4話 白銀の襲来

「桔梗!」
 切羽詰まった友人の声に、桔梗は伏せていた机から緩慢な動作で顔を上げた。
 昨日は配達当番だったため、あまりよく眠れなかったのだ。
「なぁに?」
「校門のところでアンタの名前を叫んでいる強面の人がいるんだけど……。知り合いかどうか確かめてくれない?」
 そう言われて初めて、窓の外が騒がしいことに気が付いた。
 そっと目線を校門の方に向ければ、黒塗りの車とそれから長身の男が見える。
「桔梗! 居ないのか!! 居るなら五秒以内にここまで来い!!」
 聞き慣れた――否、嫌と言うほど知っている声に、桔梗の顔から血の気が引いた。
「あ、旭日様?!」
 どうしてここに、という二の句を告げる前に、桔梗は窓を開いて飛び降りた。
 五秒以内に姿を見せなければ確実に殺される。
 半泣きのまま、派手な登場をしてみせた桔梗を見て男はにぃと尖った八重歯を見せて笑った。
「遅い」
 語尾にハートマークがつくのでは、と思うほど甘ったるい罵倒と重い拳骨を受け止めると、桔梗は涙目のまま男を見上げた。
 長身の痩せ型、加えて隻眼の男は、どこからどう見ても堅気の人間ではない。
 アジアで知らない者は居ないとさえ噂されている中国マフィア「銀龍会」のボス、旭日であった。
「……今日はまた、どういった御用件でこんなところに?」
「何、久しぶりに妹分の顔を見ようと思ったまでのこと。華月が身重だからな。あまり長居は出来そうになかったので、こうして叫んでいたのだ」
「なるほど……って、華月様妊娠したんですか!!」
「言っていなかったか?」
「聞いていません!!」
 ぎゃん、と旭日に噛みついた桔梗を諌めたのは、車の後部座席に座っていた黒髪の美女――華月だ。
「二人ともお止めなさいな。こんな往来で。だから言ったでしょう、旭日。学校が終わるまで待ちましょう、と」
「だが、お前も早く桔梗の顔を見たいと言っていただろう」
「それはそうですけれど……」
「桔梗、今日は外泊許可を取れ。話したいことがたくさんあるのだ」
 旭日の言は絶対である。
 急な外泊届は校長に受理されない恐れがあるが致し方ない。
 桔梗は分かりました、と短く告げると担任である柊に外泊許可を申し出るのであった。

 意外なことにあっさりと許可が下りたので、桔梗は郵便部の友人たちにその旨を伝えた。
「それで昼間、ちょっとした騒ぎになっていたのか」
「ええ。危うく警察に通報されるところでした……」
「しかし、銀龍会と言えばアジアの中で一、二を争う大物中の大物。そんなところとつながりがあったなんて、君も隅に置けないな」
 理世がくつくつと楽しそうに笑うので、桔梗は弱々しく首を振ってみせた。
「私だって最初はそんなところと懇意になるだなんて思いませんでしたよ。遠縁のお姉さんが嫁いだ先がマフィアだっただけです」
「一度は言ってみたいセリフだね」
「紗七に頼んでみたらどうです?」
 軽口の応酬をはらはらと見守っていた柚月は隣に立つ友人の袖を引いた。
「さ、紗七、不穏な空気になってきたんやけど……!」
「いい加減に慣れなよ、柚月。りいのアレはスキンシップのつもりなんだって」
「むりむりむり! 理世先輩の目ぇ笑ってないねんもん!」
 ひい、と引き攣った悲鳴を上げて紗七の後ろに隠れた柚月に、紗七が呆れたように苦笑を零した。
「と、いう訳で、明日の昼には戻ってきますから。何かあったら連絡ください」
「分かった。気を付けて行っておいで」
「はぁーい」
 鼻歌交じりに部室を去った桔梗と従兄を見比べて、紗七が眦を和らげながら理世に近付いた。
「珍しいね。りいが二つ返事で外泊を許可するの」
「そうかな? 余程のことが無い限り、皆にも学園生活を楽しんでほしいのが俺の本音なんだけど」
 穏やかな笑みを浮かべた彼に異論を唱えたのは、桔梗と入れ違いで現れたシアンと夜雨の二人だ。
