7話『くらくら』

「藤田」

よく知っているはずの声で、慣れない呼ばれ方をされて、ぎくりと肩が跳ねた。
なあ、と続けられた不機嫌を隠そうともしない声音に、振り返るのが益々億劫になる。

「俺まで無視することないじゃん」
「……」
「陽菜も会いたがってたのにさあ~」
「…………」
「まさか、始業式にならないと会ってくれないとは思わなかったなあ」

桃麻の声は決して通る方ではない。
それでも、意図して大きくしているのが分かる声量でそんなことを告げられてしまえば、クラスメイトたちの視線は自然と侑里たちに集中した。

「か、柏原くん」
「なに」
「ここは、人が多いので、あの、」
「別に俺は聞かれて困るようなこと言ってねえけどぉ!?」

沈静化を図ろうとしたが、うっかり火に油を注いでしまったようだ。
ぐうの音も出ず、困り果てた侑里の耳元に「ぺしっ」と乾いた音が響く。

「止めろバカ~! 藤田ちゃん、困ってんでしょーが!」
「瀬尾、」
「ほ~ら、散れ散れ~! 見せもんじゃないぞ~!」

桃麻の悪友――瀬尾の一言で、怖いもの見たさと野次馬根性でその場に残っていたクラスメイトたちがぞろぞろと足並みを揃えて帰路につき始める。
人払いされても、侑里の心境は落ち着かなかった。
何せ、ピンクと金色から尋問を受けるような格好で席を囲まれてしまったのである。

「そんで? 何があったのかな~?」

にやにやと人の悪い笑みを浮かべる瀬尾に、侑里は片眉を持ち上げた。
この男、助けてくれたのかと思えば、どうやらそうではないらしい。
桃麻と侑里の間に何かあったのか、真っ先に知りたくて仕方がなかったようである。

「……何も、ありませんよ」
「ふ~ん?」
「何ですか、その顔は。というか、柏原くんも黙ってないで何か言って、」

静かに凪いだ双眸と視線が絡み合う。
ぱち、と瞬きを落とした侑里に、桃麻は唇を尖らせた。

「『何』もなかった、ねえ?」
「逆に聞きますけど、何かあったんですか、私たち」
「……デートしたじゃん」
「デート!!!!!」

食い気味で瀬尾が反応を示すのに、侑里は今すぐこの場から消えたくなった。
何が悲しくて同級生にデートの報告を聞かせなければならないのか。
日頃の行いは良い方だとばかり思っていたのだが、どうやら神様は見る目がないらしい。

「違います。お祭りに柏原くんと柏原くんの妹さんと一緒に行っただけです」
「へえ、陽菜ちゃんも一緒だったんだ。あの子、人見知りっしょ。泣かなかった?」
「何度か会ったことがあるので、」
「『何度か会ったことある』!? と、桃麻、お前、ガチじゃねえか!!」

瀬尾がそう叫んだ瞬間、桃麻は彼の後ろ髪を引っ掴んで、侑里の机へと遠慮なく叩きつけた。
ゴン、と鈍い音が人の少なくなった教室に響き渡る。

「あは! めっちゃ響く~」

桃麻の目が猫のように細められる。
突然始まった物騒なやり取りに、ぎりぎりまで残っていたクラスメイトたちも慌てたように教室を飛び出していった。

「痛ってえ~! 急にど突くなよ! 頭割れるかと思ったじゃねえか!」
「割れても困るほど中身詰まってねえだろーが」
「あ?」
「外野はスッ込んでろ。俺が用あんのは、藤田だけなんだからよ」
「ったく、素直に二人きりになりたいって言えねえのか、お前は」
「藤田と『二人きりになりたい』」
「はいはい。分かりましたよ。邪魔者は退散しますぅ」

一触即発といった雰囲気がゆっくりと静かに教室の中へと溶け込んでいく。
赤くなった額を撫でながら瀬尾が緩慢な動作で立ち上がった。
そのまま教室を出ていくとばかり思っていた桃麻の予想を裏切り、彼はそっと侑里に顔を寄せる。

「……何か嫌なことされたら、叫びなね。俺、廊下に居るからさ」

ぼそりと耳打ちされたそれに「はい」と短く返した侑里の目元が淡く染まった。

「おい、離れろ!」
「お~こわっ! 余裕ねえ奴は嫌われんぞ~!」
「お前にだけは言われたくねえっつの!」
「なははは! んじゃね~!」

足早に去っていた同級生の背中を見送った侑里だったが、今度こそ『二人きり』になってしまった事実に緊張で身体が固くなる。

「……それで? 何で無視したわけ?」

二人きりになりましたけど、と今にも叫び出しそうな顔で桃麻が顎をしゃくった。

「えっと、」
「知ってると思うけど、俺、気短い方だからね」
「……っ」
「黙ったら話進まないんですけど」
「こ、怖いんですよ、さっきから。どうして、そんな怒ってるんですか」

不良に対する免疫は兄で耐性がついているとばかり思っていた侑里だったが、普段はのほほんとした印象の強い――陽菜も一緒に居ることが多いからかもしれない――桃麻が怒っている姿を見るのはどうにも落ち着かないし、怖かった。
そう言えば、夏祭りのときも、と口の中で転がすように呟いた侑里の言葉に、桃麻の片眉がぴくりと反応を示す。

「……あれは、藤田に怒ってたんじゃないだろ」
「それは、そうですけど、」
「何、俺がキレてたから無視したってこと?」
「ち、違います」
「じゃあ、何」
「…………」

何と聞かれて『浴衣を褒められて恥ずかしかった』と素直になるべきか、侑里は逡巡した。
言葉を紡げば最後、今までの付かず離れず――ぬるま湯のように居心地の良い距離感を壊すことになってしまう。
拳一つ分、互いの呼吸音が聞こえるような近さで、侑里と桃麻は暫く無言で見つめ合った。
桃麻の瞳の中に映る、緊張と不安で常の三割り増しに表情の固い自分の姿に、知れず唇に歯を食い込ませる。

「血、出ちゃうよ」

そろり、と伸ばされた指先に、一瞬だけ反応が遅れた。
緊張を解くよう優しく頬に触れた桃麻の掌に、心臓が跳ねる。

「藤田」

至近距離にある真面目な表情の桃麻に視線が釘付けになった。
身動ぎ一つも許されない。
そんな空気に、侑里はこくりと小さく唾を飲み込むのがやっとだった。

「一個だけ聞きたいんだけど」
「は、い」

頬の柔らかさを確かめるように動いた指先が、ゆっくりと離れていく。
先ほどまで合っていた視線が外れたかと思えば、「俺のこと好きって本当?」と少しだけ上擦った声が言葉を紡いだ。
言葉にならない声をはくはくと喘ぐように繰り返しながら、侑里は瞑目を繰り返す。

「………………本当だったら、どうなるんですか」
「……ちょっと、考えさせてほしい」
「そう、ですか」
「藤田?」
「いいえ、何でもありません。不快な思いにさせて申し訳ありませんでした。お先に失礼します」
「え、ちょ、待って!」

桃麻の静止の声は侑里に届かなかった。
逃げるように走り去っていく侑里の背中に掛ける言葉も見つからない。

残されたのは、ぽつり、と床に落ちた雫の跡で。
それを見て初めて、言葉を間違えてしまったことを茹った頭で遅れて理解するのだった。