第2章『たゆたう蕾』2話

 大きな声で、お前は何を叫んでいるんだと心の中でも思ったし、実際声にも出した気がする。
 だが、それはエルヴィの放った金色の刃が全て掻き消してしまった。

「ガアアアアア……ッ!!」

 汚い断末魔を残して倒れたナーガと、その血に汚れたものを見て、シュラは目を見張る。

「エルヴィ、お前」

 それはエルヴィの長い髪だった。
 意図して動かしているのかは不明だったが、硬質化したそれは鋭い刃となって、ナーガの身体を貫いている。

「シュラといっしょ、いい」
「分かった。分かったから、落ち着け」

 切っ先は未だ、シュラのすぐ後ろに向けられている。
 エルヴィが少しでも動けば、それはシュラをも貫く可能性があった。

「俺と一緒に居たいなら、髪を元に戻せ。出来るな?」
「また、くる。できない」
「……分かった。それなら、俺がそっちに行く」

 エルヴィの目にシュラは映っていない。色の異なる双眸が捉えていたのは、同胞の血を嗅ぎ分けて殺気立っているナーガの群れだ。
 シャーッとナーガが威嚇するときに発する鳴き声が無数に沸き立つ。
 数ではこちらが不利であることを判断するには充分なものだった。

「エルヴィ」

 名前を呼ぶと、少女の目線が一瞬だけこちらを射抜く。

「掴まれ」

 そう言うや否や、彼女の細腰を乱暴に抱き寄せた。

「蒼月!!」

 頼れる相棒の名前を叫ぶ。
 彼は、呼ぶのが遅いと言わんばかりに、鼻息荒く、本来の姿を晒した。

『待ちくたびれたぞ! シュラ!』
「本体で呼ぶと魔力がごっそり無くなるから、控えていたんだよ!」
『まあ良い。お前の仲間も上手く隠れたようだ。派手にゆくぞ!』

 ナーガの群れを火炎が襲う。
 青の名を冠するのに相応しい青白い炎が、次々に敵を屠っていった。

「くっ……」
「シュラ?」
「大丈夫だ。ちょっと、魔力を使い過ぎただけで、」

 平気だと告げるより早く、エルヴィの顔が歪んで見えた。

「シュラ!」

 へたり、と自分の腕の中に倒れ込んだシュラに、エルヴィが悲鳴を上げる。

『……大事ない。俺が魔力を喰らい過ぎただけだ。少し眠れば、回復する』
「ほんとう?」
『ああ』

 そう言って、蒼月は人型に戻ると、シュラとエルヴィの二人を空中で器用に抱きとめながら着地した。

『小僧! 居るのであろう!』
「ああ! 今下りるよ!」

 祠守の木を見上げた蒼月に、頭上からジェットの声が返ってくる。

「助かった、ありがとな」
『礼には及ばぬ。それよりも、シュラをどこか休める場所へ』
「そうだな。丁度この木には結界が張ってあるみたいだし、中に入って休ませてもらおう」

 ジェットに二人を預けると蒼月は再びシュラの中に戻った。
 遅れて地上に下りてきたラエルはと言えば、もう二度と木登りなどしないと愚痴をまるで呪詛のように繰り返していたが、ぐったりとした様子のシュラとそれに寄り添うように彼の傍を離れそうにないエルヴィの姿を見て、その口を噤んだ。

「俺はクレイグ大佐に報告してくる。ラエルは二人を看ていてくれ」
「分かった」

 幸いにも、祠守の木は特殊な結界魔法のお陰で外から見るよりも中が広い。
 大人が十人以上寝転がっても余裕のあるスペースの隅にシュラを寝かせると、まるで鏡のようにエルヴィが彼の隣に寝転がった。

「何かあたたかいものでも食べる?」

 先程、頭上から二人の戦いを見ていたが、高所に対する恐怖とは別に、命の危機に対する恐ろしさからラエルは動くことが出来なかった。
 訓練では捕らえて弱らせた魔物しか見る機会がない。
 実習に入ってからは必ず上官が傍に居たこともあって、すっかり油断していた。
 騎士を志している者として、恥ずかしい。
 グッと奥歯を噛み締めて己の無力を反省していたラエルであったが、不意にすぐ近くで気配を感じて顔を上げる。

「……ラエル、いたい?」

 沈鬱な表情で俯いていたからか、エルヴィがこてんと首を傾げている。

「ううん。大丈夫よ。貴女は?」
「エルヴィ、どこもいたくない。シュラ、おきないの、こわいだけ」
「……ふふっ」

 たどたどしくも心配の言葉を並べた少女の額に、ラエルは己の額をこつり、と合わせた。

「だぁいじょうぶよ。お腹が空いたら、きっと目を覚ますわ」
「ほんとう?」
「ホントよ。男の子って、単純なんだから」

 携帯用ポーチの中から簡易キットを取り出すと、近くに落ちていた小枝を集め、火を起こす。
 ジェットの荷物を勝手に漁ると、昨日補充したばかりの食料と調理器具が見つかった。

