レストランの一件が耳に入ったのか、その後三日間ほど校長は学校に姿を現さなかった。
嵐の前の静けさだ、と誰もが思っていたのだが、ケロッとした顔で「昨年から予定していた旧校舎の改装を行います。その為、春休みを一週間早め、明日から全学部を休校。寮も閉鎖しますので、本日は帰宅準備に専念してください」と全校集会で宣言したのである。
「一体、どういうつもりなんでしょうか?」
皆の気持ちを代弁した桔梗に、理世もこくり、と頷いた。
「ドンと一緒にこってり絞ったつもりだったが、考えが甘かったかな? 誰かがチクらなきゃ、こんなにタイミング良く動けるはずがない」
「ああ。それに寮住まいの連中を全員追い出すってのも気に食わねえ。これから何か悪いことをしますって言っているようなもんじゃねえか」
「同感だ。だが、不幸なことに僕たちは全員寮住まい。今後のことを考えるのに、どこか適した場所があれば良いんだけど……」
探す時間が無い、と頭を捻る上級生たちに桔梗が「はい」と挙手してみせた。
「はい。桔梗君」
「我が家はどうでしょう? 学園からも近いですし、何より温泉に入れます」
「……良いね。採用」
「じゃあ、準備が出来たら裏門に集合しましょう。私は送迎用のバスを手配してきます」
どこかウキウキとした様子で部室を飛び出して行った彼女の後姿を見送ると、一同は顔を見合わせた。
「桔梗ちゃんの実家って確か……」
夜雨が噛み締めるような口ぶりで言葉を紡ぐ。
「老舗旅館・東屋。著名人や官僚から、宮家御用達の有名な旅館だよ」
理世の声も、興奮のあまり僅かに上擦っている。
わっと沸いた郵便部の部室を、赤い髪の男が舐めるように見つめていたことを、この時の部員たちは知る由もなかった。
老舗旅館・東屋に到着したのはその日の夕方だった。
桔梗の口振りからすると学園から程近いと思われていた旅館は、実際には山を二つ超えた先にあるとても同じ都内とは思えない静かな山奥に存在していた。
「わあ!」
先程までバスの中でグロッキー状態になっていたとは思えない俊敏さで建物に駆け寄った紗七と柚月の二人に桔梗がくすりと笑みを浮かべる。
「げ、元気だね、あの二人」
「お前、大丈夫か?」
「見ての通り、全然大丈夫じゃない……!」
うぷ、と顔色を青くした理世にシアンが肩を貸す。
酔っぱらいのような足取りで建物の中に入っていった彼らに続いて夜雨はゆっくりと最後尾を歩いていった。
「今の時期は空いているので、どこを使ってもいいそうです。ただ離れの方は旭日様たちが泊まっているので……」
「なるほど……。それなら、ドンが宿泊している離れに近いところを頼むよ」
「分かりました。一度聞いてきますね」
とりあえず、ロビーで待つように言われたので、和モダンな空間にデカデカと存在をアピールする高級そうなソファに恐る恐る腰を落とした。
「やばい。このまま寝そう」
どろり、と溶けた紗七の姿に柚月が苦笑を零す。
「もう、こんなところで寝たら風邪引いてまうよ」
「大丈夫。ここ数年は風邪引いたことないから」
「えーうそぉ」
「ほんとぉ」
クスクスと笑い声を奏でる一年女子組を一同がほんわかとした気持ちで眺めていると、桔梗の焦った声がロビーに響いた。
「ちょ、ちょっと! 駄目ですってば! 華月姉さん! 私が旭日兄さんに怒られる!!」
桔梗の制止も聞かず、ロビーに現れたのは夜色の髪が美しい長身の女性だった。
「大丈夫よ。少しくらい運動した方がお腹の子にも良いってお医者様も言っていたもの」
「でも!」
「貴女が普段仲良くしている子たちが来ているのでしょう? 挨拶くらいさせて頂戴な」
そう桔梗を宥めたかと思うと、華月は郵便部一同の顔を興味深そうに観察した。
次いで、ゆるりと優しい表情になって、真っ先にシアンの方へと歩みを寄せる。
「貴方がウェルテクス伯爵のご子息ね。旭日と桔梗から話は聞いています。これからも、桔梗のこと、よろしくね」
「ね、姉さん!!」
桔梗の顔が暗い照明の中でもはっきりと分かるほど赤く染まった。
