「いーんちょ」
桃麻は、怒られることを承知で、委員長――藤田侑里を呼び止めた。
常ならば校門前で会うはずの彼女だったが、今朝は服装チェックの当番ではなかったらしい。
振り返った視線がじろり、とこちらを射抜くのに、桃麻はだらしなく眦を和らげた。
「何ですか。用もないのに、わざわざ引き留めないでください」
「朝から機嫌わりーなぁ。用ならあるって、ほら」
ひらひら、と右手に持ったプリントを見せれば、眉間に刻まれていた皺がより一層深くなる。
不機嫌を隠そうともしない侑里に、思わず噴き出しそうになった桃麻だったが、寸でのところで何とか堪えると、しれっとした態度で彼女にプリントを手渡した。
「ヤマ先から頼まれたの。んで、こっちが放課後(いつも)の課題」
「……わかりました。今日は委員会があるので、遅くなると思いますが、」
「ん。待ってる」
「では」
どこまでも他人行儀なその態度が可笑しくて、ついからかいたくなってしまう。
「は~おもしろ……」
「なになに? まーた、藤田ちゃんに絡んでんのか?」
「ちげーよ。ヤマ先に頼まれたプリント渡しただけ~」
「ふうん?」
後ろからやってきた悪友の肩に頭を預けると、桃麻はそっと瞼を閉じた。
キスとは名ばかりの軽い触れ合いだけで、真っ赤になっていた侑里の表情が脳裏を過ぎる。
「くふっ」
「何だよ、気持ちわりーな」
「なんでもない」
「んじゃ、そのだらしねえ顔なんとかしろよ」
うりうり、と頬っぺたを弄ばれて、桃麻はまた「んふ」とだらしない声を漏らす。
そんな彼を友人は不気味なものでも見るかのように、引き攣った表情で見つめるのだった。
放課後の旧校舎、三階の突き当たりにある空き教室。
人気の少ないそこは、桃麻が女子生徒を連れ込むために使っていた。
けれども最近は違う。
侑里と勉強をするためだけに、彼は足繁くそこに通っていた。
「……お待たせしました」
鼻歌を口遊みながら扉を開いた悠里に、桃麻は瞑目した。
てっきりいつものように不機嫌な顔で現れるのだとばかり思っていたからだ。
何か良いことでもあったのか、珍しく柔らかい雰囲気を纏った彼女に頭の上に疑問符を浮かべる。
「何か?」
「いあ、機嫌いーなと思って、」
「私だって人間ですから、いつも不機嫌なわけではありません。アナタ以外の前では割と普通です」「何それ、ひどっ」
「アナタが怒らせるようなことばかりするからですよ。今日だって、」
「今日? 俺、今日何かしたっけ?」
「…………何でもありません。それで、どこまで進んだんですか?」
侑里は決まって、桃麻の前の席に腰を落ち着かせていた。
だが、今日は何を思ったのか、隣の席の椅子を引っ張ってきて、すぐ隣に座ってみせた。
え、と声を漏らしたのは桃麻だけで、侑里は常と違う距離の近さに何の疑問も持っていないようだった。
「え、えと、AくんがBさんに対して抱く感情を答えなさい? ってとこ」
「それで?」
「それで、って?」
「答えられたんですか?」
「うん。これでしょ?」
現国の授業によくある選択問題だった。
直前の例文を読んで、登場人物の感情を答える。
意外に思われるかもしれないが、桃麻はこういった問題は得意だった。
例文の中に必ず答えが紛れ込んでいるからだ。
「『イ・狂おしいほど愛しているが、それと同時に彼女を憎らしく思っている』? どうしてそう思ったんです?」
「だって、BはAの婚約者だったのに、Aの兄貴が好きだから別れてくれって頼んできたんだよ。そんでもって、兄貴と結婚しちゃうし」
「国語の問題からは情緒を感じ取る機敏があるのに、現実の問題になると途端にぽんこつになるの何なんですか? わざとだとしたら相当タチが悪いですよ、アナタ」
「え、えへ?」
「褒めてませんから」
侑里は呆れたようにため息を吐き出すと「続けて」とワークを桃麻に返した。
今日はそのまま隣の席で居ることにしたようで、少し身動いだだけで彼女の髪から香るシャンプーの匂いにぎくりと肩が強張った。
「あ、あのさ、いいんちょ」
「何ですか?」
「今日、ちょっと近くない?」
言おうか言うまいか迷ったのは数秒のことだった。
慣れない彼女との距離感が掴めないことの方が不安で、ぽろり、と口を衝いて出たそれに、桃麻は情けなく生唾を飲み込む。
「……そんなこと、ありません」
「い、いやいやいや! 何、今の間? 絶対何かあるじゃん!」
「何でもありませんよ」
「俺の目ぇ見て言って」
「お断りします」
「いーんちょ」
ねえ、と頬杖を突きながら、彼女の横顔をじっと見つめた。
伏せられた睫毛が、頬に影を落としている。
