「ゆうちゃんだ～！」
子ども特有の高い声に名前を呼ばれて、侑里はぎくりと肩を強張らせた。
スーパーに子どもの知り合いは居ない。
偶然にも自分と似た名前の人が居たのだろう、と結論づけてトマトに視線を戻した。
「ゆうちゃん！！」
ワンピースの裾を小さな手が掴む。
今度こそ「え、」と驚いた声を漏らした侑里に、陽菜がにっこりと可愛らしい笑顔を向けた。
「ふふ！ やっぱり、ゆうちゃんだった！」
「ひ、陽菜ちゃん？ どうしたんですか、こんなところで……」
まさか一人で、と顔を曇らせた侑里に、陽菜が自分の歩いてきた方へ視線を戻す。
「こら、陽菜！！ 店の中で走るなっていつも言ってんだろ！！」
現れた汗だくの同級生に、侑里はホッと胸を撫で下ろした。
「って、委員長じゃん。珍しいね、こっちのスーパーまで来るの」
「この時間帯はこっちの方が安いんです。ご近所なのに知らないんですか？」
「……俺、コンビニ派だから、あんまし来ないんだよねぇ」
桃麻が額の汗を拭いながら紡いだ言葉に、侑里は思わず目を細めた。
彼の持っていたカゴの中へ視線を向ければ、惣菜コーナーに並べられている少しお高めの弁当と、子どもが喜びそうなお菓子がいくつか無造作に放り込まれている。
「陽菜ちゃん、お母さんはお仕事ですか？」
「うん！ ママはね、はんぼーき？だから、にいにがご飯とーばんなんだよ！」
「そうですか……。ちなみに、お弁当は今日で何日目です？」
「うーんと、昨日の前って何て言うの？」
「一昨日、ですね」
「それじゃあ、おとといの前は？」
「一昨日の前は一昨々日（さきおととい）と言います」
「さきおととい！ さきおとといからお弁当です！」
「四日前の晩ご飯を覚えているなんて、陽菜ちゃんは凄いですね」
「えっへん！」
侑里が陽菜に蘊蓄を披露している後ろで、桃麻は背中に冷たい汗が流れていくのを感じていた。
先ほどまで汗だくだったのが嘘のように肌寒い。
何か言い訳をしなければ、と口を開いては閉じを繰り返す桃麻には見向きもせず、侑里の細い指先が陽菜の小さな手を優しく包み込んだ。
「……ところで、陽菜ちゃん」
「なあに？」
「カレーはお好きですか？」
「好き！！」
「うちは今日、私がお当番なのでカレーをするんです」
良かったら、食べて行きませんか。
恐々とこちらの反応を窺うように持ち上げられた双眸に、視線を奪われる。
「え、っと？」
「お弁当は美味しいですけど、流石に四日も続くと飽きちゃうでしょう。カレーなら余っても困りませんし、アレンジも出来るかと」
いつになく饒舌な侑里に、桃麻は思わず瞬きを繰り返した。
彼女は緊張していると言葉数が増えるきらいがある。
「迷惑じゃない？」
「貴方の素行不良に比べたら、可愛いものですよ」
「……ひっどいなぁ。最近は委員長の言うことちゃんと聞いているのにぃ」
「怪我が治ってないから、仕方なくでしょう？」
侑里の目が意地悪く細められる。
うぐ、と喉を詰まらせながら、桃麻は観念したように両手を持ち上げた。
「ご相伴に預からせていただきまァす」
「最初から素直にそう言えば良いんです」
蕾が花開くように侑里が柔らかく微笑む。
ここがいつもの教室じゃなくて本当に良かった。
それから陽菜が居てくれたことで理性が総動員された。
二人きりだったら、危うく抱きしめていたところである。
「ふぬぅ…………っ」
「何です、さっきから。気持ちの悪い」
「ごめん。もっと罵ってもらえる？ 出来れば強めの言葉で」
「バカじゃないですか。妹さんの前で妙なこと言うの止めてください」
「ゆうちゃん。にいに、また頭おかしくなった？」
「そうですね。暑くて頭がやられちゃったのかもしれません。私たちはカレーの材料を集めに行きましょう」
そそくさと遠ざかっていく二人の背中を、桃麻はだらしのない笑顔で見送るのだった。
◇ ◇ ◇
中辛のルーと甘口のルーを半分ずつ混ぜたことで、子どもにも丁度良い味付けのカレーが出来上がってすぐ、陸が帰ってきた。
「何？ すげえ良い匂いすんじゃん」
犬みたいに鼻を鳴らす兄に「行儀が悪い」と侑里が睨みを効かせるも、あまり効果はない。
「んあ」
「何です、その口は」
「ひとくち」
「ダメです。そう言って兄さん、いつもたくさん食べるじゃないですか」
今日は柏原くんたちもいるんですから、と告げられた言葉に、陸は目を丸くした。
確かに玄関に見慣れない靴が並んでいた。
そーっと、居間に続く襖を開ければ、可愛らしい寝息を立てる兄妹の姿が見える。
「珍しいな、お前が不良に入れ込むなんて」
「……陽菜ちゃんが可哀想だっただけです」
「？」
「四日連続コンビニのお弁当だと聞いたので」
「あ～。アイツ、そういうの無頓着だからな」
そう言えば、連んでいるときも奢り甲斐のない男だったと口をへの字に曲げた陸に、侑里も同調を示すように肩を竦めた。
「ゆう」
「はい？」
「分かってると思うけど、あんまり肩入れするなよ。お前の評判が下がる」
「それ、兄さんが言う？」
