柏原くん。
少し掠れたソプラノが耳朶を震わせる。
夢現の眼を持ち上げれば、険しい顔の悠里がこちらを見下ろしていた。
「こんなところで、寝ていたら危ないですよ」
「んえ？」
「細い路地とは言え、車も通るんですから」
ああ、そうだった。
痛む右肩に、桃麻はぎり、と奥歯を噛んだ。
元カノかセフレかは忘れてしまったが、少し前に関係を終了させた相手の報復で、数人の男たちが襲いかかってきたのである。
意識が浮上した所為で、肩だけではなく、頭と脇腹までズキズキと痛みを訴え始めて、堪らず「ぐッ」と呻き声が喉を衝いて出た。
「……痛むんですか」
「ん、ちょっとだけ」
「はあ…………」
侑里は面倒くさそうな態度を隠すことなく桃麻に近付くと、鞄からハンドタオルを取り出して汗と血で汚れた彼の顔を拭ってやった。
「汚れる、って」
「……こんなところで、同級生を捨て置くわけにもいかないでしょう」
深いため息を溢した侑里だったが、触れる手付きは傷を刺激しないようにするためか、少しだけ優しい。
「立てます？」
「多分」
「まったく、」
そう言って差し出された手と、不機嫌な表情の侑里とを交互に見遣る。
「何もないよりマシでしょう。ほら、掴まってください」
「う、うん」
細い腕が桃麻の背中に回った。
すぐ側で感じる侑里の体温と息遣いに、ぎくりと身体が強張る。
「保険証、持ってます？」
「ん～ん」
「……仕方ないですね。家（うち）、すぐそこなんで、応急処置で良ければしてあげます」
「…………へへ」
「何笑ってるんですか。もしかして、頭も打ってます？」
「打ってないよぉ。委員長が優しいから、嬉しくて」
へら、と血だらけにも関わらず、常の人懐っこい表情で満面の笑みを見せた桃麻に、侑里の眉間に深い皺が刻まれる。
「そんなに元気なら、やっぱり置いていきましょうか」
「え～～。痛いのはホントだよ～」
「なら、もう少し足に力を入れてください。身長差の所為で重いんですよ」
「は～い」
ふらつく桃麻を支えながら、侑里は自宅への道を急ぐのであった。
◇ ◇ ◇
「痛い痛い痛いっ！ 痛いってば！！」
「ちょ、じっとしてください！ 痛いのなんて当たり前でしょ！ 血が出てるんですから！」
残すは顔の消毒だけだ、と侑里が消毒液片手に桃麻を追い回す。
脱脂綿に惜しみなく垂らされた消毒液が唇の端や目尻に染みて、とんでもなく痛い。
「――分かった。顔は自分でやる」
「ここまできたら、最後までやってあげますよ」
「いや、痛いんだって！ 鳩尾とかに湿布貼るのと、消毒液押し付けられるのって全然違うから！ 自分のペースでさせて！」
「まあまあ、遠慮せず」
「遠慮じゃなくて！」
「……ふ、ふふっ」
必死の形相で消毒液を奪い取ろうとする桃麻がツボに入ったのか、侑里が声を立てて笑った。
「な～に、笑ってんの？」
こっちは真剣なのに、と頬を膨らませながら、侑里の手首を捕む。
散々っぱら拳を酷使した所為か、赤く腫れ上がった自分の手の甲と侑里の肌の色との違いに、思わず目を見開いた。
「…………しろ、」
「？」
「あ、いや、委員長の手、白いなって」
侑里の視線が桃麻のそれを辿る。
手首から伝わってくる彼の体温は、怪我の所為でいつもより高いのか、少しだけ熱く感じた。
二人の視線が、ゆっくりと交差する。
先に動いたのは、侑里だった。
「えい」
可愛らしい掛け声と共に、桃麻の唇へ脱脂綿を押し付ける。
「いっってえええええ！！！！」
絶叫が四畳半の部屋に響き渡る。
常の賑やかさとは違う意味で喧しい彼の姿に、侑里がまた笑みを深めた。
もう一度、と脱脂綿を侑里が構えた、その時――。
「さっきから、煩えぞ！！ 何やってんだ、侑！！」
スパーン！
小気味良い音と共に襖が開かれ、一人の青年が入ってくる。
「ごめんなさい、兄さん。怪我をした同級生とそこで会って、」
「同級生ぃ？ お前が家に連れて帰ってくるなんて、めずらし――って、桃（もも）じゃねえかよ」
侑里の兄にしては、口調が荒い。
それにその声にどこか聞き覚えのあった桃麻は、名前を呼ばれてぎくりと肩を竦ませた。
「おっ、お久しぶりです。陸さん……！」
中学の頃、チンピラに絡まれていたところを助けてもらって以来の恩人――藤田陸が襖を開け放った状態のまま仁王立ちしていた。
「あンだよ。最近、侑が構ってる不良ってお前のことか」
「え、えーっと……」
「下の名前で呼んでたから気付かなかったワ」
なはは、と豪快に笑ったかと思うと、陸は徐に桃麻の前へしゃがみ込んだ。
肩に逞しい腕が圧しかかる。
「わーってると思うけど、侑のこと泣かせたり、襲ったりしてみろ。ぶっ殺すからな」
語尾にハートマークが付くような甘ったるい声で、物騒な言葉を並べ立てられ、桃麻は一も二もなく頷いた。
「ちょっと、兄さん。やめて」
おらおら、と桃麻の頬に拳を押し当てる陸に、侑里が眦を釣り上げる。
「一応、怪我人なのよ。それに彼は私になんて、興味ないから大丈夫」
「あ？ ンだと、桃こらてめェ。うちの侑のどこに不満があるってんだ」
「ちょっ、委員長！？ 何でそんなややこしいこと言うわけェ！！」
侑里の一言に、収まりかけていた火種が再度燃え上がる。
陸の目がぎらぎらと良くない炎を燻らせ始めたのに、桃麻が半泣きで侑里に詰め寄った。
我ながら情けないが、陸より怖いものはこの世にない。
何せ、学生時代はこの辺り一帯で彼の名を知らない人間が居ないほどだったのだ。
怒らせると侑里以上に厄介なのは間違いなかった。
「事実でしょう？ 貴方の女癖の悪さは学校一ですもの」
「…………へェ？」
よく似た形の四つの眼に冷たい光が宿る。
さっきまでの苛烈なそれとは違う、背筋を凍らせるような眼差しに、桃麻の喉がひゅっと音を立てる。
「お前ェのことは特に可愛がってたつもりだったんだけどよォ。まさか、そんな野郎になるとはなァ？」
「あ、うそ、ま、待ってくださ、陸さん……！」
「表出ろォ。桃麻ァ」
「か、勘弁してくださいよぉ！ 俺、怪我人！ ちょ！？ 笑ってないで、助けて！！ 委員長！！」
「……左手にしてあげてね。お兄ちゃん」
こてん、と首を傾げながら、トドメの言葉を突き刺した侑里に、桃麻は唸った。
否、唸り声を上げることでしか抵抗できなかったとも言う。
陸からの洗礼は、拳ではなくビンタであったのが、唯一の救いだった。