「エルヴィ、料理したことある?」
「?」
「いいわ、教えてあげる」

 得意げにウインクをしてみせたラエルの真似をして、エルヴィも片目を閉じる。
 その姿が、歳の離れた妹を彷彿とさせて、ラエルはまた笑い声を上げるのだった。

◇ ◇ ◇

 香ばしい匂いが鼻先を擽る。

「……ん」
「ラエル。シュラ、起きた。ごはんの匂い、ほんと!」
「だから言ったでしょう? 待ってて、今シュラの分も入れてあげるから」

 何だか頭上が騒がしい。
 それに、後頭部を何か柔らかいもので包まれている気配がした。

「エルヴィ?」

 ぬるい体温が、シュラの覚醒を妨げる。

「起きた、シュラ? 元気?」
「んー、まだ少し怠いかな」
「だるい?」
「ちょっと元気がないってことだよ」

 まだ難しい言葉は理解できないのか、エルヴィは分からない言葉があるとオウム返しで聞く癖があった。
 それが少しだけ可笑しくて笑っていたシュラだったが、不意に自分を見下ろすように座っているエルヴィの姿に違和感を覚えた。

「……あの、エルヴィさん」
「なに?」
「どうして、アナタの膝の上で俺は寝ているんですかね」
「ラエル、この方がシュラ喜ぶって」
「ラエルーッ!!!」

 ガバリ、と元気良く飛び起きた同輩にラエルがケタケタと女子にあるまじき笑い声を上げていると、そこへジェットが戻ってきた。

『シュラがナーガの群れを撃退したんだって? やるじゃないか』

 通信機から聞こえてきたシャムの声に、シュラは「はあ」と曖昧に返事を返した。自分一人で撃退に成功した訳ではなかったからなのであるが、シャムにはそれが謙遜した風に聞こえたらしい。ふふっと小さな笑い声を上げたかと思うと、柔らかい口調がシュラの耳へ優しく浸透した。

『よくやったね』

 幼い頃から慕っている騎士に褒められて嬉しくないはずもない。
 思わずにやけそうになったシュラだったが、すぐ近くに同輩とエルヴィがいた所為で、顔面に力を込めてなんとか表情を保つことに成功する。

「それで、あの、ナーガの処理はどうしますか?」

 通常であれば、毒を持っている魔物の処理は光属性の魔法で行い、毒を浄化する。だが、シュラたち訓練生の中に光魔法を扱える者はいない。それに準じる炎魔法であれば、シュラとラエルが得意としているが、大量の魔物を処理するとなれば話は変わってくる。

『そうだね。取り敢えず、死体からサンプルを取って、結界石でその辺り一帯を隔離してきてくれるかい? それで死体から出る瘴気を押さえることが出来るはずだ』
「分かりました」

 全員が耳に装着している通信機から手を離す。
 ほっと息を吐き出したのは誰だったのか。
 ラエルたちが温めてくれた食事へと我先にと手を伸ばしたジェットだったかもしれないし、魔力を大量に消費したシュラだったかもしれない。
 いずれにせよ、男性陣であることは間違いないとラエルは喉を逸らして大笑いするのだった。

 休息をとったことで、幾分か顔色が良くなったシュラの傍には、ぴったりと張り付いたエルヴィがいた。何度も「離れろ」と「大丈夫」を繰り返したのだが、先程目の前で倒れたことがよほど堪えたらしく、離れる気配が微塵も感じられない。

「暑いから離れろって」
「エルヴィ、あつくない。シュラ、いっしょ」
「分かった。分かったから、力を少し緩めてくれ。腕が痺れてきた」

 はあ、と溜め息を吐いたシュラの横顔をエルヴィは黙って見つめ返した。
 銀と緑の異なる眼に凝視されて、シュラは思わず眉根を寄せる。

「何だよ?」
「……」

 エルヴィの目はシュラを見ていなかった。
 彼の背後に鎮座する、第二の世界樹と呼び声の高いラディカータの祠を見ていたのである。

「どうかしたのか?」
「これ、ここにおいてほしくないって。母にささげてほしいって言っている」
「はあ? どういう意味だよ。というか、母って誰のこと言って……」
「エルヴィの母、世界樹。世界樹にこれささげる、言っている」

