖騎士団の総意であった。

「さて、それではお集まりの皆さん。分かっていると思いますが、迅速に事を運ぶ必要があります」

 この数年で、すっかり迫力の増した――以前から皆に恐れられてはいたが――ユタの声に、会議室に集められた少佐から大将までの騎士の顔に影が落ちる。

「お前たちの魔法で氷漬けにしてしまえばいいんじゃないか」

 団長の言葉に、ユタの眼鏡が曇る。

「あのねぇ、シアン。私や兄さんが使う氷魔法は私たちの『魔力』で出来ているのよ? 吸収されてしまえば、余計に崩壊を早めることになりかねないわ」
「……なるほど」

 納得するように頷いたシアンだったが、その眉間には深い皺が刻まれた。

「現地に交代で騎士を常駐させろ。学術都市からも専門家を呼べ」

 ふう、とため息を吐いたのとほとんど同時に下された命に、その場に居た全員がコクリと頷きを返す。

「それから、シュラと同じ班の訓練生を団長室へ召集しろ」
「分かりました」

 同期の顔からすっかり副団長の顔へと戻ってしまったユタに、シアンは苦笑を噛み殺す。

「……俺も現場に行きたいなァ」

 ぽそりと呟いた小さな願望に、ユタは無視を決め込むと部屋全体に響き渡る凛とした声で解散を告げた。

 カチコチに固まった同輩を他所に、シュラはこれから待ち受けているであろう処罰について気が気ではなかった。
 一体、どんなことを言い渡されるのだろうか。
 もしかして、本当に十年間もあの場所に居なければならないのだろうか。
 良くない思考に陥っていることは分かっても、そこから抜け出す術が分からない。
 一人だけ別の意味で顔面蒼白になっている息子を見て、シアンはゆっくりと片眉を持ち上げた。

「お前たちをここに呼んだのは、最終試験の内容を変更するためだ」
「えっ?」

 少年少女の声が綺麗に重なり合う。

「世界樹の『蕾』の調査を最終試験とする。期限は半年間と変わりない。どうだろう? 受けてもらえるかな」

 どことなく先代団長のクラウドを彷彿とさせる物言いに、重厚な造りの椅子の後ろに控えていた桔梗とユタが思わず顔を見合わせた。

「……評価基準をお聞きしても?」

 声は震えていなかった。
 まだ微かに甘いアルトが残る少年の声がシアンを射抜く。
 この部屋に居る間は、親と子ではなく、聖騎士団団長と騎士見習いの少年という関係に位置付けられる。普段から自宅でも敬語を使っているとはいえ、この場でのシュラの発言は自分だけではなく、学友の将来を危険に晒す可能性を孕んでいた。

「騎士団は万年人手不足だ。上官が一人でも『優秀』だという判断を下せば、入隊を認めよう」

 通常の卒業試験では、数名の騎士に従事し、それぞれから、入隊の推薦状を書いてもらう必要がある。一枚でも推薦状が足りなければ落第であり、この場に居る三人の騎士のうち一人から評価をもらえば良いのであれば、最終試験も少しだけ有利になったような気がした。
 だが、それはあくまで『気がしただけ』であり、ここに居る猛者の一人から『優秀』の判を押してもらわなければならないことに変わりはなかった。

「どうする? ジェット、ラエル」

 最終試験では、初対面の騎士とでも連携が取れるように、異なる学科のクラスからそれぞれ一人ずつが選別され、三人一組での受験が義務付けられている。

「願ってもない申し出だ。俺は受けるよ」

 眦をくしゃりと歪めて、柔らかい笑みを零したのは、艶やかな金髪が特徴的な少年、ジェットだ。

「……二人が受けるっていうのに、アタシだけ受けないってわけにもいかないでしょうよ。その時点で落第決定じゃないの」

 やれやれ、といった風に頭を横に振った少女の、海を思わせる青い髪がふわりと舞う。その前髪の隙間から呆れたような白銀が二つ覗いたかと思うと、鋭い光がシュラとジェットの二人を睨んだ。

「異議ありません」
「そうか、なら話は早い。早速だが、カグラ常駐の魔導士アメリアを訪ねてくれ」

 げ、と見るからに顔を引き攣らせたシュラを見て、シアンの口角が上がる。

「どうした、ウェルテクス訓練生」
「い、いえ。何でもありません。すぐに出発します」

 またしても、身内の厄介にならなければならないのか、と嘆くシュラの後姿を見送ると、シアンは団長の顔から父親のそれに変わった。

「引きが良いのはお前に似たらしい」
「それを言うなら悪運が強いのは、貴方に似たのね」

 夫婦で微笑みながら睨み合うという器用なことをしているシアンと桔梗の声を鳥のさえずりか何かだと思うことにして、ユタは今朝受け取ったばかりの書類へ視線を戻す。
 そこには、ラディカータの祠守が倒れたという不吉な知らせが書かれていた。