眼前に聳える巨大な樹にシュラは目を見開いて固まった。
資料で幾度となく目を通したことがあるとはいえ、実物は迫力が違う。
それに、ここ数十年の間、この区間は立ち入り禁止になっていた所為か、村があった場所にまで伸びた根に思わず言葉を失った。
「シュラ、早く来なさい。置いていっちゃうわよ」
母の――桔梗の声が耳に届くのに、シュラは慌てて彼女の背を追った。
父と同じ白銀の髪が走る度に揺れ、額に汗が滲む。
まだ夏でもないのに、世界樹の周りは異様に暑かった。
この異常なまでの暑さが原因で、農作物の不作や家畜の病死が相次いでいるらしい。
そこで、近隣の村々から騎士団に依頼が舞い込んだのだ。
世界樹周辺の調査を行ってほしい、と。
元々、気温上昇の件について調べようと思っていた騎士団にとって、それは渡りに船であった。少ない依頼料でも、常に財政難の問題を抱えている身としてはありがたい。
団長であるシアンは二つ返事でその依頼を受諾した。
「それにしても、暑いな。コート、置いてくれば良かった」
「そうね。この暑さじゃ、インナーだけで十分だったかもしれない」
パタパタと襟を開きながら言った息子に、桔梗は同意を示した。
そして、徐に白を基調とした軍服を脱ぐと大胆にもそれを腰に巻き付けて、歩みを再開する。
四十歳を目前にしても、桔梗の美しさは健在であった。とても五人の子持ちには見えない。
現にシュラと同期の訓練生たちが、自分の母親とそう年齢の変わらない桔梗に口を開けて見惚れている。
「あら、どうしたの? みんなして固まって……」
流れるような視線で振り返った彼女に、シュラと同期の訓練生たちが首を横に振った。
「何でもありません!!」
薄っすらと頰を上気させながら走って行ってしまった彼らの後姿を、シュラは何とも言えない表情で見送った。
「……母上。いい歳をして、そんな格好をしないでください」
「そんな恰好って?」
「肩なしのインナーです。俺は見慣れているから良いけれど、アイツらは『憧れ』の桔梗様の任務に同行しているだけで舞い上がっているのですから……。少しの露出でも刺激は充分なんですよ」
呆れたようにそう呟いた息子に、桔梗は口角を上げた。スッと細められた若草色の眼に、シュラの唇が「げ」と形を作る。
「憧れ、ねえ? それを言うなら、貴方の方が人気はあるんじゃない? 『大英雄シアンと龍の姫神子・桔梗の息子』で、学年主席なんですもの」
「自分で言っていて恥ずかしくないんですか、それ」
「ふふっ」
シュラが心底嫌そうな顔をするのに対して、桔梗は楽しそうに笑い声を上げた。
魔導学校に入学した当初から、シュラに対する周囲の視線は良いも悪いもよく集まった。それと言うのも、西の国が誇る武人の一族『ウェルテクス』と『東の王族』の血が彼の身に流れているからだ。
加えて、シュラの父と母は有名人だったのがよろしくない。今や聖騎士団の団長となった父シアンは幼少の頃より、その武勇が知れ渡っていたし、母である桔梗もまた東の国の至宝と言われる創世龍の一対をその身に宿していた人物である。
注目するな、という方が無理なのは分かっていたが、入学式の帰りに、暴漢を捕まえたのが事の始まりだった。
――流石は、大英雄シアンと龍の姫神子である桔梗様の御子息だ。
助けた老人から述べられた謝礼に最初こそ気を良くしていたシュラであったが、その噂が入寮を終えたその日のうちに広がってしまったのは誤算だった。
現在、最高学年を迎えた彼は、迫る最終試験のために、現役騎士の任務に同行している。
だが、担当騎士のほとんどを身内に固められてしまった上に、件の噂が六年経った今でも語り継がれていることをうっかり知られてしまったのだ。
彼らは何かにつけて面白がっては、その話を持ち出すのである。
『桔梗様、あまりシュラを揶揄わないでください。これは拗ねると機嫌を取るのに苦労するのですから』
不意にシュラの右手の甲が光った。 淡い銀と青が混ざった不思議な色をした髪の青年が現れ、シュラと桔梗を遮る位置に立ち、溜め息を落とす。
「ごめんなさい、蒼月《そうげつ》。この子の怒る顔が可愛くてつい、ね?」
「……母上?」
「ほらね」