「なら、ポストの数を減らして貰えませんかね? これじゃあ学園生活を押下する前に倒れちまう……」
「同感だ……」
「まったく君ら二人は堪え性が無いなぁ。仕方ない。日頃頑張っている皆にご褒美を上げよう」
 そう言って理世が机から取り出したのは人数分の優待券だ。
「諸君、ビュッフェは好きかな?」
 その瞬間、割れんばかりの歓声が郵便部の部室に響き渡った。

 迎えにきた旭日の車に揺られて到着したのは、桔梗の実家――東屋温泉旅館である。
「うちに泊まるなら、もっとお土産とか買ってきたのに」
「お前の顔を見るだけでも十分な土産だろうよ」
「そうですかね?」
「応とも」
 旭日の言葉に、桔梗はふふっと小さく笑い声を上げると、案内された部屋に身体を滑り込ませた。
 旅館の中でも最高級の離れ「銀青の間」のベッドで華月は寛いでいた。
「ご無沙汰しています、華月様」
「久しぶりね、桔梗。様付けなんて辞めて、昔のように呼んでほしいわ」
「……は、はい。姉さん」
「ふふ。こっちへいらっしゃいな。すっかり遅くなってしまったけれど、赤ちゃんを貴女に紹介させて」
 華月の手に導かれて触れた彼女のお腹の中にはもう一つの生命が宿っていた。
 とくとく、と二人分の脈拍に知れず、頬が和らぐ。
「和んでいるところ、悪いのだがな」
 桔梗と華月、それから自分の分の茶を用意しながら、旭日が低い声を出した。
 彼がそんな声を出すときは決まって、何か難しい問題を口にする時で、桔梗の顔が思わず強張る。
「お前の学校について、少し調べさせてもらった」
「……中国にまでうちの学校のことが?」
「いや。個人的な興味で調べただけだ。だが、面白いことが分かったぞ」
 旭日の片方しかない左目が爛々と赤く輝いた。
「校長の兄が警察庁の人間だと言っているそうだが、アレは真っ赤なでたらめだ。正しくは俺たちと同じ部類の人間がバッグについている」
「!」
「それから、異性交流を禁止している訳についても分かったことがある。何人か自主退学、もしくは行方不明になった生徒が居なかったか?」
 校長が着任してからまだ一年と半年。
 桔梗が知る限り高等部からは五名、大学部からは三名ほどが「こんな学園生活は耐えられない」と言って学園を去っていたはずだ。
「人身売買が行われているという話を聞いたことは?」
「い、いいえ」
「くくく。ほらな、華月。こいつらは外の情報を完全に遮断されている。あそこは現代の造られた楽園。離島の小島ってわけだ」
 旭日の言葉に華月の額に冷汗が浮かんだ。
 そんな学校に可愛い妹分をいつまでも置くわけにはいかない。
「桔梗。今からでも遅くはありません。そんな学校は辞めて、もっと真面なところに……」
「でも……」
 あの学園には、たくさんの思い出がある。
 友人たち、それにシアンだって……。
 薄っすらと頬を染めながら困惑の表情を浮かべる桔梗に、旭日が人の悪い笑みを浮かべて言った。
「案ずるな。辞めずとも良い。俺があの学園を手に入れてやるからな」
「どういうことです?」
「あの学園は近々スポンサーが変わることになっている。恐らく校長の兄なる人物が本格的に学園を牛耳るつもりなのだろうが、そうはさせん。常盤家と白露会も動いている。潰れるのは時間の問題だ」
 常盤家と言えば、理世と紗七の実家であり、白露会は柚月の実家だ。
 言わずと知れたヤのつく職業の方々である。
 本格的な抗争の気配を感じて、桔梗は引き攣った笑みを浮かべることしか出来なかった。
「さて、お前のお友達を名乗る男にこんなものを渡されたのだがな。行ってみるか?」
「……茶髪の人でした?」
「そうだ。いけ好かない目をした餓鬼だった」
「……だぁから、私に旭日様と会うように言ったわけね」
 理世の用意周到さに呆れて物も言えない。
