主人にこの任を与えられた時は、何を無茶な、と思ったものだが、あの人の無茶は今に始まったものではないな、と拾ってもらった当時を思い出して、少しだけ笑った。
「紅華」
自分には到底似合わない偽名に、本日何度目かのため息を吐き出しながら、声のした方へと視線を動かす。
一応、現在の雇い主となっている男が、そこに立っていた。
「お早いお帰りでしたね、大家」
「ああ。弟が思っていたよりも早く、飛行機を手配してくれてな。明日には、商品を持って帰れるだろう」
「そうでしたか。それでは、例の上玉の様子を見に行きますか?」
「うむ」
男の目は期待に満ち溢れ、ぎらぎらと不穏な光を宿していた。
(これから何が起こるかも知らないで)
馬鹿な男だ、と喉元まで迫り上がってきた言葉を飲み込んで、紅華は三つ編みに垂らした錆色の髪をそっと撫でた。
「えー、それでは。こちら、今回ご協力いただきます銀龍会の皆様です」
そう言って、理世が大袈裟な動作で紹介した人間の中に見知った顔が二つ。
「ホロ!?」
「ユタさん!?」
シアンと桔梗が驚きに声を上げれば、呼ばれた二人は同じ顔でにこりと笑って見せた。
「ナーイスリアクション。いやあ、黙っているのいい加減辛いなぁと思っていたから、大家から呼び出しきた時は喜びのあまり二階から飛び降りちゃったよね!!」
「そうね。私はそれを見て、ちょっと冷静さを取り戻したわ」
顔は同じでも、性格は正反対の二人の背後から旭日が苦笑を噛み殺しながら姿を見せた。
「相変わらず、やかましいな。少し静かに出来んのか」
「それは、大家がもっと早く僕たちを呼んでくれなかったからでしょ?」
「お前たちを呼べば、ネイヴェスのやつが煩いのだ。おいそれと呼ぶわけにもいかんだろうが」
旭日はそう言ってため息を吐き出すと、木箱の上にどっかりと腰を下ろす。
「……さて、これで役者は全員揃ったわけだが。ユタ、例のものは持ってきたか?」
「はい、大家。頼まれたものは全て持ってきました」
ユタは持ってきていた大きめの鞄から、中身を取り出して旭日の前に並べた。
濃色の浴衣に、茶髪のウィッグ。それから、化粧ポーチ。最初に取り出された浴衣がなければ、女子が身嗜みを整えるために持ち歩いていても遜色はない。
旭日とユタ以外の全員が首を傾げた。
「内通者からの連絡で、商品の搬送――つまり桔梗が運び出されるのは今夜十時だと判明した。現在の時刻は十八時だ。残り四時間の間に、囮を仕上げねばならん。この意味が分かるな?」
「えーっと……」
理世がみんなを代表して声を発するも、旭日はニヤリ、と目を細めただけで答えを提示する気は更々ない様子であった。
「いくら強いとは言え、桔梗は女子。作戦を遂行させる上でも、彼女に負担を強いることは出来ません。そこで――男性陣のどなたかに、桔梗のふりをしてもらいます」
痺れを切らしたユタが旭日の言葉を引き継げば、男性陣の顔が見る間に引き攣るのが分かった。
「一応確認なんですけど、俺も頭数に含まれている感じなわけ??」
「……」
「ユタちゃん、顔が怖いよ。顔が。何だよぅ、麗しのお兄様があられもない姿にされそうだっていうのに、ちょっとは加勢しておくれよぅ」
「満場一致で兄さんに決定しましたね。皆さま拘束してください」
「え、ちょっと嘘でしょ!? 本気で言っている!? どう考えても、理世くん一択じゃん!!」
ぎゃーと叫びながら矛先をこちらに向けたホロに、理世の額に青筋が浮かぶ。
確かに、この面子の中から女装する者を選ぶとなれば、理世が選ばれてもおかしくはない。
長身の割に、体重は平均よりも低く、少し声色を高くして肩幅を隠せば、女性に見えること間違いなしの美しい容姿をしているからだ。
「何が悲しくて許婚の前で女装しなくちゃならないんだよ」
ノンブレスで放たれた低い言葉のナイフに、後輩たち――もちろん、許婚殿以外の全員――が肩を震わせた。
「まあ、そう言うなよ。理世。他ならぬ旭日様の頼みだ。それに、ホロだと一瞬でバレる可能性が高い」
「…………」
「考えてもみろ。こいつがバレたら、計画は丸潰れだぞ? お前なら、自力で軌道修正も可能だから、安心して任せられる。違うか?」
滅多に食い下がらないシアンにそこまで言われてしまえば、理世も「うん」と言わざるを得ない。
仕方がないと表情で雄弁に語りながら、ユタと共に別室へと移った理世の姿を見守って、一同はホッと胸を撫で下ろした。
「もうちょっと言い方を考えろよ、バカ」
「バカって言う方がバカなんだよ、この筋肉バカ」
「だー! はいはい! 言い合いはそこまで!! 上手く理世先輩に女装を頼めたのだから、良しとしましょう! 全員がグルだってバレたら、それこそ後が怖いです!!」
