今朝の空気が冷たく髪の隙間を通り抜けていった。
寒い、と小さく呟いた桔梗の声は、まだ宵闇を滲ませた明け方の空に消えていく。
「……それにしても、華月姉さん遅いなぁ」
自分から話がしたいと言ったくせに、と変わり者の遠縁に思いを馳せるも、季節は冬。風呂上がりの体温をじりじりと奪われる感覚に、思わず溜息を洩らした。
「桔梗さん」
ふと、耳慣れない声に桔梗は何の疑いもなく、そちらを振り返った。
手に荒縄を持った男が、ひとり。
錆びた鉄に似た色の眼で桔梗を見ていた。
「どなた?」
男に視線を向けたまま、桔梗が一歩後ろに下がる。
「私ですよ、私」
そう言われても、心当たりが微塵もない。
一体誰なのだ、と桔梗が眉間に皺を寄せたのと、男が動いたのは殆ど同時であった。
長身からは考えもつかないような俊敏さで、桔梗の首を捉えることに成功すると、男の武骨な腕が、あっという間に桔梗の身体を縛り上げてしまった。
「…………あなた、いったい」
「直に分かりますよ。それまで、どうかお静かに」
ふふ、と不気味に弧を描いた男の眦を最後に、桔梗の意識は黒く染まった。
最初に異変に気が付いたのは、桔梗の親戚筋——正しくは義理である――の旭日だった。
「おい、桔梗はどうした?」
「え? 華月姉さんに呼ばれているからと言って、まだ日も昇らぬうちに部屋を出て行きましたけど」
桔梗の母、霙が頬に手を添えながら、そう言うと、旭日の眉間に刻まれた皺が更に深さを増した。
「……小僧共を呼べ。それから、藤月を借りるぞ」
「?」
「華月は昨晩から、病院に居る。ここに居ないのに、どう呼ぶと言うのだ」
「な、何ですって?!」
霙の顔から見る間に血の気が引いた。
家柄から、荒事に慣れているとはいえ、自分の娘が巻き込まれたかもしれないとなると話は別である。
慌てて、桔梗の友人たちと夫を起こしに行った彼女の後姿を見送りながら、旭日は懐から携帯を取り出した。
「……俺だ。こちらの方は準備が出来次第、合流する。それまで、アレのことは頼んだぞ」
御意、と小さく返ってきた声に、安堵の息を吐き出す。
多少強引な手段を取ることになってしまったが、致し方ない。
後で、華月に怒られるな、と出産のために病院で眠っている妻を想いながら、旭日は口元を緩めた。
「それで、桔梗はどこに!?」
寝起きにも関わらず、竹刀を片手にすっ飛んできた知り合いの息子に、旭日は苦笑を噛み殺す。
「まあ、待て。すでに居場所は掴んでいる。後は、向こうの出方を待つだけだ」
「……どういうことです?」
「十中八九、お前たちが通う学園の校長の仕業だと見て良い。そして、奴らが最近根城にしている場所には、俺の部下たちを潜り込ませている」
旭日が煙管を燻らせながら告げるのを聞いて、理世の目の中で、ゆらりと炎が揺れた。
「……やつらの根城は、旧校舎ですね?」
恐ろしく冷えた声を発した青年に、旭日はククッと喉を逸らして笑う。
己が若い時を思い出させる姿を見て、肩を竦めると、一つしかない眼で、じっと青年を見つめた。
「つくづく、お前が味方で良かったと思うな。常陸の名が頂点に返り咲く日も近いようで、安心したよ」
「揶揄っている余裕がある、ということは、桔梗の無事は確認済みですか」
旭日の言から、桔梗の状態まで判断する、という一歩先の見解をしてみせた理世に、彼以外の郵便部の顔に安堵の色が広がっていく。
「本当に可愛げのない男だ。そこまで分かっているのなら、話は早い。何、桔梗とて、大人しく掴まっているような娘ではあるまい。アレが時間を稼いでいる間に、我々はあるものを手に入れようと思っている」
「あるもの、というと?」
「貴様のことだ。ある程度の情報は掴んでいよう? そこの黒猫を使ってな」
黒猫、と呼ばれ、ぎくりと肩を震わせた夜雨を、隣に立っていた柚月とシアンが覗き込もうとするも、直後に響いた理世の笑い声に二人の視線は釘付けになった。
「あっはっは!! 夜雨の動きまで把握しているとは、流石としか言えません。やっぱり、もう少し早く貴方にお目に掛かりたかった」
「見つけてくれと言わんばかりに跡が残っていたが、俺の気の所為か?」
「さあ? 何のことだか、分かりませんね」
子供みたいな笑顔を浮かべながらも、吐き出す言葉の温度は変わらない。
腹の中に何を飼っているのか、旭日をもってしても、その内情は計り知れなかった。
「まあ良い。中身の詳細は省くが、校長とその兄が学園を喰いものにしている証拠を、これから見つけ出そうという訳だ」
「つっても、校長室はもう床の下に至るまで、全部探しているんですケド……」
一体、どこを探すんです、と首を傾げた夜雨に、旭日の口角が持ち上げられる。
「探さずとも良い。あちらからやって来る」
「は?」
「桔梗には悪いが、アレを撒き餌にさせてもらった。今までにない上玉だ。必ず校長の兄なる男がやって来る。――後は、分かるな?」
皆まで言わせるな。
赤く濁った眼に睨みつけられた一同は、暫しの間「蛇に睨まれた蛙」体験を堪能した。
煙管の煙が薄くなるのを待ってから優雅に動き始めた旭日の後姿を追うように、ゆっくりと部員たちも歩みを進める。
――郵便部の歴史に名を残す、長い一日の始まりだった。