11話『星秤の診断』

静かな夜へと降り注いだ虹色の光に、ヴェレたちは釘付けとなった。
荒くなった呼吸を耳障りに感じながら、クラレットが「だれ、」と自身を支える人物に問いかける。

彼女は少しだけ眉尻を下げ、「ふむ。何と名乗れば良いものか」と口の中で言葉を転がしていた。

「フラー様!」

ヴァレシアが軽やかな足取りで、女性の元へと駆け寄った。

「お主、レシアか? 見ないうちにすっかり大きくなったの」
「はい! お久しゅうございます……!」
「積もる話もあるが、少し待て。このバカ共を摘み出すのが先じゃ」

ふらつく足取りで立ち上がったザインに、フラーは心底嫌そうに表情を歪めた。

「一体いつから招かれた者以外も入れるようになったんじゃ?」
「……知れたこと。他の《星獣》の力を使えば、済む話だ」
「なるほど。あの子の魔力が緩んだのかと思っていたが、そもそもの話が違ったわけか」
「どういう意味だ」
「何。こちらの話よ。さて、」

――邪魔者には帰ってもらうとするか。

パチン、とフラーの指が高らかに鳴り響く。

「な、何だこれは!? まだだ! まだ俺は……!」

喚いていたザインが霧に取り込まれたかと思うと、やがて空気の粒に混じるように溶けて消えた。
驚きに足を止めたメーア軍の甲冑が打つかり合う。
鋼が軋むような音が辺りを支配し、叫びも掠れた悲鳴も、霧の中へと吸い込まれていった。

瞬きの間に敵を消し去ったフラーに、全員がごくりと生唾を飲み込むことしかできなかった。

「《星の魔力》も無効化するよう結界を張り直しておいた。今度は蟻一匹通れんだろうよ」
「あ、ありがとうございます!」

ヴァレシアがほっと安堵の息を漏らす。
高台に避難していた住民たちを安心させるために、彼女は口笛を奏でた。
ぴゅーい、と返ってきた口笛を聴いたヴァレシアの顔が綻ぶのを見て、ヴェレたちも漸く胸を撫で下ろした。

「それで、あの、姉さんの容体は、」
「魔力は落ち着いているから問題はない。ただ、毒の分解に時間がかかっておるのだろう。毒に強い《蠍座》とは言え、このままだと身体は保たんだろうな」
「……ッ! そんな! じゃあ、どうしたら、」
「《真珠海》でここまで強い毒を解毒出来る薬はない。大きい都市に行って、医者に診てもらうか、薬を調達した方が良いだろうな」

そう言って、フラーはクラレットの身体を地面に横たえた。
声を漏らすまいと必死に奥歯を食いしばる彼女の額には、大粒の汗がびっしりと浮かび上がっている。
見るからに苦しそうな姉の姿に、ヴェレは俯くことしかできない。

「大丈夫ですよ」

そんなヴェレの手を、ヴァレシアがそっと握り締めた。

「陸に渡れば《天秤座》の街があります。名前までは存じ上げませんが、お連れ様なら詳しいのでは?」
「《真珠海》の近くっていうと――ああ! 交易都市《カイザール》か! 確かに! あそこなら、何でも揃うと思うよ!」

ハカリの表情が常にも増して明るくなったことで、ヴェレの胸に希望の光が灯った。
不安が晴れ、心が凪いだ海のように穏やかになっていくのが分かる。
それと同時にヴェレの身体を包み込んでいた《海の魔力》がパッと泡になって弾け飛んだ。

地面を擦るほど長く伸びていた銀髪も落ち着きを取り戻し、淡黄色へと戻っていく。
髪と同じ睫毛の隙間から覗く瞳も、深く吸い込まれるような青から朝の日差しを纏ったような淡い桜色に染まっていた。

