3話

 紗七と柚月が正式な部員となって早一週間。
 これまで一週間に一度の割合で手紙を配達していた郵便部であったが、部員の増員に伴い週に二日配達が可能となった。
 理世の持つ独自ルートで生徒たちにそのことが知らさられると、手紙の量はあっという間に増加し、忙しい毎日を送ることになってしまった。

「……休暇を申し出たい」
 ぽつり、と桔梗が溜息と共に吐き出した言葉に対し、夜雨が天井を仰ぎながら首を振った。
「そんなこと言ってみろ。挽肉にされて、ハンバーグの出来上がりだぜ?」
「ちょっとやめてよ! お昼にハンバーグ定食食べようと思っていたのに!」
 ケラケラと笑う夜雨の後頭部に鋭い手刀を入れると、桔梗は何事もなかったかのように、机の上に積まれた手紙の山を睨んだ。
「そりゃあ、紗七が部員になって嬉しいのは分かるわよ? でも、急に配達日を増やさなくてもいいじゃない」
「別に急じゃねえだろ。配達日を増やすって話は前々から上がってたわけだし」
「でもさ~!! この時期に増やすのは自分から死にに行くようなものよ?」
 桔梗が手紙を裏返すとそこには可愛らしいハートのシールが付けられていた。夜雨も同じように手近な手紙を取って苦々しい表情を浮かべる。
世に言う「ヴァレンタイン・デー」が明後日に迫っていた。
「……去年の惨劇が脳裏を駆け巡ったんだけど」
「やーめーてー! 思い出すだけで鳥肌が立つんだから!」
 二人して青白い表情を浮かべると、桔梗と夜雨は力なく首を横に振った。
「あの子たち大丈夫かしらねぇ?」
「さあ、どうだろうな? 今でさえあっぷあっぷしてるから……」
「ま、もしもの時は私たちがしっかりフォローしてあげますか!」
 中休憩終了を合図する鐘が鳴り響く。
 また後で、と桔梗は片手を上げて、窓を開いた。
「もしかして、そこから帰る気なわけ?」
「そうよ。悪い?」
「んにゃ、悪くねえ」
 にゃはは、と夜雨特有の笑い声を背に、桔梗は階下の中庭へと飛び降りた。

「ゆずちゃん!」
 聞き慣れた呼び声に振り返ると、同じクラスの子が柚月に向かって走ってきた。
「何?」
「まだ、ヴァレンタインの手紙って間に合うかな?!」
 はあはあ、と息を荒くしてそう言った友人に柚月は苦笑いを浮かべる。
「大丈夫やと思うけど、アレやったらうちが直接届けたろうか?」
 冗談めかしてそう言った柚月に、友人の顔が仄かに色付いて、次いで慌てたように首を横に振った。
「い、いいよ! 大丈夫! 自分でポストに出せるから」
「そう? ほんなら今日中に出しといてなぁ。今日はうちが回収の当番やよって」
「分かった! ありがとう!」
 再び来た道を戻っていく友人を見送ると、柚月は目を細める。
 
(あれは絶対、先輩ら宛てやな)
 
 最初の頃は、部員宛ての手紙が配達物の三分の一を占めていることに驚いたが、先輩方の容姿と為人(ひととなり)を知れば納得がいった。――ただ一人の先輩を除けば、であるが。
「なーんであんなにチャラいんかな、あいつは」
 肩を竦めながら、持っていた書類を持ち直すと柚月は部室に向けて足を急がせた。