 旭日が嫌そうに握っていたのは、常盤家が経営している高級レストランのビュッフェパーティーの優待券だった。

「やあ、桔梗」
「どうも。ご招待ありがとうございます。先輩のご指示、というか、思惑通り旭日様をお連れしました」
 艶やかな着物を身に纏った桔梗の斜め後方、真っ白なファーが付いたコートを着たスーツ姿の旭日が不機嫌を隠そうともせず理世を睨んでいた。
 隻眼の男から睨まれているというのに、理世は常と変わらぬ、何を考えているのかよく分からない人形のような笑顔を浮かべて、旭日に握手を求める。
「お初にお目に掛かります。ドン・旭日。常陸家跡取りの――」
「常陸理世、だろう? 知っているとも。お前が裏でどんな手回しをしているのかもな」
「流石、耳が早い。なら、今日ここにご招待した意味も伝わっている、と解釈しても良いでしょうか?」
「……つくづく食えない餓鬼だな」
「誉め言葉として受け取らせてもらいます」
 虎と龍が向き合ったらこんな感じなのだろうか、と眼前で繰り広げられるやり取りに桔梗が辟易としていると、トンと肩を叩かれる。
「よう」
 スーツに身を包んだシアンが、料理を綺麗に盛り付けた皿を持って話しかけてきた。
「先輩、知っていたでしょ?」
「言っておくが、俺は一応止めたからな。せっかく来たんだ。仏頂面ばかりしていないで、食事を楽しめ。お前好みの料理があっちにあったぞ」
「とても食事を出来る心情ではないんですけど」
「まあ、そう言うな。ほら、これでも食って元気出せ」
 差し出されたローストビーフを何の躊躇もなく口で受け取ると、仄かな甘みと肉汁が口の中を満たした。
「おいしい!」
「だろ? 今、出来たばかりだからまだたくさんあるぞ」
 すっかり機嫌を良くした妹分が男に連れられて自分の傍を離れていくのに、旭日は短く溜息を吐き出した。
 この場に華月が居たならば、黄色い声を上げて喜びを表現していたことだろう。
 だが、身重の妻を立食パーティーに連れ出す訳にはいかない。
 華月もそれを分かっているからか「お土産をお願いしますね」と少し寂しそうな笑顔で旭日と桔梗の二人を送り出してくれた。
「……貴様はどこまで知っている?」
「どこまで、と言うのは?」
「俺は回りくどいことが苦手でな。答える気がないのであれば、今日は帰らせてもらう」
 懐から葉巻を取り出した旭日に、理世は片眉を上げてそっと睫毛を伏せた。
 流石アジアに名を馳せるマフィアのボスである。
 実家の萎びた老人どもとは格が違う。
 そっと掌で口元を覆った。
 かつてない昂揚感に思わず笑みが浮かぶのを押さえられなかったのだ。
「校長の兄が警察庁の人間ではなく、こちら側――裏組織に関わりのある人物だということまでは掴んでいます」
 そちらは、と運ばれてきたウェルカムシャンパンを理世が旭日に差し出した。
「日本の組織にしてはよくやったというべきか」
 旭日はそう言って品定めするように理世の姿を上から下までじっくりと眺めた。
 一見すると物静かな優男にしか見えない。
 だが、その瞳に宿る冷たい炎を旭日は見逃さなかった。
「……ふっ。まあ良い。桔梗が世話になっている礼、と思えば安いものか」
 くくく、と喉を晒して笑う旭日に理世も釣られて口元を綻ばせる。
「この国で人身売買が行われていると言ったら、貴様はどうする?」
「それが本当なら俺は今すぐにでも親父を蹴落として当主になります」
「そう慌てるな。餓鬼は餓鬼らしく自分に出来ることだけをしていればいいさ」
 旭日が楽しそうに隻眼の眼を歪め、シャンパンを煽った。
「……何か手伝えることはありますか?」
「否。餓鬼を危険に晒したと知れたら奥に何を言われるのか分からんからな。あまり目立つようなことはするな」
 殊更「あまり」という部分を強調した旭日に、理世はじとりと彼を睨んだ。
「一応、成人しているのですがね」