桔梗はそう言って笑うと、何事もなかったかのように、再び歩を進め始めた。
蒼月、と呼ばれた青年が疲れた表情でシュラを睨む。
『お前も、いつものことなのだから放っておけば良いだろう。どうしてそう、揶揄われると分かっていて噛みつくのだ』
「だって……」
『だって、ではない。「親の七光り」だと思われたくなければ、もっと堂々としていろ。そうやっていつまで経っても噛みつくから、周りの評価も変わらないのだぞ』
「うっ」
痛いところを突かれてしまった。 しゅん、と項垂れたシュラを見ると蒼月は右手の甲、青い龍の刺青の中へと戻っていく。
『ほれ、項垂れている暇があったら足を動かせ。皆、先に行ってしまったぞ』
「分かっているよ……!」
シュラは蒼月に急かされて、慌てて走り出すのであった。
◇ ◇ ◇
シュラが一行に追いついた頃、桔梗は小難しい顔をして世界樹の幹に触れていた。
世界中の魔力はここから生まれて森に流れ、大地を通じて戻ってくる。
言わば、この辺り一帯の魔力を安定させる循環装置のような役割を世界樹は担っていた。
「おかしいわね。ここ数年、調査は怠っていないはずなのに、随分と魔力量が減っている。こんなことは、どの報告書にも記載されていなかったわ」
眉根を寄せた彼女の右腕から、ずるりと音を立てて一人の男性が姿を見せる。
創世龍の一頭「創造」を司る白龍、旭日《あさひ》だ。
『俺とお前が戦ったあの日から、世界樹は少し衰えを見せるようになった。千年以上もの時を過ごしている樹だ。寿命なのかもしれんな』
「いいえ。それはあり得ません。第三小隊の分析結果では持ち帰った世界樹の樹皮は、世界樹の根から生まれた新たな木の樹皮と比べても大差なかった。つまり『樹』そのものは健康体だということです。一体、原因は何なのかしら」
桔梗はムッとした顔で顎に手を添えて考えを巡らせている。
そんな彼女を尻目に、旭日は漸く皆の元まで追いついたシュラの方にふわふわと飛んできた。
『遅かったな、シュラよ。道草でも食っていたのか』
「いえ、その……」
シュラは彼が少しだけ苦手だった。
かつて、母と、母の身に宿るもう一頭の創世龍「華月《かげつ》」と戦っていた彼は、人間を滅ぼそうとしていたと聞かされて育ったからだ。
嫌い、という訳ではない。
だが、漠然と本能で彼に対して恐怖を抱いている自分が居た。
旭日は恐らくそれに気が付いているのだろう。 何も言わなくても、「恐怖」や「怯え」というものは相手に伝わるものだ。
『まあ、良い。早くこちらへ来て手伝え』
旭日はそう言って片方しかない眼を細めると、桔梗の元へ戻った。
シュラも、彼の後を追うべく、ゆっくりとそちらに足を向ける。
ふと、視界の端で何かが光ったような気がした。
立ち止まってそちらに目を向ければ、太い根の隙間から淡い光が漏れ出している。
「何だ?」
根に手を伸ばす。
ぴたり、とシュラの手が触れたのと同時に、それは一層強い光を発した。
あまりの眩さに思わず瞼をギュッと閉じる。
「――シュラ!」
桔梗の声が、遠くに聞こえる。
そう思ったときには、シュラの身体は浮いていた。
「う、うわあああああ!!」
シュラの叫び声に、右手の拳から蒼月が顔を出す。
そして、彼の身体が落下していることを悟ると、すぐさま本来の青い鱗を持つ姿へその身を変えた。
「あ、ありがとう、蒼月。助かった……っ」
息を切らしながら何とか礼を述べたシュラに、人型に戻った蒼月は肩を竦めてみせた。
二人が落ちてきた場所から光が入ってこないのだ。
地上との連絡手段が絶たれた、と顔面蒼白になったシュラの肩に蒼月が手を置く。
『あの光は恐らく世界樹の魔力だ。お前の魔力に共鳴し、引っ張られたのだろう。光を辿っていけば、出口が見つかるかもしれん』
蒼月の視線の先には、先程シュラが目にした淡い黄金色の光が漂っていた。
シュラは彼の意見に賛成すると、すぐにその光の後を追った。
また何か起こってはいけないから、と蒼月は刺青には戻らず、シュラの隣を歩く。
「……蕾?」
光を追って辿り着いた先には、薄紅色に染まった巨大な蕾があった。
その周りを黄金色の光がゆらゆらとまるで波のように漂っている。