「……うっ、」
「大丈夫かい?」
「すみません。少し魔力に酔ってしまったみたいで」

倒れそうになったヴェレをハカリが抱き止める。
そんな彼らにフラーが少しだけ歩みを寄せた。

「星海の子と言えど、陸であれほどの《海の魔力》を纏えば、無理もないだろうて」

ヴェレの顔を覗き込んだ緋色の瞳が、僅かに揺れる。
桔梗の香り芳しい長髪が、カーテンのようにハカリとヴェレを覆い隠した。
外界から閉ざされた小さな結界の中で、フラーの声が歌うように弾む。

「あな嬉しや! 《歌い手》と《裁定者》が揃っておるではないか!」
「何を、」
「惚けても無駄じゃぞ。主からは濃い《星の魔力》の気配がするからの。――《天秤座》の初代族長(アザリオ)と同じ、な」
「ど、どういうことですか、ハカリ」
「…………とにかく、今はカイザールへ急ごう。クラレットさんの治療が先決だ」

ハカリの声は、珍しく震えていた。

「ハカリ、」

もう一度、問い質そうと彼の名前を紡いだヴェレを「みんな無事!?」というシトラスの声が現実へ引き戻す。
フラーの髪をぞんざいに開いて顔を見せた少年の姿に、ヴェレとハカリは苦笑を浮かべるのだった。

◇ ◇ ◇

雲が晴れ、漸く姿を見せたカイザールの街は、星の名を冠するにふさわしい輝きを湛えていた。

高く積まれた石の楼閣。水面に浮かぶような白い回廊。空を渡る橋の上には、幾何学模様を刻んだ硝子灯が吊るされ、朝の光を受けて万華鏡のように揺れている。《天秤座》の都は、まるで天の川の欠片が地に降りたかのようだった。

「随分と凝った意匠ですね。……浮かれてる場合ではありませんが」

ヴェレが口元を引き攣らせながら呟いた。
だが、その瞳はほんの僅かに緩んでいるように見えた。
そっと、クラレットの肩を抱きしめ、足を踏み出す。
熱の籠った体を包む外套は、《真珠海》で別れ際に渡されたものだ。魔法で冷やした布に包まれていても、その熱が下がる気配は一向になかった。

「診療所は中央通り、審理の噴水を越えた先だ」

先導するハカリの声に促され、ヴェレたちは朝の市街を進む。
石畳の道には朝露が残り、道端の露店が賑やかに声を張り上げていた。
香辛料の香りと、焼きたてのパンの匂いが混ざり合って、どこか懐かしい、遠い旅先のような気持ちにさせる。

ヴェレはちらと周囲を見回した。
どの家にも、戸口に小さな秤の印が彫り込まれているのが見える。
中には《星明りの天秤》を模した細工を扉の上に掲げている家もあった。

「秤の加護……というものですか」

思わず口を衝いたその言葉に、ハカリが柔らかく頷いた。

「ああ。軒先に天秤を掲げると、星の加護を得られるって言い伝えがあってね。ほとんどの家がそうさ」

その時。遠くから鐘の音が響いた。
低く、ゆったりとした四つ打ちの鐘。街の時間を告げる音だろう。一つ星、二つ星、三つ星……四つ目の鐘が鳴り終わったところで、ハカリが顔を上げた。

「四つ星の合図だ。もう直に、診療所も開くと思うよ」
「助かります」

ヴェレは真っ直ぐに前を見据えた。
クラレットの眉間には、うっすらと苦悶の影が刻まれている。
浅い呼吸を繰り返す彼女の姿に、見ているこちらも胸が痛かった。
だが、まだ間に合う。
そう信じて、ヴェレはまた一歩を踏み出した。

「アンタレスの毒を取り込んだ《蠍座》なんて初めて見たぞ。幼体とは言え、毒は成体とそう変わらんだろうに……」
「普段から相当強い毒を食べていたんだろう。でなければ、即死だったろうさ。――ここに暁明草の朝露は置いとるか?」
「あ、ああ。だが、あれはこの時期貴重だ。少し値が張ると思うぞ」

戦闘疲れで眠ったシトラスを負ぶったままのフラーが、診療所の医師とあれこれ意見交換を始める。
その間、ヴェレは寝台に横たえられたクラレットの額にずっと手を当てていた。
汗を掻いている割に、熱は高いままだ。
心配そうに姉を見遣るヴェレの横顔を、ハカリは黙って見つめていた。