「お疲れ様でーす」
「お、噂をすれば、柚月ちゃーん!」
「!?」
 扉を開けると同時に飛び出してきた夜雨に、柚月は咄嗟に正拳を突き出していた。
 猫のような身のこなしでそれを往なした夜雨に、ムッとしながら柚月は彼の後ろに控える他の先輩方に会釈する。
「お疲れ様です」
「ちょ、おいおい! 俺は無視かにゃ?」
 ぐい、と強い力で手首を引き寄せられて、眼前に夜雨の顔が迫る。
 至近距離で見る夜雨の顔は、黙っていれば美しいと思えるほどに整っていた。
「黙ってたらなぁ……」
「ああ、うん。夜雨先輩は黙っていたらそれなりだもんね」
 柚月の言葉に紗七がうんうんと首を縦に頷かせる。
「し、辛辣!! 後輩が辛辣なんだけど!! 桔梗ちゃん!!」
 わーん、と情けない声を上げて桔梗に助けを求めるも、彼女も後輩たちに同意のようで力強く首を縦に振っていた。
「自分の胸に手を当ててよく考えてみなさい。あと、いい加減に柚月の手を離さないとコレ投げるわよ?」
 そう言って桔梗が指を差したのは、普段郵便物を入れるのに使っている小型のポストだ。
「あれ? 今日はうちが当番やったと思うんですけど……」
「そうなんだけどね。ポストが溢れて入らないって言うから、一つだけ先に回収してきたの」
 桔梗が苦笑しながら中身を出すと、小さなポストの中にどれだけ詰め込んだんだと言わんばかりの大量の手紙が机の上に、また一つ山を築き上げた。
「…………多いわね」
「去年の比じゃねえな」
 思わず顔を見合わせた桔梗と夜雨に、紗七が不思議そうに首を傾げた。
「先週もこれくらいの量じゃなかったですか?」
「あれは纏めた量だったのよ。これはポスト一つ分でしょ? これがあと五つはあるのよ?」
「そ、そんなに!?」
 柚月が驚愕に目を見開く。
 それを見た夜雨が、にやにやと人の悪い笑みを浮かべて、彼女の肩に手を回した。
「ありゃりゃ、どうした~? もうギブアップか?」
「……ちゃいます。配りきれるんかなって思っただけです」
「可愛くねー」
「アンタに可愛い思われても得しませんから」
 べーっと舌を出す柚月に夜雨が眉根を寄せると、彼の耳元でブンと物騒な音が響いた。
「ま、マジで投げることねえだろ!」
 壁に突き刺さったポストだった物を見ながら、夜雨が柚月から距離を取る。
 ポストを投げたはずである桔梗は涼しい顔をして、美しさを前面に押し出した微笑みを浮かべてみせた。
「だからさっき言ったでしょ? 『投げるわよ』って」
 開き直った態度に何も言えなくなったのか、口をあわあわと動かしたまま黙ってしまった夜雨を尻目に、柚月は紗七の隣の席に腰を落ち着かせた。
「遅れてごめん!」
 珍しく息を切らして現れた理世に、部室の空気が少しばかり強張る。
 彼の後ろには額に青筋を立てたシアンが、面倒くさそうに紙袋をいくつかぶら下げていて、それを見た桔梗と夜雨が二人して「ひッ」と引き攣った声を漏らした。
「どないしたんですか、その荷物」