恐る恐る近付いてみれば、それはますます光を増して、シュラの視界をチカチカと照らした。
「何だろうこれ。なあ、蒼月」
『……』
隣に立っている蒼月に視線を映せば、彼の顔から色が失われていく。
「蒼月?」
『……嫌な予感がする。シュラ、すぐに出口を探すぞ!』
切羽詰まった表情で、出口を探し始めた蒼月に気圧されて、シュラは彼の後を追った。
だが、その際にうっかり木の根に足を引っ掛けてしまった。
そこから時が流れるのを、やけにゆっくりと感じた。
蒼月が顔面蒼白となり駆け寄ってくるも、シュラの身体は顔から蕾に激突した。
「ぷはっ! あーびっくりした! こんなところに根なんてあったか?」
『馬鹿者、すぐに離れろ! 蕾が魔力に反応したらどうする!』
「あ、」
蒼月の悲鳴も虚しく、蕾が黄金の魔力を吸い込み始める。
空気中に散漫していたはずの魔力がゆっくりと飲み込まれていく様子をどこか現実離れした気持ちで眺めていたシュラだったが、蒼月の手が自分の腕を掴む力強さに正気を取り戻した。
『良いか、シュラ。俺が良いと言うまで身動きを取るな。声も出してはならぬぞ』
「わ、分かった」
『出すなと言っているのが分からんのか、この間抜け。黙って口を閉じていろと言っている』
こくり、と今度は頷くことで返事をすると、蒼月はシュラの身体を持ち上げて低空飛行で移動を始めた。
さながら宙に浮かんだ亀のようにのそのそと慎重に後退する蒼月と、未だ金色の光を吸い込み続けている巨大な蕾とを見比べながら、シュラは声を出さないように口元を覆った。
蕾が小さく見える位置――通常の花のように見えるサイズ――まで後退することに成功した二人は、ほうっと安堵の息を吐き出した。
「蒼月はアレが何か知っているのか?」
『知らぬ』
「じゃあ、何で逃げたんだよ」
『アレに殺気はなかったが、近付いたときに魔力を吸われたような感じがしたのだ』
「……ふーん?」
『言っておくが、俺の魔力はお前の魔力でもあるのだぞ。アレの近くにいれば、俺もお前も動けなくなっていたことは明白だろう』
この間抜け。
またしても、彼の口癖を甘んじて受け止めながら、シュラはここからどうやって逃げ出すべきか、と頭を唸らせた。
来た道を戻っても出口はなく、進めば得体の知れない蕾がある――八方塞がりとはまさにこのことであった。
『……ラ、シュラ! 聞こえる!?』
不意に支給された通信機から桔梗の声が聞こえてきた。思わず食い気味で「聞こえます」と返事をしてから、大きな声で話してはいけなかったことを思い出して、ぐっと奥歯を噛み締める。
『良かった。無事なのね? 今、どの辺りにいるのか検討はつくかしら?』
「それが、随分と下の方まで落ちてしまったみたいで、周りには枯れた根と大きな蕾が……」
『蕾? おい小僧、今「蕾」と言ったか?!』
キーン、と耳鳴りがするほどの大きな声で旭日が叫ぶのに、シュラは唇を尖らせた。
決して彼の前でそんなことはしないでくれよ、と隣で聞いていた蒼月が戦々恐々としながら二人のやり取りを見守っている。
「はい。黄金の魔力――恐らく世界樹の魔力だと思うのですが、それを吸い込んでいます」
『……そうか』
「あの、旭日様。あの蕾は一体?」
『それは世界樹の新芽だ。世界樹は代替わりをしようと、熱を発しているのだろう』
「代替わり、ですか?」
『すぐにそこを離れよ。お前も吸収されてしまうぞ』
「それが、出口が見当たらないのです。入ってきた場所もすぐに塞がれてしまって」
旭日の鋭い舌打ちがシュラの耳元で炸裂した。
それから、通信機を地面に置いて少し離れろと告げられ、訳もわからないままにそれに従う。
『まったく、お前は赤子の頃から手の掛かる……っ』
「う、わ、びっくりした!」
ぬっと通信機から姿を見せた旭日に、シュラが思わず悲鳴を上げた。
一瞬だけムッとした表情になった旭日であったが、シュラの無事が分かると、眉間に寄っていた皺が幾分か柔らかくなる。
『蕾は?』
「あちらです」
シュラの示した先を見て、旭日の顔が曇った。
『……世界樹め、一体何を考えておるのだ』
『恐れながら、申し上げます。近付くのはお止めになった方が良いかと』
『魔力を吸われたか』
『はい』
