1話『ごほうび』

――どうして、こうなった。

 後頭部に冷えた黒板の硬さを感じる。
 眼前に迫る同級生の顔に、侑里(ゆうり)ははくり、と息を吐き出すのがやっとだった。

「……かしわばらくん」

 やめて。
 蚊の鳴くような頼りない声で呟かれた制止の言葉に、桃麻(とうま)の片眉が僅かに持ち上がる。
 可哀想なほど真っ赤に染まった委員長に、スッと目を細めた。

「やだ」
「な、なんで」
「……ごほーびに言うこと一つだけ聞いてくれるって言ったじゃん」
「え、」
「忘れちゃった?」
「わすれ、て、ない、ですけど」

 たらり、と冷や汗が侑里の頸を伝っていく。

「でも、あの、私……」
「だいじょーぶだって」
「えっと、」
「俺、上手いから」

 鼻先が触れ合う。

 ちゅ、と短く触れ合った唇の感触に、侑里の右拳が唸りを上げた。

◇ ◇ ◇

「な、頼むよ。藤田にしか、こんなこと頼めないんだ!」

 風紀委員の顧問をしている副担任はまだ若い男性教諭だった。
 その彼が風紀委員長に任命されたばかりの侑里に頭を下げている理由は二つ。
 同じクラスの問題児の監視と、彼に勉強を教えてやってほしいというのだ。

「――分かりました。でも一つだけ条件があります」
「な、何だ?」
「来年度の風紀委員の活動費を工面してください」
「……ぜ、善処しよう」
「取引成立ですね」

 猫のように目を細めた眼前の少女に、副担任はほっと胸を撫で下ろした。
 次いで、机で丸まって眠る男子生徒の頭を思いっきり叩く。

「ほら! 起きろ柏原! 藤田がお前の面倒を見てくれることになったぞ」
「んあ?」
「……よろしくね。柏原くん」

 ばあちゃんちに置いてある日本人形みたい。
 これが柏原桃麻の藤田悠里に対する第一印象であった。

◇ ◇ ◇

 一瞬だけ気絶している間に思い出していたのは、放課後の勉強会を始めるきっかけになったやりとりだった。
 あのとき、副担任から桃麻のことを任された侑里の表情はひどく面倒臭そうに歪められていたのを思い出す。

 そう、丁度こんな風に。

「酷くね?」
「……酷くありません」

 これでもか、と歪められた侑里の顔に、桃麻は悪びれもなく唇を尖らせた。

「いや、だってさ。いくら嫌だったからって、グーで殴るかふつー」
「おかしなことをしてきたアナタが悪いのでは?」
「俺、ごほーびちょうだいって言っただけじゃん」
「キスしてきたじゃないですか」
「だってしたかったから、」
「……それ以上近付かないでください」

 まるで獣でも見るように、侑里は桃麻に冷たい視線を送った。

「ね~え~~。何でそんな離れてんの?」
「キスされるのが、嫌だからです」
「何で?」
「何でって、アナタ私のこと好きでも何でもないでしょう?」
「そんなことないけど」
「……今朝、三組の女子ともキスしていたじゃありませんか」
「ん~、でも今は委員長とキスしたいから」
「不潔です」

 軽蔑します、とその視線がありありと語っていた。
 桃麻は殴られたばかりの頬を摩りながら、少し離れた場所に腰を落ち着けた侑里を見遣った。
 地毛にしては珍しい亜麻色の髪が、風に遊ばれて不自然に揺れている。
 指先で軽く掬い上げると、侑里の肩がびくりと大袈裟なまでに震えた。

「女の子が好きなだけなんだけどなあ」
「…………博愛主義を語るのであれば、もう少し穏便に、バレないように努めてください」
「みんな平等に好きなんだもん」
「へえ?」
「あ、もちろん委員長もね」
「全く、これっぽっちも嬉しくありません」

 近いです、とまた侑里の手が桃麻の手を弾いた。
 じく、と痛んだ胸に、桃麻の眉尻が下がる。

「なんで~~? 俺に好きって言われたら女の子は嬉しそうにすんのに、なんでそんな嫌そうな顔すんの??」
「アナタに尻尾を振る女子と同じ扱いをしないでもらえますか? 非常に不愉快です」
「だから、何で?」
「…………私は誰かさんと違って、一途なので」
「?」
「アナタだけは死んでも好きになりませんから、安心してください」
「えーー……。俺は委員長のこと好きなのに? 一生片想いのままってこと??」
「さあ? まずはそのすっかすかの脳味噌に数学を詰め込むところから始めてはどうですか」

 逃げるように教科書を顔面に叩きつけられて、桃麻は唇を尖らせた。
 ここまで靡かない女子も珍しい。
 今まで、桃麻が好きだと言って落ちない女子は居なかった。
 するり、と性懲りもなく、侑里の掌に己のそれを重ねてみる。
 緊張しているのか、指先は強張って、ひどく冷たかった。

「んじゃ、数学も平均点とったら、もっかいちゅーしてくれる?」
「…………しません」
「何で?」
「したくないからです。そういうことは、本当に好きな人とだけしてください」
「けち」
「何とでも」

 そう言って、侑里は可笑しそうに小さく笑った。
 その顔が、道端に咲くたんぽぽのように朗らかで。

 桃麻は「好きだよ」と音もなく唇の形だけで囁くのが精一杯だった。