「ああこれか……。ポストに入りきらなかった分は俺と理世で預かるようにしていたんだが、ロッカーを開けた途端、雪崩にあってな。回収するのに手間取って、遅くなってしまった」
 ドスッともはや手紙の入った袋とは思えない鈍い音を立てて、机にめり込んだそれに桔梗と夜雨の顔から色が失われていく。
「ま、まさかとは思いますけど、当日に配るとか言いませんよね?」
 ひくり、と顔を引き攣らせて言う桔梗に、理世が満面の笑みを浮かべる。
 不穏な空気を感じ取ったらしい夜雨が窓を開けて逃げ出そうとするのを、シアンがフードを捕まえることで阻止すると、理世は部員全員の顔を見渡しながら言った。
「幸運にもヴァレンタイン・デーは期末考査の振り替え休日となっている。この意味が分からない君たちじゃないよね?」
「……言っておくが、俺は止めたぞ」
 シアンがどこか遠い目をしながら、そう言うのに対し桔梗が恨めしそうに彼を睨む。一応副部長という名目なのだから、暴走する部長を諫めるのが務めではないのかという思いが盛大な舌打ちとなって部室に響き渡った。
「出来ない、なんて言わせないよ。こーんなにたくさんの『気持ち』を無駄にしちゃうの?」
 実に良い笑顔で心に突き刺さる言葉を吐き出す理世に、部員たちの表情が強張る。
 今時、手紙などという古風なやり取りを好む学生はいない。だが、この学園においてそれは唯一の連絡手段であった。特殊な電波で携帯を使えなくされている学生たちにとって手紙は相手に思いを伝えるたった一つの手段だ。それを無下にすることなど、出来るわけがないと知っていて敢えて理世は口にした。
「異論は?」
「……ありません」
 部員の総意を、唇を噛み締めながらに桔梗が伝える。
 満足そうに笑う理世を見て、シアンと夜雨は乾いた笑い声を漏らすことしか出来なかった。
「それじゃあ、柚月。ポストの回収を頼むね。一人じゃ大変だろうから、夜雨を連れて行くといいよ」
「え?」
「ちょ、理世先輩!? 何で俺なんスか! 桔梗ちゃんのが適任でしょうが!」
 常であれば、からかい甲斐のある後輩とのペアを嬉々とした様子で引き受けるくせに、珍しく食い下がった夜雨に理世がわざとらしく目を細める。
「なら、お前が振り分けを手伝ってくれるのかい?」
「げ……」
「うわー……、さり気なく飛び火してきた……」
 二人の顔がじわじわと青くなる様子を見てケラケラと笑いながら、理世は奥の部屋へと消えていった。
 既に五百は超えているであろう手紙をこれから仕分けるとなると、深夜までの作業になることは必至だ。今すぐにでもここから逃げ出してしまいたい気持ちに駆られるのを何とか堪えると、桔梗が壊れたおもちゃのように笑いながら大量の手紙を持って理世の後を追う。
「俺たちは配送ルートの確認だな」
「分かりました」
 学園内の地図を広げて作業を始めたシアンと紗七に、夜雨が三度重い溜息を吐き出す。
「行こっか」
 もはや反論する気力も残っていなかった柚月は、夜雨の言葉に静かに頷きを返した。