蒼月の申し出に旭日の顔が更に歪んだ。
「……あと、その、俺、蕾に顔からぶつかってしまったのですが、」
『お前は、どこまで間抜けなんだ! この阿呆め!! 「守り人」に自ら志願してどうする!!』
ぐあ、と牙を剥き出しに怒鳴られては敵わない。
思わず、蒼月の背に隠れて旭日から逃れようとするも、それは出来なかった。
首根っこを引っ掴まれたかと思うと、旭日が蕾に向かってズンズンと歩き始めてしまったのだ。
「あ、旭日様。何を、」
『黙れ馬鹿者。貴様、とんでもなく面倒なことを引き起こしてくれたな』
「え?」
『根に触れた所為で、世界樹はお前を蕾の「守り人」に選んだのだ』
その言葉の意味がよく分からずに首を傾げたシュラに、旭日は深いため息を吐き出す。
依り代が置かれている現状を悟った蒼月だけが、人とは異なる美しい顔を真っ白に染めて、己が王をじっと見つめている。
『それではシュラは、』
『蕾が自我を持ち、次の世界樹となるまで、ここから動けぬ』
告げられた言葉の重みに、シュラは愕然とした。
動けない、動けないってなんだ。
自分はこれから卒業試験を控えている身だ。
それなのに、この場から動けなくなるというのか。
混乱した頭では碌に物を考えることも出来ず、ただ呆然と旭日に引き摺られるまま、蕾の前に舞い戻ってしまった。
『世界樹よ。これは守り人に相応しくない。今すぐ縁を切れ』
旭日がそう告げると、蕾が赤く光りだした。
――それはできない。
凛と響く声が頭の中に直接流れ込んできた。
目を白黒させて驚くシュラを他所に、旭日と蒼月の顔は険しいままだ。
『何故、此奴を守り人にしようというのだ。これは、ただの童だぞ』
――あのこたちの、こどもだから。
『……東と西の血を有しているからとでも言いたいのか?』
――ちはだいじ、でしょう。
『チッ。聞く耳は持たぬようだな』
仕方あるまい、と旭日が片腕に鱗を出現させる。
今にも蕾を切り裂かんとした、その時。
「待ってください」
渦中のシュラが、その蕾を庇った。
『何の真似だ』
「これが花を咲かせるのを見守ればいいんですよね?」
『そんな単純な話ではない。これが開花したところで、世界樹の熱暴走は収まらん。それを鎮めるためにも、壊したほうが早い』
「だけど、」
己が依り代となった彼女によく似た形の異なる色の目が鈍く光る。
「俺の所為で花を咲かせなくなってしまうのは、違う気がして」
『シュラ、旭日様はお前のことを思って』「分かっている。分かっているけど、でも」
どこまでも澄んだ心根は両親を彷彿とさせる。
随分と毒されたものだ、と旭日は深いため息を吐き出した。
『これが咲くのは、少なく見積もっても十年は先だ。お前は、それでもここでこれの開花を待つと言うのか?』
「じゅっ、十年も待ちたくないですけど……」
てっきりもっと短いものだと思っていたことは、旭日には内緒にしておこう。
緊張で口の中に溜まった唾をごくり、と飲み込むシュラと、蕾を交互に見比べると、旭日は不敵に笑ってみせた。
『良い。良いことを思いついたぞ、世界樹』
――なに。
『いっそ、人の形を与えてはどうだ? その方が、自我も成長し、開花も早まるというもの』
――わたしに、そんなちからは、もうのこっていない。
『我を誰だと心得る』
くく、とすっかり形を潜めていたはずの――人の悪い笑みを浮かべた旭日の指先が蕾に触れた。
空気中に黄金色の魔力が四散する。
はらはらと舞うそれは、さながら金色の雪のようだった。
旭日の指先が流れるように宙を描く。 さっきまで、蕾だったはずのそれが、あっという間に人の形を取った。
『せっかくだ。対の形にしてやった。これで少しは、開花も楽しみにできよう』
「え、えっと」
『流石は旭日様。見事な出来栄えですな。喜べ、シュラ。お前の番だぞ』
うんうん、と妙に波長のあった龍二人をおいて、腕の中に収まった少女にシュラはグッと喉を詰まらせた。 金色の髪が身体全体を覆っているお陰で、隙間から覗いた白い肌を直視せずに済んだのがほんの少しの幸いである。
「せめて服を着せてあげてくださいよ!!」
この日、シュラは生まれて初めて旭日に向かって、叫び声を上げたのだった。