始まりはきっと、普段の賑やかな姿からは想像もできないほど穏やかに笑う彼の横顔だった。
友人や女子生徒と騒いでいるときの彼とは似ても似つかないその表情に釘付けになった。
(馬鹿みたい……)
どうして好きになんかなってしまったのだろう。
優しくて、真面目で――不良とは正反対の人が好みのタイプのはずだった。
――頑張ったご褒美にキスさせて。
あのとき、拒絶できなかったのは、侑里にも少なからず下心があったからだ。
「…………ふぅ」
両想いになりたいわけじゃない、とずっと思っていた。
付かず離れず、ただあの教室で――桃麻の前に座って勉強をする時間が心地良くて。
侑里自身も知らないうちに、欲張りになってしまったのかもしれない。
桃麻の声が、頭の中でリフレインする。
『俺のこと好きって本当?』
決定打を口にしたのは彼なのに。
どうしてあんな風に強張った表情になっていたのか、分からない。
「……思わせぶりな態度を取る柏原くんも悪いのよ」
勘違いしていたのかもしれない。
その事実を受け入れたくなくて、侑里は今日何度目になるか分からない重いため息を吐き出した。
見上げた空には、ぼんやりとした頼りのない明かりを纏った月が浮かんでいる。
未だに残る夏の香りに、桃麻や陽菜と過ごした夏休みの記憶が鮮烈に蘇った。
「帰ろう」
今日の夕飯は陸が当番の予定だ。
必然的に自分の好物が並ぶはず、と軽やかに一歩を踏み出した瞬間。
――侑里の視界は真っ暗になった。
◇ ◇ ◇
胸騒ぎがした。
勘違いさせたまま、侑里を帰すのが嫌で、慌てて教室を飛び出す。
「……や~い、泣かせてやんの~」
廊下で胡座を掻いていた瀬尾が眉間に皺を寄せ、桃麻を睨んだ。
「……っ、分かってる、」
「まだその辺に居るんじゃねえか?」
「だと、いいけど」
やってしまった、と顔に貼り付けている桃麻を見て、瀬尾は溜飲を下げた。
女癖が悪いとは思っていたが、ここ数ヶ月――侑里と放課後に会うようになってからの彼はすっかり大人しくなって、安心していたのが仇となった。
「どう見ても、お前の好みと真逆なのになぁ」
「何が?」
「藤田ちゃん」
「……」
「お、図星ィ」
「うっせえなあ~! いいから黙って委員長探すの手伝え――!?」
視界の端で、見慣れた後ろ姿が黒のワンボックスに無理やり乗せられるのが見えた。
「藤田!!」
桃麻の声に、頭に何か袋のようなものを被せられた侑里が「柏原くん!」と悲鳴を上げる。
「おい!! マジかよっ!!」
桃麻と瀬尾を嘲笑うかのように、車が走り出す。
二人は急いでその車を追いかけた。
せめてナンバーだけでも、とスマホを取り出し、がむしゃらにシャッターを切る。
「藤田……っ!!」
伸ばした手は届かなかった。
走り去る車のエンジン音がやけに大きく、耳にこびり付いて離れない。
「くそ!!」
側にあった電柱へと拳を叩きつける。
ぴろん、と何度も間抜けな音を繰り返すメッセージの通知が、桃麻の苛立ちを更に募らせた。
「誰だよ、こんなときに!」
「……お前、それ」
「…………」
相手は夏祭りのときに遭遇した女子生徒だった。
《桃麻、すぐ電話して》
《兄貴から藤田を連れ去ったって連絡があった》
《桃麻、ごめん。私、あんたのこと本気だったの》
《兄貴もそれ知ってて、だから、》
《お願いだから、これ見たら連絡ちょうだい》
彼女とは身体の関係があった。
何度か家にも行ったことがある。
その際、彼女の兄には《彼氏》として紹介された覚えがあった。
「…………身から出た錆だろ」
「わーってるよ!!」
「でけー声出すな馬鹿。取り敢えず、陸さん呼べ」
「俺に死ねって?」
「ちげーよ。この辺りのことはあの人に聞いた方が《早い》だろ」
韋駄天の渾名は足の速さを意味しているだけではない。
情報網が異常に広く、何かあれば必ず陸の耳に届くようになっているのも理由の一つだった。
「……殺されるのは決定事項じゃねえか」
「それはそう」
「他人事だと思って、」
背に腹は変えられない。