 そして迎えたヴァレンタイン前日。
 午前零時に部室に集められた郵便部の面構えは、とても良いと言えたものではなかった。
 前日まで三日に渡る期末考査、加えてギリギリまで手紙を回収していた為、休む間がなかったのである。中でもつい先刻まで振り分け作業に追われていた桔梗は一段と疲労の色が濃い。気を抜けば今にも倒れてしまいそうな危うさを孕んでいた。
「大丈夫ですか?」
「へいきへいき。きょうを乗り越えれば、楽にられる!」
「ろ、呂律回ってませんけど!?」
 うつら、うつらと首を揺する桔梗を心配する柚月を他所に、ルートの最終確認を済ませた理世とシアンが六袋に分けられた手紙をそれぞれの前に置いた。
「タイムリミットは起床の鐘がなる午前七時。それまでに全ての手紙を届けること。敵方も警備の人数を増やしているはずだから、十分に注意するように」
 理世の言葉に部員たちがこくりと首を縦に振る。
「桔梗が使い物にならないんじゃしょうがない。本当は各自一人で回ってもらうつもりだったけど、二人一組で行動しよう。組み分けは面倒だから、この前準備の時に分かれた二人組で行こうか」
「……それだと紗七と離れることになるんじゃないのか?」
 シアンが冗談めかして言うと理世がわざとらしく肩を竦める。
「素直に桔梗のことが心配だって言えばいいのに」
「ばっ!」
「……大きい声出さないでもらえます? 頭に響く」
「とか何とか言いながら、顔が赤いのは僕の気の所為かな?」
 二人して茹蛸のように真っ赤になるシアンと桔梗に、理世が人の悪い笑みを浮かべた。
「りい」
「なあに?」
「私はりいと一緒が良い」
 珍しく殊勝な言い方をする紗七に理世の顔がピシリと固まる。
 だが、その動揺も一瞬の物で、彼女の背後で肩を震わせる夜雨を視界に収めるとドスの効いた低い声で彼の名前を呼んだ。
「夜雨?」
「ひっ……。い、いや俺は何も言ってませんけど……」
「ふーん?」
「マジで! 何も言ってませんって!!」
 これから一仕事控えているというのに怪我人が出ては堪ったものではない。常であれば、心置きなく「ざまあ」と笑ってみせるのだが、今日はそうもいかない。ただでさえ配達人数に反して手紙が多いのだ。ここで一人欠員が出るのはどうしても避けたかった。
「部長、そろそろ出らなあかん時間やと思います……」
 それまで傍観者を決め込んでいた柚月が重い唇を開いた。
 夜雨に一歩、また一歩と近付いていた理世が、壁掛け時計に視線を移す。そうだね、と笑って言う彼に安堵の息を吐き出した夜雨を見て、柚月は呆れたように頭を振った。
「それじゃ、シアンと桔梗。僕と紗七、夜雨と柚月。この組み分けで行くよ」
 ちゃっかり紗七の意見を組み込んでいることに紗七以外の部員は知らん顔で頷いた。
 本当に婚約者殿には甘いな、とどこか遠い目をした夜雨の衣服を柚月がちょいちょいと引っ張る。
「貸しですからね。明日何か奢ってくださいよ?」
「……お前って可愛いんだか可愛くないんだか、分かりにくいわ」
「はあ?」
「何でもない」
 トレードマークの猫耳フードを深く被り直し、手紙の入った袋を肩に担ぐと夜雨は我先にと部室を飛び出した。慌てたように後を追っていく柚月の姿を紗七が微笑ましそうに見つめる。
「さっきの、本当に夜雨に吹き込まれたわけじゃないの?」
「ひっどいなぁ。私だって偶には甘えたくなる時もあるんだよ」
「……」
 じわり、と耳が熱くなるのを感じながら、理世は肩を竦めた。
 昔から紗七の我が儘には叶わない。それも、自分に好都合な我が儘ばかり言われるものだから、断れる術を持ち合わせていなかった。
「先に出るぞ」
「ああ、また後で。桔梗も無理しないでね」
「はい。先輩もご武運を」
 窓から飛び降りたシアンと桔梗を見送って、理世は自分に割り振られた分の袋を持ち上げた。
「紗七の分も持とうか?」
「大丈夫だよ。二つも持ったら、りいの動きが鈍くなっちゃうでしょ?」
「言うようになったねえ」
「ふふ」
 久方ぶりに二人きりで行動できるのが嬉しくてつい、頬が緩んでしまうのを止められない。
「それじゃ、派手にいきますか」
 パチン、と理世が部室の電気を消すのを合図に、学園内のブレーカーが機能を停止した。