今にも殴り合いを始めんとするシアンとホロの合間に割って入った桔梗が、普段から白い肌をより白くさせながら身震いする。
そう。
初めから、旭日の計画で理世が女装することは決まっていたのだ。
だが、プライドの高い理世に、紗七の前でどう女装させようか、という壁にぶち当たってしまい、先ほどの作戦に踏み切ったのであった。
「大丈夫ですよ。もしバレて、皆に仕返しをしようとしたら、一週間りいと口きかないからって言いますから」
任せてくださいと鼻高々に宣言した紗七に、夜雨と柚月の二人が思わず顔を見合わせる。
「それ、余計にアカンやつとちゃう??」
「にゃ、はは」
乾いた夜雨の笑い声を最後に、一同は与えられた場所に散開した。
手際良く動き回る少年少女の様子を見物していた旭日の携帯が弱く震えた。
「俺だ」
『大家。今、空港に着きました。これより、そちらに向かいます』
「予定より少し早いな」
『計画に支障はありません』
「では、手筈通りに」
『是』
電話の向こうで話す男の声は少し緊張していた。
半年かけての計画だ。
震えるのもやむなしか、と旭日はどこか他人事のように思いながら、重い腰を漸く持ち上げるのであった。
一時間ほど早くアジトに戻ってきた黒塗りの車を、八つの眼がジッと見つめている。
「りい、大丈夫かな?」
「大丈夫よ、理世先輩なら」
「あ、いや、そうじゃなくて……。勢い余ってころしたりしないか、心配で」
「……流石にそれはないと思うけど、精神状態を考えると、常にも増して斬れ味鋭そうだもんなぁ」
不穏な空気を醸し出し始めた桔梗と紗七の会話に、暗闇の中でも分かるほど表情を曇らせたシアンが弱々しく首を横に振った。
「おいやめろ。返り血浴びた理世を想像しちまっただろうが」
一番物騒な発言をしているのはアンタだと声に出さなかった自分を褒めてほしい。
桔梗は恨めしそうに視線を送ったが、シアンはそれに気付かなかった。
その代わり、彼の隣に立っていたホロがそれに気付いて、苦笑を噛み殺した。
「そんじゃ、理世くんのお手並み拝見といこうか」
「お前それ絶対本人の前で言うなよ」
「わーかってますってば」
「分かっていないから言ってんだっつの」
はあ、と肩を竦めたシアンの後ろ姿に、桔梗は胸がスッとする思いだった。
先ほどの自分と同じ立場になったシアンに多少の同情はあれど、この学年は一癖も二癖もあるのが偶にキズである。
口元と両手を拘束された理世は、正しく「手負いの獣」という言葉がよく似合った。
フーッ、と猫が威嚇するときのように息が荒い彼の姿など、後にも先にも見たことがない。
これっきりにしてほしい、と切に願いながら、何故か彼を拘束する役目――貧乏くじである――を見事全うした夜雨は、額に浮かんだ大粒の汗を拭った。
「それじゃ、理世先輩。後で必ず迎えにきますから、合図の方、よろしくお願いしますね!」
足早に立ち去ろうとする後輩を睨みながら、こくりと頷いた理世は、深呼吸を繰り返して息を整える。
先ほど、理世が現在強いられている格好でこの部屋から桔梗は脱出を図ったと聞いて耳を疑った。
緩く縛られているとはいえ、両手の拘束は枷のように重く、身体の動きを制限されてしまう。加えて、猿轡をされていることによって、呼吸がうまく出来ないような感覚にさせられる。
(触られた瞬間にキめよう)
そんな物騒なことを思いながら、獲物が来るのを待った。
階下から感じる殺気に、天井裏で待機を余儀なくされた夜雨と柚月、そしてユタの三人は頸を冷たい汗が伝っていくのを感じていた。
人が発していい殺気ではない。
重く渦巻いた空気の中に佇む理世の姿に、唾を飲みこむ音がいやに大きく響いた気がした。
「……こちらです」
漸く待ち望んだ仇敵が到着したのは、理世の纏う空気が更に重くならんとしている、まさにその時だった。
「タイミングが良いのか、悪いのか……」
「合図を待つ間もなく片がつきそうな気がしてきた」
「分かる〜」
冗談を言っていなければ、この場の空気に耐えられそうになかった。
三人はハラハラしながら、事の次第を見守ることに専念した――否、他に出来ることがなかったのである。
理世の前に姿を見せたのは、中肉中背の頭髪が薄くなりつつある『変態』を絵に描いたような男だった。
下卑た笑みを浮かべて理世に近付いたかと思うと、あろうことか、きめ細やかな肌――頰に舌を這わせた。
死んだな、と天井裏にいた誰もが思った。
次いで、ゴン、と形容し難い音が部屋の中に響く。
理世が男の股間を蹴り上げたのは明白だった。