宛ら雪の中に咲いた椿のように色付いた彼女の顔と華月を見比べて、苦笑を零す。
何と答えれば良いのか分からず、取りあえず握手を求めれば、華月の眦が和らいだ。
「ふふっ。思った通り、愛想でも適当な返事は返さないのね?」
「……それは、その」
「冗談よ。そう怯えられると、悪いことをしているみたいじゃない」
ころころ、と笑い声を上げ、華月はシアンの手をそっと握り返した。
節々にある剣ダコと捲り上げられたシャツから覗く腕の筋肉を見て、満足そうに笑みを深める。
「皆さんもお疲れのところ、お引止めしてごめんなさいね。私と旭日は離れに居るから、時間があるときにゆっくりお話ししましょう」
では、私はこれで。
嬉々とした表情を隠そうともせず、とても身重には見えない軽やかな足取りで宿泊している離れに戻っていった華月の後姿を、桔梗は深い溜め息と共に見送った。
「……すみません。来日してから悪阻が酷くてどこにも出かけられないのがストレスになっているみたいで。もし良かったら、暇なときに訪ねてあげてください」
珍しく部員に頭を下げた桔梗に、理世がくすり、と笑った。
「それくらい構わないよ。一週間ほどお世話になる予定だし、明日辺り、訪ねさせてもらおうかな」
「ありがとうございます。姉さんも喜びます」
ほっと、一息つくと、桔梗は一同を各部屋へと案内した。
渡り廊下を挟んですぐ旭日と華月が宿泊する離れに行くことが出来る藤の間に男性陣、その隣の菫の間に女性陣が宿泊することになった。
「こんなに豪華なベッド、初めてです!」
歓喜の声を上げてベッドに飛び込んだ紗七に、桔梗と柚月は顔を見合わせて笑った。
「夕食までまだ時間があるから先にお風呂へ案内するわね」
桔梗はそう言って、押し入れから人数分の浴衣を取り出した。
「色は五種類あるから、好きなものを選んで」
紗七も柚月も実家はヤのつく稼業である。
純日本人である彼女らにとって、浴衣は実家を思い出させた。
「私はこれにしようかな」
「じゃあ、ウチはこっちにしよっと」
二人が談笑しながら浴衣を選んでいるのを尻目に、桔梗は窓から眺めることが出来る離れに視線を移した。
昨夜から旭日の姿が見えないのが気に掛かったのだ。
ここ数日は華月の悪阻が酷く、旭日もその看病に時間を費やしていた。
何か買い出しに行ったのだろうとばかり思っていたのだが、先程廊下ですれ違った彼らの部下に聞いたところ、まだ帰ってきていないと言っていた。
(何も無ければ、良いのだけれど……)
武闘派で知られる旭日であれば問題はないだろうが、胸に生まれたモヤモヤに桔梗は眉根を寄せた。
「先輩? 先輩ってば」
紗七に肩を叩かれたことで、自分が思考の海に長く浸かりすぎていたことを悟ると、桔梗は誤魔化すように笑みを張り付けて二人を振り返った。
「え? あ、ああ。ごめん、ごめん。内風呂と露天風呂があるのだけれど、どっちにする?」
「せっかくやし、明るいうちから露天ってのもええですね」
「そうだな。私も露天に入ってみたい」
きらきらと瞳を輝かせる後輩二人に、先程まで胸に巣食っていたモヤモヤが少しだけ晴れたような気がした。
「こちらが、当旅館自慢の露天風呂になりまーす」
東屋では各フロアで温泉を設けており、郵便部が宿泊することになった藤の間と菫の間は離れの奥にある露天風呂と内風呂を使用することになった。
「へあ~! すごい! めっちゃ広いですね!!」
「ふふっ。喜んでもらえて私も嬉しいわ――ってあれ? 紗七は?」
「あー……。もう! 紗七! 早よおいでよ!」
「いや、その、露天風呂が良いとは言ったけれど、皆で一緒に入ることになるとは思ってもいなくて……!」
「家のお風呂じゃないんだから、一緒に入っても大丈夫よ?」
「桔梗先輩、そう言うことやないと思いますけど……」
ボケが二人も居ると疲れるなぁと遠い目をしながら、柚月は未だ出入り口であたふたする親友を迎えに行ってやる。
我が家は女傑が多いため、風呂は大抵皆で一緒に入っていた。
なので、裸の付き合いに抵抗は少ない。
だが、紗七は違うようだった。