「治療は彼らに任せて、僕たちは街の散策にでも出ようか」
「……ですが、」
「起き抜けにそんな死にそうな顔を見せられたら、クラレットさんも驚いてしまうよ」
「…………」
「それに、シトラスくんも魔導書を見たいだろうし。そろそろ起こしてあげよう」

ハカリの言葉に、ヴェレの眉間に皺が刻まれる。
次いで、医師と議論を白熱させているフラーの元へ近付き、「シトラスをもらいます」と言って小さな功労者の身体を受け取った。

「医師(せんせい)、少し市場へ行ってきますね」
「分かった。戻る頃には治療を進めておこう」
「お願いします」

土産を頼むぞ、と満面の笑みを浮かべたフラーに送り出された三人――シトラスはハカリの背中で寝息を立てていた――は、診療所のある坂道を下って広い大通りへと向かった。
早朝の光が石造りの街並みを照らし出し、淡い金色で染めていく。
がやがやと喧騒に包まれた市場は、リゲルのギルド前通りを彷彿とさせた。

「んんっ、ここどこ?」

背負っている人間が変わったからか、あるいは動いている振動が伝わったのか。
ぐーっとハカリの背中で伸びをしてみせたシトラスに、ヴェレがこの街に来て初めて穏やかな笑みを見せた。

「おはよう坊や。せっかくカイザールに着いたのに、随分とお寝坊さんですねぇ」
「ええっ!? 起こしてよ!! 魔導書見たいって言ってたの知ってるでしょ!!」
「丁度、今から魔導書を見に行こうと思っていた所さ。まったく、魔導書に対する君の嗅覚は凄まじいね」
「本当!? やった~~~!!」

軽やかな身の熟しでハカリの背を飛び降りたシトラスは、我先にと走り出していく。

「二人とも~! 早く~!!」
「そんなに急がなくても書店は逃げませんよ」
「普段の様子が嘘みたいに元気だねぇ」
「根っからの魔導書好きですから、仕方ありません」

出会ったばかりの頃はそうでもなかったんですよ、と溢したヴェレの横顔に先ほどまで宿っていた憂いは見えない。

「そう」
「ええ。初めての報酬で買った魔導書――いつも坊やが使っている物なんですけど、あれの所為でのめり込んでしまったみたいで」
「じゃあ、レディと出会ってから魔導書を扱うように? それで、あの腕前とは恐れ入るなぁ」
「筋が良いんでしょうね。ほら《獅子座》は飲み込みが早いと聞きますし」
「なるほど……」

シトラスの後を追いかけるように、二人は大通りの脇道の一つへ入った。
細く枝分かれした通りには、手工芸の店や香草売りが軒を連ねていたが、一際異彩を放っていたのは淡い青色の看板を掲げた店舗だった。

《星詠み書房》

硝子窓の奥には、年代物の魔導書が並んでいる。
装丁の細やかさや色彩が、店主の審美眼を物語っていた。

古書特有のツンとしたカビ臭い紙の香りと、よく磨き上げられた床の軋む音がシトラスを出迎える。

「あ、あれは、セファリム式の写本! しかも、初版だ……!」

息を呑んだシトラスの目は、今や文字通りの星を映している。

「坊や、二冊までですからね」

ヴェレが小さく釘を刺すも、シトラスは本の海に夢中だった。
ハカリはそれを見て笑いながら、隣の店の焼き菓子を手に取る。

「君もどうだい?」

差し出された甘い香りに、ヴェレは軽く肩を竦めた。

「……お腹は空いていませんが、気遣いには感謝します」
「おや、何のことかな?」
「私の気分転換も兼ねているのでしょう?」
「レディ。男の気遣いは黙って受け取っておくものだよ」

これ以上、言葉を紡がれては堪らないとその小さな口に焼き菓子を放り込む。
もが、と何事かを言いかけたヴェレに、ハカリは真っ白な歯を見せて子どものように笑った。