睫毛、長いなと無意識のうちに桃麻の手が、侑里の頬へ伸びる。
「……っ」
その頬が。
不自然なほど急に真っ赤に染まったものだから。
桃麻は思わず「ふえ?」と間抜けな声を漏らした。
「…………」
「え、っとぉ」
「何です」
「いや、それは俺のセリフじゃない?」
「……」
「都合が悪くなると黙るの、やめた方がいーよ」
するり、と音もなく触れた桃麻の筋くれだった指先に、今度は侑里が唾を飲み込む番だった。
「アナタは、」
「ん~?」
「慣れているのかもしれませんけど、私は違うんです」
「何の話?」
「この間の、」
「あー……。ごほうびにちゅーさせてもらったやつ?」
触れている場所がいっそ可哀想になるほど熱かった。
離れてあげたい気持ちと、もっと触っていたい気持ちが、桃麻の中でせめぎ合う。
僅差で後者に軍配が上がったため、振り払われないのをいいことに、これ幸いと同級生の柔肌を堪能する。
「今まで、どんな風に接していたのか分からなくなったので、」
「それならいっそ違うことをしてみようとして、自爆した、と」
「分かっているなら最後まで言わなくて良いです。それに、気付いていないフリをしてくれても良かったじゃないですか」
「え~~? 無理じゃない?」
「どうして?」
「……だって、俺の所為で距離感バグっちゃったんでしょ? そんな可愛いことしてるの、わざわざ指摘してやめてほしくないじゃん」
「んな、っ」
「俺、いいんちょのそーいうとこ好きだよ」
「だから、そういうのが嫌だと何度言えば……!」
離してください、とここにきて漸く常の感覚を取り戻した侑里が、桃麻の手を叩き落とす。
乾いた音が教室に反響を繰り返した。
「誰でも、いいくせに」
その言い方はまるで――。
「『委員長が良い』って言ってあげられなくて、ごめんね」
ゴンッ。
鋭い拳骨が桃麻の脳天を襲う。
走り去る侑里の背中を、桃麻は痛みに悶えながら見送ることしかできなかった。
「パーじゃないところが、また可愛いよなぁ」
普通の女子なら迷わず平手打ちする場面である。
けれど、侑里は躊躇いもなく拳を握りしめた。
じんじんと痛む頭に手を置いて、ため息を漏らす。
自分と同じだけの好きを、相手からも返してほしい。
桃麻の歪んだ願いは、悠里にはきっと叶えてもらえない。
それがちょっぴり残念だな、と彼女に殴られたところを抑えながら、机に額を打ちつけた。
◇ ◇ ◇
「昨日は言いそびれていましたが、」
「昨日の今日で、逃げずにしっかり勉強教えてくれるいいんちょのそういうとこ好きだよ」
「私は別にアナタのことが好きなわけではないので、誤解しないでください」
「あ、そう? その割に、真っ赤だったけど」
「異性との接触に慣れていないだけです。いいですか? 私が怒ったのはあくまでも、アナタの不誠実な態度にであって、」
「うんうん、分かった。――この話、長くなるやつだね」
短い付き合いではあるが、侑里の言動にある一定の癖を見つけることに成功していた桃麻は、ふあと欠伸を一つ落とした。
「妹、迎えにいきたいんだけど。続きは俺ん家でもいーい?」
「ですから――妹さん?」
「そ。幼稚園の年長なんだけど、今日母親がシフト入ってて、頼まれてんの」
「へえ」
「いいんちょ、子ども苦手なん? あからさまに顔引き攣ってるけど」
「そ、んなことはありません」
「なら、いいよね? あと半分だけだし、いいんちょがいればどこでやっても一緒でしょ?」
「それは、そうかもしれませんけど」
「待たせると泣くかもしれないし、」
「うっ」
分かりました、と侑里の許可を取り付けると、桃麻は彼女の手を引いて、妹が待つ幼稚園へと急いだ。
延長保育代を払っているとは言え、五時半まであと少し。
早足になるのをどうしても抑えられなかった。
「陽菜(ひな)~~~! 兄ちゃんだぞ~~~!!」
「にいにー!? 今日、にいにの日だー!!!」
桃麻を小さくしたような姿の女の子が、彼目掛けて突進してくる。
その姿に素直に可愛いと言葉が溢れそうになって、侑里は慌てて口元を引き締めた。
「このお姉ちゃん、だあれ?」
意外なことに、自宅へ女子を連れ込んだことはないらしい。
人見知りを発動していた桃麻の妹は、自宅に入った途端、遠慮がちに侑里を指差して小さくそう呟いた。
「えっと、こんにちは。私、お兄ちゃんと同じクラスの藤田侑里と言います。先生に頼まれて、お兄ちゃんの勉強を見てるの」
「にいにの勉強? にいに、頭悪いから?」
「――ふ、んんっ。そ、そうね。お兄ちゃん、ちょっと頭が悪いみたいで」