一緒に寮で生活するようになって、もうすぐ一年が経とうとしているが彼女が誰かと一緒に入浴しているところを目撃したことがないのである。
聞けば、一人でゆっくり疲れを癒したいと風呂掃除を申し出て、一番最後に(入浴時間は八時から十一時半までである)入っているのだと言っていた。
柚月も紗七と一緒に入るのはこれが初めてであったが、彼女が遠慮しているのにはもう一つの理由があることを見抜いていた。
先輩である桔梗のプロポーションが良すぎたのである。
普段は制服に隠れて見えない肌がタオル一枚で隠されている様は、目のやり場に困るどころの騒ぎではない。
視線を遣っただけで目がこのまま焼けてしまうのではないか、と眩さのあまり、咄嗟に俯いてしまうほどである。
「二人とも~! 早くこっちにいらっしゃいな~!」
「は、はーい!」
生返事を返したものの、紗七の足は一向に前へと踏み出されそうにない。
「や、やっぱり私は内風呂の方に一人で入ってくるよ」
「大丈夫やって! ウチも一緒に入るし!! 何やったら、ウチの後ろに隠れて入ったらええやん」
「う、」
「ほら、行こう。せっかく温泉きたんやから!」
こくり、と頷いた紗七の手を引いて、柚月が湯船の近くまで戻ると、桔梗は既にタオルを頭の上に乗せて湯の中に身体を沈めていた。
「ここの源泉は濁り湯だから、お肌プルプルになるのよ」
すう、と桔梗が手を入れて湯の色を二人の前に見せた。
白濁色の湯が彼女の指の隙間から滴り落ちて湯船に波紋を作る様を、二人はじっと食い入るように見つめた。
それから、どちらからともなく顔を見合わせると、ゆっくりと湯船の中に身体を沈める。
「どう? 気持ちいいでしょ?」
「はい。とっても」
「ええ、湯加減ですねぇ」
棒読みにならなかった自分たちを紗七と柚月はアイコンタクトで褒めたたえた。
波紋の先――湯船の中で二つの双峰が浮かんでいたのである。
以前から桔梗のスタイルの良さは知っていたつもりだったが、まさか浮かぶほどの大きさを持っているとは思いもしなかった。
同じ女であるというのに成長乏しい自分の胸元を見て、柚月は「ふう」と溜め息を吐き出す。
「大丈夫だよ。柚月。夜雨先輩に育ててもらえば、直ぐにおっきくなるから」
「な、何も言うてへんやないの! そういう紗七は形も大きさも綺麗で羨ましいなぁ」
桔梗ほど、とまではいかないが、下着のモデルになれそうな親友の胸を見て柚月は羨ましそうに目を細めた。
「……っていうか、桔梗先輩は何を食べたらそんなおっきくなるんですか? やっぱり、大豆系です?」
「え、あ、ナニ? 胸の話? そうねぇ……。一時豆乳にハマった時があって、それくらいから胸が大きくなりはじめたような気がするわ」
「豆乳ですね……。分かりました。明日から飲みます」
「でも大きくても良いことってあまりないわよ? ブラのデザインは少ないし、夏場は谷間に汗を掻いて大変だし……」
桔梗が胸元に手を置けば、豊満なそれが柔らかく形を変えた。
「それに肩が凝るのよねぇ……。良かったら、ちょっと持ってみる?」
悪戯っぽく笑った桔梗に、柚月は一瞬だけ息を呑んだが、こんな機会は滅多にないと恐る恐る手を伸ばした。
「……楽しそうっすねぇ。女子組は」
「そうだな」
「そうだなって興味ないんですか? 桔梗ちゃんのおっぱい」
「ばっ!? な、何言ってんだ! 誰がアイツの胸になんか」
「興味あるって言ってるようなもんですよ、それ。いやあ、安心しました。先輩も男だったんスねぇ」
にやにやと人の悪い笑みを浮かべてこちらを見る後輩の視線から逃れるように、シアンは縁に腰を掛けて足だけ入浴している理世に目を遣った。
「お前は、どうなんだよ?」
「どうって、何が?」
「紗七に決まってんだろ」
「…………婚前交渉ってどこまで許されるんだろうねぇ」
どこか遠い目をした理世に、彼と彼の婚約者が複雑な家庭環境で育ったことを今更ながらに思い出して、シアンは頭を振った。
「悪い、忘れてくれ」