取り敢えず、女子生徒から瀬尾が彼女の兄が縄張りにしてそうな地域を聞き出し、桃麻はその近辺の情報を陸に募ることになった。
『よぉ、桃じゃねえか! こんな時間に珍しいな! どうしたァ?』
「陸さん、あの、」
『?』
「藤田が、攫われました」
電話口の陸が常の騒々しさからは想像もできないほど静かな声で『もう一回言ってくれる?』とぽつりと言葉を紡いだ。
「俺の所為で、藤田が攫われました」
桃麻は意を決して、もう一度同じ内容を陸に伝えた。
今度は理由も重ねて告げる。
陸の答えは無い。
ただ、電話の向こうで深く息を吸い込む音だけがやけにはっきりと聞こえてきた。
『車か、バイク、どっちだ』
「車です」
『方向は』
「学校出てすぐ右に曲がりました」
『お前、今どこだ』
「瀬尾と一緒に車が走って行った道を追ってます」
『拾ってやるからそこ動くなよ。十分で行く』
「はい……あの、陸さん」
『謝ったらぶっ殺す。侑里が無事じゃなくてもぶっ殺すから、覚悟しとけ』
ドスの効いた声でそう言われてしまえば、何も言い返さなかった。
チンピラに囲まれていたところを助けてもらって以来、陸には頭が上がらない。
自分の不甲斐なさに苛まれ、その場で蹲って動かなくなった桃麻の姿に、瀬尾が苦笑混じりのため息を吐き出す。
「藤田ちゃんはお前のどこが良いのかね~」
「…………」
「今度はお前からちゃんと告白してやれよ」
「分かってる」
「ま、陸さんに半殺しにされなきゃの話だけど」
「……それも、分かってる」
陸が来るまでの間、うんうんと唸り声を上げる悪友を動物園のパンダでも眺めるかのように、瀬尾は目を細めて見守った。
◇ ◇ ◇
首筋に添えられた冷たい何かに、侑里は「ひっ」と上擦った悲鳴を漏らした。
形状からしてナイフ、もしくは鋏のようなものなのだろう。
ぺちぺちとそれが肌に叩きつけられる度に、恐怖に震えた歯が不協和音を奏でた。
「お前があいつの新しい彼女か」
「な、何の話か、分かりません」
「柏原桃麻の彼女かって聞いてんだよ!!」
――ジャキッ!!
セーラー服の胸元が嫌な音を立てる。
肌に触れていたのは、やはり鋏だったらしい。
夏用の薄い素材で作られたセーラー服が切られた影響で、だらしなく首を擡げているのが分かった。
「……っ」
「正直に答えろ。さもないと、帰る頃には素っ裸になるぞ」
「私は、彼女じゃありません」
「じゃあ、どうしてさっきあいつの名前を呼んだんだ」
「それは……」
どうして、と言われて、侑里は言葉に詰まった。
教室で別れたあと、すぐに帰ったとばかり思っていた彼の声が聞こえてきて、ほとんど反射で名前を呼んでいた。
今思えば、普通は「助けて」と叫ぶ場面だったのではないか、とこんな状況であるにも関わらず、羞恥で頬に熱が上るのを感じた。
「答えられないってことは、やっぱり彼女なんだろ」
「ち、違います! 私と彼はそんなんじゃ……!」
違う。
自分で紡いだ言葉に、侑里は胸が痛んだ。
「ふーん。じゃあお前も本命じゃないってことか」
「…………」
そんなことあるわけない。
ちょっと距離が近いだけの《同級生》だ。
「顔色が悪いところを見ると、図星だな?」
男の手が、侑里の顎を持ち上げる。
ツン、と鼻の奥が痛んで、気が付けば頬が涙に濡れていた。
視界は滲み、男の輪郭をはっきりと捉えることができない。
「何だ、その顔は」
顎を掴まれている手に力が込められた。
無理やり上を向かされている所為で首が嫌な音を立てる。
けれど、男に与えられる痛みよりもずっと、胸の奥の方が痛かった。
歪んだ視界の中で、自身を拘束する男を鋭く睨む。
「あなた、かわいそうな人ですね」
「あ?」
「こんなことしたって、柏原くんは何とも思いませんよ」
「……何が言いたい」
桃麻が二人きりの時だけに見せる穏やかな表情が、侑里の脳裏を過った。
「彼にとって、私はただの同級生です。仕返しのつもりなら狙う相手を間違ってます」
「そうとも言い切れないみたいだぜ」
「え――」
ガシャン……ッ!!
錆びたシャッターが嫌な音を響かせる。
――肩で息をする桃麻の姿がそこにあった。