「部長の話じゃ、電気系統を止められるのは保って一時間。それまでにセキュリティが厳しい所を配り終えるぞ」
「はい!」
 普段の様子はどこへやら。
 配達をしている時の夜雨を見るのは嫌いではない。
 大事な仕事の最中であるというのに、柚月はそんなことを思いながら足を急がせた。
「……ちょい待ち」
「!」
「思ったより多いな」
 曲がり角でいきなり手を引かれ、そのまま覆いかぶさるように壁際に迫られて、柚月は声も出せずに目を白黒させた。

(ち、かい……!)

 顔が、熱い。
 普通にしていれば、夜雨はそれなりに『かっこいい』。むさ苦しい男衆の中で育った柚月にとって、彼のような同年代の異性への耐性は無いに等しかった。
 敵から身を隠すためとはいえ、縮まった距離にどうすれば良いか分からず、固まったまま夜雨の横顔を凝視することしか出来ない。
「柚月?」
「ひ、あ、はいっ!?」
「聞いてなかったな、お前」
「す、すいませ……」
「まあ、いいけど。――俺が囮になるから、先に行け」
 いいな、と走り出しながら言われて、柚月は困惑しながらも「はい」と返事を叫んだ。
 
廊下には、十人ほどの男が居た。
 屈強な体つきの男たちは、目を爛々と輝かせては侵入者が居ないか、警戒をしているようであった。
 ブレーカーが落ちてから五分経過している所為か、男たちの手には懐中電灯が握られている。それを目にすると、夜雨はにやりと人の悪い笑みを浮かべてみせた。夜雨たちが居るのは女子寮の西棟。最近、廊下に鏡を設置したとつい先日桔梗から聞いていたのである。
「鬼さん、こちら! 手の鳴る方へ!!」
 悪戯っ子のようにはしゃぎながら、猛スピードで男たちの間をすり抜けていく。
 目当ての鏡まで一気に走ると、夜雨が得意げに笑ってみせた。
 追手の男たちの懐中電灯が一斉に彼へと向けられ――閃光弾のように眩い光が廊下を照らした。
「うがあ!! 何だこれは!!」
「何をした!!!」
 懐中電灯を放り投げて、悶絶する男たちに夜雨が猫のようにすっと目を細める。
「理科の授業で習うだろ? 瞳孔の収縮。それを使っただけだよ」
「このガキっ!」
 男の一人が拳を突き出す。
 避けるわけでもなく黙って拳を見つめる夜雨に柚月が悲鳴を上げた。
「先輩!」
「わーってるって」
 素早い動きで男の手を取り、力いっぱい放り投げる。
 ダーン、と鈍い音が廊下に響き渡るのを合図に、柚月は夜雨の元まで一気に走った。
「先に行けって言ったろ」
「で、でも」
「……何? もしかして、俺のことが心配だったのかにゃ?」
 おどけたようにそう言った夜雨の言葉に、柚月の顔がじわり、と赤みを帯びていく。
 暗闇の中だと言うのに分かるほど、真っ赤に頬を染めた柚月に夜雨は目を白黒させた。
「マジで?」
「……っ」
「ふーん」
 にやにやと、いやらしい笑みを浮かべる夜雨に、柚月が耐え切れないと両手で顔を隠す。
 手紙の入った袋を担ぎ直すと夜雨が柚月の前に手を差し伸べた。
「そら、行くぞ」
「え、あの……」
「俺が心配なんだろ?」
 手を握って捕まえておけば、と言わんばかりに差し出された彼の手に頬の熱が上がるのが嫌でも分かった。
「…………自分が手繋ぎたいだけやって言うたらどないです」
「にゃはは、可愛くねえ女」
 ぐい、といつかのように手を引っ張られて思わず固まる。
 鼻歌交じりに歩き始めた夜雨に、半ば引きずられるようにして歩き始めた。

「……これで、最後っと」
 停電の混乱でか、思ったよりも警備が少なく、早めに手紙を配り終えられた桔梗は満足そうに笑みを浮かべた。
「終わったか?」
 別の階に配っていたシアンが空になった袋を持って、窓から姿を見せる。
 体躯の割に、軽い身のこなしをするシアンに思わず目を奪われていると、背後で小さな物音が響いた。
「なるほど、ここに誘い込むために敢えて入口の警備を少なくしたのか」
「あの爺が考えそうなことですね~」
 警棒を持った男たちが次々と現れるのに、桔梗が嫌そうに溜息を吐き出す。
 シアンはと言えば、面倒くさそうな顔をしながらも、ちゃっかり忍ばせていた竹刀を手にして彼らを迎え撃つ準備をしていた。
「……やる気満々じゃないですか」
「最近動いてなかったからな。お前はそこで休んでろ」
「はーい」
 鬼神の如く的に突っ込んでいったシアンの後姿に、桔梗は苦笑をかみ殺す。
「あはは、超楽しそう」
 廊下に置かれた寮監用の椅子に腰を下ろして、バッタバッタと敵が吹っ飛んでいく様を見守る。
 銀色の髪に汗が張り付いて、きらきらと眩しい。
 初めて出会った時もこんな風に木の上から彼が校長の手下と戦っているのを見ていたな、と数年前のことを思い出した。
「……寝ているのか?」
 瞼を閉じて干渉に浸っていたからか、すぐ近くで聞こえたシアンの声に、反応するのが遅れてしまう。
 起きています、と伝えようと目を覚ませば、息が掛かりそうなほど近くに彼の顔が迫っていて、咄嗟に拳を突き出してしまった。
「危ねえな」
「だ、だって! 先輩がこんな近くにいると思っていなくて!」
「何だ? 何かされると勘違いしたのか?」
「な!?」
 ボッと火が付いたかのように顔を赤くした桔梗に満足したのか、シアンは笑いながらに彼女の手を引いた。
 強い力で引き寄せられたかと思うと、抵抗する間も与えられずに軽々と持ち上げられてしまって、桔梗は動揺のあまり目を泳がせることしか出来ない。
「……もう好きにしてください」
「いつも、そうだと可愛いんだがな」
 ぎゃーと桔梗の悲鳴が早朝の男子寮に木霊した。