 ナーガと祠をいったりきたりするエルヴィの細い指先を見ていたシュラだったが、やがて混乱していた頭が整理され、その目が点になった。

「さ、捧げるって一体どういうことだ?」
「シュラ、これいらないなら、エルヴィ、母に渡していい?」

 全然話が通じない。
 取り敢えず、いらないことに変わりはないので、ああと短く返事をした。
 すると、エルヴィはナーガの死体に緩慢な動作で近付いて、瞼を閉じた。ざわざわと木々が揺らめき始めたのを合図に、彼女の長い髪が意志を持った生き物のようにナーガへと伸びていく。

「エルヴィ」

 シュラの声に、エルヴィは笑って「すぐおわる」と言った。
 そういうことが聞きたかったわけではないのだが、と顔を曇らせたシュラの前で、ナーガの死体がエルヴィの金色の髪に包まれていく。さながら、大きな繭のような形になったそれに呆けていると、次いで辺り一面を金色の光が満たした。

――あのときと同じだ。

 反射的に片手で視界を庇ったシュラは、その隙間から覗いたエルヴィの横顔が、母である桔梗に重なったような気がして目を疑った。
 チカチカと点滅する視界が回復した頃には、ナーガの死体は消え、満足そうに腰元に手を遣ったエルヴィだけが存在感を放っていた。

「母、ささげた。これで少しは飢えなくなる」
「……お前な、さっきから意味の分からないことばかり言うな。今のは一体どういうことだったのか、きちんと説明しろ」
「エルヴィの髪、母と一緒。だから、髪に魔力こめた。ナーガの魔力、母にささげた」

 心なしか言葉数の増えたエルヴィの話に、シュラは眉根を寄せた。
 つまり、エルヴィの髪で包んだものが世界樹に魔力として変換された、ということなのだろうか。そうであれば、これは一つの突破口になり得るかもしれない。

「急いで、師匠の所に戻るぞ! 確かめたいことが出来た!」

 突然、興奮した様子で走りだしたシュラと、彼に引きずられるようにしてその後ろを走るエルヴィの二人に、ラエルとジェットは驚きながらも、シュラの言葉に従うのであった。

「なるほど。つまり、エルヴィに世界樹の魔力循環器的な役割をさせれば、この熱暴走は治まると?」
「はい。まだ仮定の段階ではありますが、エルヴィの身体を通せば、世界樹も魔力循環を行えるのではないかと思います」
「エルヴィの身体に変化は?」
「……ナーガの死体を魔力として送ったことで、世界樹から供給された魔力が増えたのか、言葉数が少し増えました」
「そうか」

 シャムはそれきり黙り込むと、眉間の皺を少しだけ深くした。
 そして、彼の傍らで眠る祠守とエルヴィを見比べて、深い溜め息を吐き出す。

「祠守がこんな様子だから、僕はこの場を離れられない。悪いが君たちだけで一旦クラルテに戻ってくれ」
「分かりました」
「それから、戻る前にお遣いを頼みたい」

 これを、とそう言って渡された書類には、学術都市ミーティスに常駐している騎士への派遣依頼が記されていた。

「本部の分析班は世界樹の方に駆り出されているだろうからね。ミーティスの隊と連携した方が早いと思うんだ」
「分かりました。伝えておきます」

 シャムから受け取った書類をポーチに入れると、シュラたちは挨拶もそこそこに、急いでラディカータを発った。ミーティスまで行くには船を乗り継ぐ必要があったからである。

「今から行けば、夜の便で間に合うんじゃないか?」
「間に合わなければ、クラルテに寄って、転移魔法の許可を取った方が早いかもね」
「何にせよ、急ぐぞ。ラエル、いつものを頼む」

 三人で地図を囲んでいた訓練生たちだったが、時間が無いことを思い出すとすぐに行動を再開した。
 ラエルが杖を使って地面に陣を描く。

「風よ、我らを運ぶ翼と成れ」

 ふわり、と身体が軽くなるのが分かった。
 ラエルが扱う魔法は自然属性の魔力を取り込み、支援魔法として他者に付与することができる珍しいものだ。

「いつ見ても、不思議な魔法だよな。自然属性っていうと、それこそシュラや桔梗様みたいな攻撃魔法を連想するのに」
「俺はともかく、母上のは次元が違うだろ。あんなの天災に遭うようなもんだ」

 間近で威力を見て育ってきたからか、シュラの桔梗に対する評価は人間離れしていることが多い。それは勿論、シアンも例外ではなく、あちらは兄弟五人が口を揃えて「呼んでもいないのにやってくる大型魔導戦車」と宣うほどであり、両者ともに子どもたちからは一目置かれている様子である。

「言うまでもなく、軽くできる時間は私の魔力が尽きるまでだからね! お喋りは船に間に合ってからにしてくれる?」
「はいはい。全く、ウチの女性陣はどうしてこうも気の強い連中ばっかりなんだか」
「本当にな」

 肩を竦めて苦笑いしたシュラとジェットの背中目掛けて平手をお見舞いすると、ラエルはエルヴィの手を取って駆け出した。