「それでも学生の内は大人に甘えておけ。貴様はいずれ嫌と言うほど『大人』としての対応を求められる」
 どこか遠い目をしながらそう言った旭日から、理世はそっと視線を外した。
 この男の言葉は酷く胸に突き刺さる。
 顔を歪めた理世の背中を旭日が勢い良く叩いた。
「ごほっ……ちょ、何を……!」
「拗ねている暇があるなら、策を練れ。策の出来次第では使ってやらんこともない」
 カカカ、と豪快な笑い声を上げて、料理を取りに行った旭日の後姿をただじっと見つめることしか出来なかった。

「理世」
 わざと気配を消さずに近付いてきた紗七に理世は弱々しく肩を竦めた。
「どうしたの、紗七」
「……校長の犬が何匹か迷いこんだみたい」
「知っているよ。わざと紛れ込ませたんだ」
 すぐ隣に並んだ紗七の姿は常とは違いフォーマルなパンツドレスを身に纏っていた。
 理世が一番好きな深紅のドレスを纏った彼女に、胸の中に巣食っていたもやもやが僅かばかりに晴れたような気がした。
「こちら側についてもらおうと思って」
「それでわざわざ実家の人間を配備したの? 佐伯やイリアまで呼び寄せて?」
「勿論。穏便に済ませるためさ。俺だって手荒な真似は避けたい」
「よく言うよ。皆に黒っぽい服を着せているのは血が飛んでも目立たないようにするためでしょ?」
 呆れたように溜め息を吐き出した従妹に理世は微笑んだ。
 幼い時から共に過ごしてきた彼女に隠し事は出来ないらしい。
 ちゃっかり、自分も懐に短刀を忍ばせていることを指摘すれば、どこかバツの悪そうな顔で理世を睨んでくるのだから、紗七のうっかり具合にどんな表情を浮かべるのが正解なのか分からなくなった。
「りい」
「ん~?」
「口開けて」
「こう?」
「ん」
 これ以上言及されては敵わない、と紗七は理世の煩い口を塞ぐことにした。
 近くのテーブルに置いてあったチキン南蛮をありったけ、彼の口に詰め込む。
「ひょ、ふぁな、ふぉんふぁにふりふぁっふぇ(ちょ、紗七、こんなに無理だって)」
「大丈夫。りいならイケる。さ、どんどん食べて」
 ハムスターのように頬袋を膨らませる理世がおかしかったのか、紗七が次から次へと理世の口に料理を放り込んでいくのに、常陸家の人間はひやひやとした様子で見守るのであった。

「桔梗」
「あれ、もう終わったんですか?」
 鼻歌交じりに葉巻を咥えてこちらに近付いてきた旭日に、隣に立つシアンの気配が変わる。
「ご無沙汰しております、ドン」
「……ウェルテクスの子か。見ない間に随分と育ったようで」
 滅多に人を見上げる機会が無いので、旭日は興味深そうな様子でシアンのことを見ていた。
「お知り合いだったんですね」
「子供の頃に一度、我が家に来たことがあるんだ。その時にお会いしたきりだが」
「あの時はまだ俺の腰元に頭が届くか届かないかだったというのに、まさかこんなに育つとは。流石、アレンの息子と言ったところか」
 父親の名前を出されたシアンの顔がこれ見よがしに歪んだのを見て、旭日がにやりと人の悪い笑みを浮かべる。
「ふっ。親子仲は相変わらずか」
「それは言わないでください。思い出すだけでも、胃がむかむかしてきました」
 意外な接点に桔梗が目を丸くしていると、不意に真横のテーブルで食事を楽しんでいた柚月の悲鳴が上がった。
「ちょ! 離してください!!」
 見れば、校長の犬として学園で闊歩している男が彼女の細腕を掴んでいる。
「そう抵抗するな。余計に燃えるだろ」
「嫌やって言うてるやないですか!! 離してっ!!」
 動きづらいドレスで身を包むのではなかった。
 紗七のようなパンツドレスにしていれば、迷いなく蹴りを繰り出しているところだ。
「…………おい、おっさん」
 低い声がシンとした空気の中に響いた。
「ここがどこだか分かっていて、そんなことしてんのか?」