 二人きりで行動できるのが嬉しくてつい浮かれていた。
 肩で上がる息を整えようと大きく息を吸い込むと、背後に立っている理世が笑うのが気配で分かった。
「なに?」
「いや、楽しいなと思って」
「あっそう」
 釣れないね、と笑いながら回し蹴りを決めた理世に紗七は肩を竦める。
「ねえ、もう飽きてきちゃったんだけど」
「あとちょっとで目的地なのに……」
 二人して溜息を吐き出した理世と紗七の前には数十人にも上る男たちが立ちふさがっていた。
 理世と紗七が通って来た道には屍のように伸びた男たちが転がっており、その数を合わせると少なく見積もっても百人は超えそうである。
「仕方ない。裏道を使おうか」
「そういうのがあるなら、もう少し早く教えて欲しかった!」
「おいで」
 竹刀を持っていない方の手を掴まれたかと思うと徐に窓を開けた理世に、紗七の顔が硬直する。
「まさか……」
「この壁を伝っていけば、もうすぐだから頑張って」
 良い笑顔で毒を吐く理世に、紗七は深い溜息を吐き出した。
「今何時?」
「六時十五分。五分で登って配れば、ぎりぎり間に合うよ」
「冗談でしょ?」
 所々にあるベランダの柵に飛び移りながら、紗七はどこか遠い目で理世の背中を見つめた。昔から運動神経には自信があったが、彼の前だとその自身は粉々に吹き飛ばされてしまう。猫のようにしなやかな動きで先を行く理世に追いつこうと手を伸ばした、その時――。
 がくん、と足の力が抜けて身体を浮遊感が襲う。
「紗七!」
 強い力で手首を掴まれて、何とか落ちることは免れるが、苦痛で歪んだ理世の顔に紗七はハッとしたように叫んだ。
「何で助けたの! 間に合わないよ!」
「馬鹿!! 大事な婚約者を見殺しにする奴がどこにいるんだよ!!」
「でも!!」
「良いから! そっちの柵に足を引っかけられる?」
 言われるまま、近くの柵へ片足を置けば、同じように理世も隣へ降りてくる。
「あーあ。あとちょっとで入口だったんだけど……。逆戻りだね」
「ごめん」
「紗七の所為じゃないよ。俺がこっちを通ろうって言ったんじゃないか」
 しゅん、と項垂れる紗七の髪に優しくキスを落として、理世は笑った。
「何だか昔に戻ったみたいだね」
「え?」
「ほら、手合わせの時に俺がケガしちゃって」
「ああ……」
 子供の頃のことを言っているのだと、すぐに気が付いた。
 理世の顔は綺麗に整っているが、左の眉に裂傷の跡がある。冗談半分で真剣を使って稽古をしていた時に、足を滑らせた彼の眉尻を誤って斬ってしまったのだ。
「あの時も、今と同じように泣きそうな顔をしてた」
「……してないよ」
「してるよ、ほら」
 眦に溜まった涙を舌で拭われて、紗七は目を見張る。
「しょっぱいね」
「ばか……」
「んん、出るとこ間違ったぽいにゃあ……」
「ちょ、押すなや!! バレるやろ!」
 室内から声がすると思えば、夜雨と柚月が気まずそうな顔をして理世たちの前に顔を出した。
「良いところに来た」
「ひ、な、何スか! 何も見てませんよ!」
「お前、高い所得意だったよな?」
 残りの手紙が入った袋をちらつかせながらそう言った理世に、夜雨がひいと悲鳴に近い声を上げる。
「有無を言わさぬ圧力!!」
 半泣きで軽々とベランダを渡っていく夜雨に、さっきまでのかっこ良かった彼の姿が重なり、柚月は引いたはずの熱が再びぶり返すのを感じて深い溜息を吐き出した。
「何か良いことあったの?」
「なーんも。そういう紗七こそ、先輩といい雰囲気やったんとちゃうん?」
「うん」
「うん、てアンタなぁ」
 微笑みを浮かべる親友に脱力すると、彼方から悲鳴が聞こえてくるのに、柚月たちはそちらに目を凝らした。
「ちょ、いい加減降ろしてください!! 恥ずかしい!!」
「暴れるな! 俺まで落ちるだろうが!」
「そう思うなら、こんな屋根の上走らなくてもいいでしょうが!!」
 一つ隣の建物の屋根の上を走るシアンの腕の中に居る桔梗が、乙女にあるまじきドスの効いた声でシアンに抗議する。
 その様子を見た理世が徐に携帯を取り出して、動画モードを起動させた。
「やめてあげて」
「ええ……。ダメ?」
「ダメ」
「じゃあ、我慢するよ」
 ケラケラと笑いながら、携帯をしまった理世に紗七と柚月が胸を撫でおろす。
 髪の毛がぼさぼさになった夜雨が帰って来たのは七時五分前。朝日に照らされた郵便部員たちの顔には疲労の二文字がありありと浮かんでいたという。