「やっぱりね。遅くまでゆーちゅーぶ見てるから、頭にかびるんるん生えてるんだよ」
陽菜には見ちゃだめっていうのにね。
妹の冷たい視線と、同級生が笑いを必死に堪えている姿に、桃麻はムッと唇を尖らせた。
「ひどくない? いいんちょ、俺の成績上がったの知ってるでしょ」
「赤点をぎりぎり回避できたのは誰のおかげか、もう忘れたんですか?」
「んも~~~。陽菜も冷たいし、誰も俺の味方してくんないじゃん」
「ふふっ。妹さん、とっても可愛いですね。私、ファンになっちゃいました」
ねえ陽菜ちゃん、と侑里の手が優しく陽菜の髪を撫でる。
「俺の頭もよしよしして」
「……する理由がありませんし、単純に嫌です」
「何で?」
「アナタ、整髪剤付けているじゃありませんか」
「洗ったら触ってくれるってこと?」
「極端すぎません? したくないってきちんと伝えたつもりだったんですけど」
「俺もよしよししてぇ!」
妹を抱き上げながらなんてことを口走るんだ、と侑里はドン引きした。
このままでは、桃麻の頭を撫でない限り玄関で延々とこのやりとりを繰り返す羽目になる。
「…………これで満足ですか」
ポン、と軽く頭に手を置くことで何とか誤魔化せば、桃麻の目が驚愕に見開かれた。
榛色の目が零れ落ちそうなほど丸くなり、じっと侑里のことを凝視している。
「んふ」
「……気持ち悪い顔しないでください」
「してないもーん」
「ちょっと、」
ぐりぐり、と小さい子どもが母親にするように、肩口に額を押し付けてくる彼に、侑里が口元を引き攣らせる。
「さっさと今日の課題を終わらせてください。このままだと、家に帰れないじゃないですか」
「んじゃ、お泊まりしていく?」
桃麻が落とした爆弾に、侑里は彼の身体をグッと押し返した。
すぐ側でよく似た顔が二つキラキラと目を輝かせている。
「……今のは失言でした。忘れてください。ちょっと、二人して目を輝かせないで、」
「お姉ちゃん、お泊まりするの?? やったー!」
「泊まりません。お兄ちゃんのお勉強が終わったら、帰りますから」
「あのね、あのね! にいにのお部屋で陽菜も一緒に三人で寝ようね!」
「……段々、話が勝手に進んでいく。人の話を聞かないところ、アナタにそっくりですね」
「えへへ」
「褒めてませんから」
何とか話を有耶無耶にするために、侑里はお邪魔しますと一言断ってから廊下へと進んだ。
右手に扉が二つ、奥に一つ続く扉を前に、ちらと横目で桃麻を確認する。
「俺の部屋、こっち。ちょっと陽菜の相手しといてくれる? ジュース入れてくるから」
「え、ええ」
「にいの部屋、ここだよ~~!」
終始明るく元気な兄妹に気圧されながらも、侑里は陽菜に手を引かれるまま桃麻の部屋へ入った。
白を基調にしたシンプルな風景に、思わず「ほあ」と間の抜けた声が漏れる。
「にいにねえ、あんまりお家帰ってこないから、いっつも綺麗なの。でも、最近はあの短いのが六のとこになると帰ってきてくれるから、陽菜嬉しいんだぁ」
最近。
その言葉に、侑里はぱちり、と一つ瞬きを落とした。
時計の針が六を示すということは、放課後の勉強会を終えると真っ直ぐ自宅に帰っているということなのだろうか。
それ以前の彼がどういった放課後を過ごしていたのかは知らないが、今の話を聞く限り女子生徒の家を渡り歩いていたらしいと容易に想像がついた。
「陽菜ちゃん、お兄ちゃんのこと好き?」
「うん! 陽菜、にいにがお迎えに来てくれるようになったの嬉しい!」
「そっか。良かったね」
「……お、お姉ちゃんは? にいにのこと、好き?」
「え、」
何かを期待するような目が向けられている。
侑里は居心地悪そうに、うぐ、と言葉を詰まらせた。
桃麻が戻ってくる気配は、まだない。
それでも、彼に対する自分の気持ちをはっきりと答えるのが、少しだけ気恥ずかしかった。
「……嫌いじゃないですよ」
「じゃあ、好きってこと?」
「好きでもないですけど、」
「?」
「ふふっ。陽菜ちゃんがもう少し、大きくなったら教えてあげますね」
「えー! むつかしいよ! にいのこと、好きじゃないの??」
「…………内緒、です」
しー、と人差し指を唇に押し当てて、困ったように侑里が眉を顰めれば、陽菜の唇がアヒルのように尖ってしまった。
「ねえ、何か可愛い瞬間見逃した気がするんだけど」
「大丈夫です。何も見逃してません。強いて言うなら陽菜ちゃんがアヒル口を披露してくれたくらいです」
「見逃してるじゃん!!」
ジュースを乗せたお盆を片手に、桃麻が戻ってくる。
きゃらきゃら、と戯れ合う兄妹の姿を、眩しいものでも見るかのように、侑里はそっと目を細めるのであった。