「は?」
 男が声のした方を振り返るより早く、それは動いた。
 ドン、と鈍い音が響いたのと同時に柚月の手を掴んでいた男がその場に倒れる。
 ふらついた柚月の身体を抱き留めたのは、殺意を隠そうともせず握った拳を開いたり、閉じたりを繰り返していた夜雨だった。
「……あー、すんません。先輩」
「元々、タダで帰すつもりはなかったから構わないよ。まあ、今ので何人か気絶して貰わないといけなくなったけれど」
 こてん、とわざとらしく首を傾げた理世の姿を見るや否や我先にと出口へ走り始めた数名の男たちを佐伯以下、常陸家の精鋭たちがぐるりと取り囲んだ。
「手荒な真似はしたくない。俺の言いたいこと、分かるよね?」
 チャキ、と構えられた拳銃と刀の数に圧倒されたのか、男たちは力なくその場にへたりこんだ。
「ほう? なかなかやるな」
「よろしければ、一匹持ち帰りますか」
「そうだな。奥に土産を頼まれていたのを忘れていた」
 ぺろりと、ローストビーフを平らげた旭日の顔は獣のそれと同義であったと後に桔梗は語るのであった。

「あ、あの」
 ビュッフェからすっかり公開拷問場と化したレストランのテラスから外の景色を楽しんでいた夜雨の下に、柚月が近付いてきた。
「んー?」
「さっきは、その、」
 ありがとうございました、と拙く告げられた少女の言葉に、夜雨は苦笑した。
 礼を言われるようなことをした覚えはない。
 先程は、気が付いたら身体が動いてしまっていた。
 他の男が彼女に触っているのを見て、我慢が出来なかったのである。
「だいじょぶ?」
「あ、はい。跡は残ってないんで、そんなに強くは握られて――」
 ない、と続くはずだった言葉は詰められた距離の所為で飲み込むはめになった。
「……赤くなってる」
「え、」
「ここ」
 示された場所は男に握られていた箇所であったが、捻った時に赤くなってしまったのだろう。
「待ってな」
 そう言い残したかと思うと、夜雨はレストランの中に戻っていった。
 暫くして白い布巾をもって戻ってくると、無言のままそれを柚月の手首に巻いた。
「あ、ありがとう」
「ん」
 今日の夜雨はいつもと違って大人しい。
 それに、常は被っているトレードマークの猫耳付きの帽子を被っていない所為か、子供っぽい印象が抜けて別人のように見えた。
「さっき」
「?」
「間に合わなくてごめんな」
 痛かっただろう、と今しがた布を巻いたばかりの手首に触れられて、柚月は軽く首を横に振った。
「何で先輩が謝るんです?」
「近くに居たのに気付くのが遅れた」
「それは、うちが油断したからで、先輩は何も悪くないやないですか」
「……俺が悪いよ。好きな女があんな下衆野郎に触られているのに、ちゃんと守ってやれなかった」
 じっと、真っ赤な目に見つめられて、柚月は思わず「え」と声に出して固まった。
 この男は今、何を言ったのだろうか。
「あー……。こんな形で言うつもりじゃなかったんだけどさ」
――好きだよ、柚月。
 ぎゅう、と優しく抱きしめられた体温に、ぶわり、と熱が上がったのが嫌でも分かる。
 先程、男に触れられたときは嫌悪感しかなかったのに、夜雨に触れられても少しも嫌じゃなかった。
 それの意味する答えに、柚月はあわあわと唇を震わせる。
「返事は?」
「へあっ!? 今!?」
「当たり前だろ。振るなら早めに頼む。部活に支障は出したくないからな」
 理世先輩に殺される。
 ぶるぶると震える彼に、柚月はくふり、と笑みを零した。
「……うちも、うちも先輩のこと好きですよ」
 そっと、背中に手を回せば、存外に逞しい彼の胸から鼓動が伝わってくる。
 忙しなく脈打つそれにカラカラと笑い声を上げたのは一体どちらが先だったのか。
 そんな二人の様子を、郵便部一同が生温かい笑顔を向けていたことを知るのは、もう少し先の話である。