細腕からは考え付かないほどの強い力で、両手の縄を引きちぎると、天井裏に隠れているメンバーと視線を交差させる。
「終わったけど」
郵便部最強の名は伊達ではない。
底冷えした声でそう宣言されて、一同は声を揃えて『はい』と答えるのがやっとであった。
「いや〜参ったねぇ〜! 出番が全くなかった! さっすが理世くん!」
嫌味ともゴマスリとも取れる絶妙な言葉を並べながら、ホロが理世に声を掛ける。
だが、振り返った理世を見るや否や、か細い声で「すいません」と呟いたきり、何かを発することはなくなった。
「だから忠告してやっただろうが、余計なこと言うなよって」
「もう少し噛み砕いて説明してほしかった」
「無茶言うな。これ以上ないくらい、助言してやっただろうが」
ぶるぶると生まれたての小鹿のように震えるホロを呆れた表情で一瞥して、シアンは肩を竦めた。
「……当初の予定では、弟の元まで案内させるプランだったけど、仕方ない。もう一つのプランでいきます。構いませんよね?」
有無を言わさぬ気迫に、責任者である旭日も頷くほかない。
「こいつを人質に、校長を誘い出す」
「限りなく黒に近い灰色だぞ、それ」
「構うもんか。いざとなれば、俺が動かせる常陸の総力を上げて叩き潰す」
ゴシゴシと頰を擦りながら、そう宣言した理世に笑顔で賛同したのは、もちろん彼の良き理解者であり、良き妻になる予定の紗七である。
「ここまで来たら後には引けない。理世がしたいようにすれば良いと思うよ。それに、私の婚約者に許可なく触れたこの男を生かして返すつもりもないしね」
普段は似ている部分の方が少ないくせに、互いに関与することであれば、いくらでも冷酷になれる二人を見て、一同は改めてこの二人が味方で良かったと思った。
「りい、そんなに擦ったら赤くなっちゃうよ。向こうに水道があったから、洗いに行こう?」
「ん」
「すみません、少しだけ抜けますね」
「ああ。こっちは気にせず、理世と少し休んでくると良い」
厄介払いが出来て万々歳だと言わんばかりに眦を細めた旭日に苦笑しながら、紗七は理世の手を引いて歩き始めた。
先ほど、理世の身体に男が触れた瞬間を遠目にしか捉えることが出来なかったが、胃がムカムカとして、理世が股間を蹴り上げていなければ、窓ガラスを割ってでも飛び込んでしまいそうだった。
「ほら、りい。ここに座って」
旧校舎の中でも、取り分け古いこの建物は、理世とシアンが初等部の頃に出会った場所でもあった。
懐かしい景色の中に婚約者が紛れ込むだけで、全く違った風景に見える。
「……紗七」
「んー?」
「怒ってる?」
夜に溶け込む髪の隙間から見える赤い宝玉が、二回ほど瞬いた。
「少しだけ」
「それは、俺に? それとも、あの男に?」
「どうして理世に怒るのさ。あの男に決まってるでしょ。拐われた子の中には、私と柚月と同じクラスの子も居た。あんな奴に好き勝手されたのかと思うと腹が立って」
「うん」
「お芝居とはいえ、りいに触れられるのはいやだった」
蛇口を捻ってみると、まだ水は通っている様子で、ちょろちょろとか細い流れがシンクに道を描いていく。
ポケットから真新しいハンカチを取り出して、軽く絞った。
はい、と理世にそれを差し出すと、彼は曖昧に笑って、紗七の手首を掴んだ。
「紗七が綺麗にして」
言われた言葉の意味が理解できずに、眉根を寄せれば、先ほどまでの不機嫌が嘘のように、理世がいつもの穏やかな表情で笑った。
「君に上書きされたいんだ」
「え、待って。もっと意味が分からなくなった。翻訳してくれ……」
「ふ、ふふっ。ごめんごめん。つまり、ね」
――君に触れて欲しいってことだよ。
そっと、自らの頰に紗七のハンカチを導きながら、そんなことを言われて、平気な人間が居るのなら教えてほしい。
顔が燃えるように熱い。
今が夜で良かった。
明るい時間だったら、確実にからかわれるレベルで真っ赤になっているはずだ。
仕返しにこれでもか、と痛いくらいに頰を擦れば、理世が喉を逸らして笑うのが分かった。
こちらを愛おしそうに見つめる視線が熱い。
「……りいのばか。もう誰にも触らせちゃダメだよ」
少しだけ赤くなった頰に紗七の指先が触れる。
「君もね」
「うん」
不意に、視界が暗くなる。
紗七が近付いてきたのだ、と認識したのと同時に、唇に柔らかい何かが触れた。
「ここも、私だけだからね」
つい、と触った感触を惜しむように指で撫でられて、理世は頭が沸騰しそうだった。
ここが外で良かった。
今にも押し倒してしまいたい衝動を押し殺しながら、空を見上げる。
大きな満月が、二人を見守るように笑っていた。