「ふふ。冗談だよ。そりゃあ、俺だって男ですから、興味が無いわけじゃないけど……。相手はあの紗七だからなぁ。押し倒しても、キョトンとされたら立ち直れる自信が無い」
「理世先輩ってもっとこうガツガツ行くイメージあったんですけど、意外に奥手なんですね」
「そう言うお前は、見た目通り手が早そうだね」
「誉め言葉として受け取っておきます」
バチバチと火花を飛ばし始めた二人にシアンが肩を竦めると、女風呂で歓声が上がった。
「……いやあ、露天風呂と言えばやることは一つですよねぇ」
トレードマークの長い癖っ毛を一つ結びにした夜雨が勢い良く立ち上がる。
「オイ馬鹿死にたいのか」
「紗七を視界に収めた瞬間、お前の命は無いと思え」
二人して白い目で後輩を見遣るも、当の後輩は気にした様子も見せずに、ここが風呂場であることを微塵も感じさせない軽やかな動きで岩場の上を昇っていく。
「お、おい! 夜雨! 止せって!」
「だーいじょうぶですって! 先輩方も早く来てくださいよ! 絶景ですよぉ」
黙っていれば見目麗しい好青年であるというのに、神はどうして彼に脳みそを与えなかったのだろうか。
嫉妬と独占欲の炎に身を任せた理世がゆらり、と立ち上がったかと思うとあっという間に夜雨の隣に移動して、彼の髪を引っ掴んだ。
「だから、見るなって言ってんのが分かんないかなぁ。この子は」
「いやいやいや! 俺の目当ては柚月だけですから!! 紗七ちゃん見てませんって!!」
「おい、お前ら。あんまりそこで暴れるな! 嫌な予感がするから!」
高級旅館とは言え、衝立は人間が上れるように設計されているわけではない。
二人は岩の上に立っていたが、その岩のすぐ脇で結ばれている衝立の紐がブツリ、と嫌な音を奏でた。
「あ」
「やべ」
後悔するも、時すでに遅し。
夜雨と理世、二人分の体重に耐えられなかった衝立が女湯の方へ倒れていく様をスローモーションのようにシアンは頭を抱えながら見守ることしか出来なかった。
「きゃー!! な、何やってんですか!! アンタら!!」
「お、落ち着け桔梗ちゃん!! 事故だから!! それに、未遂だし!!」
「未遂ってことは覗こうとしてたんでしょ!! この変態!! それに部長まで!! 何やってんですか!!」
「いや、俺はどちらかと言うと、止めようとしたって言うかなんて言うか」
ダラダラと冷汗を流す夜雨と理世の姿に、桔梗は怒りを隠そうともせず、手当たり次第に手桶を投げつけた。
「りい」
「さ、紗七。違うんだ、その……」
「最低」
許嫁殿から放たれた矢は、理世の心に見事致命傷を負わせた。
青白い顔でその場に崩れ落ちた彼をシアンが回収するべくそっと、そちらに近付いた。
「……言ってくれたら、いくらでも見せてあげるのに」
気絶した理世に聞こえないくらい小さな声で紗七がそう呟いたのに、シアンは苦笑する。
そう言うのは面と向かって言ってやれ、と桔梗の目が夜雨に向いている隙に彼を回収することに成功した。
「き、桔梗ちゃん、ごめんって! それ地味に痛いから止めて!!」
「ごめんで済むなら、警察はいらないっての!! こら、待て!! 逃げるな、夜雨!!」
片手でタオルを押さえ、前を隠しながら夜雨を追い回すお転婆娘の姿に、シアンは溜め息を零す。
「おーい。お前ら、そのくらいにしておけー」
「せ、先輩、助けてー!」
「待て夜雨! こっちに来るな!」
夜雨が走ってきたところには先程シャンプーを流した泡だまりがあった。
そこを走ればどうなるか、なんて言わずもがな、である。
「きゃあ!?」
案の定、滑った桔梗がシアンの方へと突っ込んできた。
「~~~っ!?」
鼻先にもっちりとした、何かが触れている。
それが何か認識するよりも早く、頭上から桔梗の声が聞こえてきた。
「いったー! もう!! 何すんのよ、夜、雨…………っ!?」
「お、落ち着け桔梗。これは事故だ」
「…………」
「やっべ。マジのラッキースケベ、初めて見た」
てへ、と笑った夜雨の顔に、これほどまで殺意が沸いたことは無い。
だが、彼を叱咤するよりも先に、シアンの頬に乾いた音が無残にも響くのであった。