「俺はほら、もう卒業してるから」
「……屁理屈だわ」
「はははッ」
拗ねたように頬を膨らませた妹の頭を乱雑に撫で回すと、陸は階段に足を掛けた。
「兄さんも一緒に食べましょうよ」
「俺が居たら、あいつの妹ちゃんがビビるだろ」
「そんなことないわ。私のお兄ちゃんに会ってみたいってさっきまでお手伝いしてくれてたのよ」
「へえ？」
久しぶりの『お兄ちゃん』呼びに、陸の口角が知れず持ち上がる。
起こして良いものかと遠慮していたが、自宅で我慢を強いられる方がおかしい。
わざと大きな音を立てて座布団に腰を下ろせば、目元がそっくりの兄妹がびっくうと大袈裟なまでに身体を震わせた。
「お、わっ。り、陸さん！？ お、おかえんなさい」
「おう。たでーま。俺ン家で鼾かくなんて偉くなったなァ、お前も」
「え！？」
かいてました、と慌てて居住まいを正す桃麻の背に隠れた小さな横顔に、陸は喉奥を鳴らしてくつくつと笑った。
「ヨォ。妹ちゃん。俺が侑里のお兄ちゃんです」
「ゆうちゃんの、お兄ちゃん？」
「そ。桃のケンカのせんせ」
「にいにの先生？？」
頭の上にはてなマークを飛ばして混乱する陽菜に、桃麻が困ったように眉尻を下げる。
「陸さん、変なこと教えないでください。こいつ最近、母親にチクるんスから」
「変なことって何だよ。俺がてめえに稽古つけてやってたのは、ホントのことだろ」
「それは、そうっスけど～～」
昔の癖が抜けないのか、自分の前では少し幼い言動になる桃麻に陸は面白いものでも見つけたかのように目を細めた。
「……二人とも。陽菜ちゃんの前で妙なこと言うのはやめてください。晩ご飯抜きにされたいんですか？」
お盆の上に四人分のカレーを持って現れた侑里に、桃麻は思わず陸と顔を見合わせた。
侑里はやると言ったらやる女である。
冗談の通じない真面目な性格は時として美点でもあるが、食べ物を人質にされている今は笑えない状況だった。
「食べる食べる！ ゆうちゃんが作ったカレー、お兄ちゃん山盛りで食べたいなァ！！」
「気色の悪い声を出さないでください。耳障りです」
「お前今日俺に当たりキツくない！？ 泣くぞ！！」
「泣いてもいいですけど、陽菜ちゃんに見えないところで泣いてくださいね。台所の隅の方とか、おすすめですよ」
「ひどい！！ 妹ちゃん、こんな風にはなっちゃだめだぞ！ おっきくなっても、そのままでいてくれ！」
「自分の行いが招いた結果なのに、私に非があるような言い方はやめてください。陽菜ちゃん、おっきくなったら柏原くんの手綱をしっかり握れるようになるんですよ」
苦労するのは妹の方なんですから、と鋭く睨みを効かせた侑里に、陸だけではなく桃麻もぎくり、と肩を竦ませる。
「ゆうちゃん、お兄ちゃんのこと好きじゃないの？」
それまで黙って彼らのやり取りを見守っていた陽菜が、兄である桃麻の腕にぎゅっと抱きつきながら、侑里にそう問いかけた。
ぱちり、とひとつ瞬きが落ちる。
次いで、侑里は半泣きで自身を睨む陸へとゆっくり視線を移した。
「……嫌いじゃないです」
「ゆうちゃん、それ前にも言ってた」
「前？」
「ん。陽菜のお家来たとき、にいにのこと好――もごっ」
その瞬間、普段の運動音痴が嘘のような俊敏さで侑里が動いた。
持っていたカレーを机の上に下ろすや否や、陽菜の口をそっと片手で塞いでしまう。
背筋を流れる嫌な汗に、怖くて視線を上げることもできない。
「…………へえ？」
最初に声を漏らしたのは、陸だった。
その声音が碌でもないことを考えているときのそれで、侑里はぎりと歯を食いしばることしかできない。
「嫌いじゃない、ねえ」
「兄さん」
「お前それ、昔から口癖だよなァ」
「兄さんってば」
「天邪鬼だから、素直に好きって――」
「お兄ちゃんっ！！！！」
涙混じりの声が、四畳半の居間に反響を繰り返す。
「……も、お願いだから、黙って、」
侑里の顔はかわいそうなほど真っ赤に染まっていた。
顔だけではない。
ワンピースから覗く首や鎖骨まで、うっすらと赤みを帯びている。
「え、っと、」
頭上から困惑した声が降ってくるのに、侑里は唇を震わせた。
小さな口を塞いでいた手を離して、彼らから距離を取る。
その間、視線はずっと畳を睨みつけていた。
「……あの、冷める前に、カレー食べません？」
桃麻の気遣いが痛いくらいに胸へと突き刺さる。
「お、おお」
陸が態とらしく「うまそ～」と叫ぶのが癪に触ったが、今はその能天気さが救いだった。
「委員長も。せっかく作ってくれたんだし、あったかいうちに食べようよ」
じりじり、と後退するべく身動いでいた侑里を知ってか知らずか、桃麻の手が侑里のそれを掴む。
存外に高い体温に、侑里は「ひっ」と上擦った悲鳴を漏らした。
「……ゆうちゃん、陽菜たちとカレー食べるのいや？」
俯いていた侑里の顔を覗き込むように、陽菜が侑里の膝へとよじ登る。
「い、やじゃ、ありません」
天邪鬼が弱々しく呟いた声に、桃麻はぐっと喉奥に笑いを押し込めるのであった。