鈍く光る左手に、ナギはスッと目を細めた。
大聖女マリアとの永きに渡る戦いの代償として失ったそこには、レヴィアタンが研磨し、ヴォルグが魔力を込めた海竜の牙が新たな腕として収まっている。
「……慣れねえな」
自身の肌との境目を隠すために、肩までの長いグローブを装着するようになったのだが、一月が経っても未だに見慣れない。
ため息を吐きながら、マリーが新しく造った衣服に着替え終わったのと同時に、遠慮がちなノックが扉を叩いた。
誰だ、と瞬きを一つ。
次いで「妃殿下、よろしいでしょうか」と聞こえてきた声に、ナギは若干食い気味で「入れ」と声を掛けた。
金色の髪に、澄んだ海のように青い瞳を携えた少年が、ゆっくりとした歩みで部屋の中に入ってくる。
「久しぶりだな、ライト」
「ご無沙汰しております、ナギ様」
幼さが残るものの精悍な顔つきになった少年の――ライトニングの眩しい笑顔に、ナギも釣られて口元を綻ばせた。
「訓練にはもう慣れたのか?」
「はい。お陰様で、マモン閣下に毎日厳しく鍛えて頂いております」
「そうか」
笑うと八重歯が見えて可愛らしい。
その姿は、彼の母であるグレースを想起させた。
諸領地の子息たちを魔王城に集めて訓練する、という新たな試みを初めて一年。
ナギは腕の療養のために一時、指導官を離脱していたが、マモンや他の指導官が上手くやってくれていたらしい。
一月前よりも腕が少し太くなったな、とライトニング少年を眺めながら、ナギは首を傾げる。
「そう言えば、今日はどうしたんだ? お前が俺を訪ねてくるなんて珍しい」
青い海が瞬く。
「…………それが、」
「何だ? マモンには言い難いことでもあったか?」
「いえ、違うのです。私のことではなくて――母上からこんなものが、」
ナギの脳裏に、淡いラベンダー色が過ぎる。
まだナギがヴォルグの剣として魔王城で過ごしていた頃。初めて参加した夜会で、物怖じせずに話しかけてきた女性――それがライトニングの母、グレースだった。
『ナギ様』
竜種の血を引く彼女は、笑うと八重歯が見える。
その姿が普段の凛とした姿と打って変わって可愛らしく、厳しくも優しい彼女のことをナギは姉のように慕っていた。
「グレースに何が、」
ライトニングから受け取った手紙の文面を見て、ナギの顔色からサッと血の気が引いた。
全身の毛が逆立ち、怒りに反応した魔力が煮え立つ。
バチバチと小さな雷鳴が、耳裏で鳴るのを感じながら、ナギが眉間に深い皺を刻んだ。
「…………お前は何も心配するな。俺が直接出向く」
「で、ですが」
「お前の母は、俺の友だ。その友が倒れたと言うのであれば、見舞いに訪ねるのは当然のことだろう」
それはグレースが書いたものではなかった。
封蝋の印は間違いなくグレースのものだったが、文面は侍女が書いたと一目見て分かる。
『ライトニング様。急ぎお戻りください。エーリカ様がまた問題を起こし、奥様がお倒れに……!』
急いで書き連ねたのだろう。所々歪んだ紙の表面を指先で撫でて、ナギはグッと奥歯を噛んだ。
そうして、瞳に怒れる獅子を宿した王妃が、乱暴な所作で立ち上がる。
「それに、あのクソ女にはいい加減キツイお灸を据えてやろうと思っていたところだ」
不敵に笑った彼女の姿を見て、ライトニングは恐怖のあまり生唾を飲み込むことしか出来なかった。
◇ ◇ ◇
「……どうしてお前まで付いてくるんだよ」
「そんなこと言って、内心嬉しいくせに」
「心の声を勝手に聞くな。お前から先にぶっ殺してやってもいいんだぞ」
ちゃき、と可愛らしい――側から聞けば十分に物騒である――音を立てた大剣に、ヴォルグは柔く首を横に振った。
機嫌の悪い猫みたいだな、と細君の整った横顔を見ながら、造りものに変わったばかりの彼女の左腕に遠慮がちに触れる。
「まだ痛む?」
「痛みはもうないと何度も言ってるだろ。あるのは違和感だけだ」
ヴォルグの掌の上から自身の掌を重ねて、ナギが彼の肩に頭を預ける。
がたん、ごとん。
馬車が揺れるたび、振動が伝わってくる。
魔王の冷たい体温さえも感じなくなってしまった左腕に、ナギがくしゃりと表情を歪めた。
「この腕になってから、お前の体温も、感触も分からなくなった。――それが少しだけ惜しい」
「ナギ、」
「……っ」
触れられているということは分かるのに、神経が繋がっても所詮は紛い物。いくら精巧に造られていても、体温や感触を正確に拾うことは難しいようだった。
「泣かないで。君が言ったんだろ。『左腕の一本で済んで良かった』と」
「そ、だけど」
「だけど?」
「…………両腕で抱きしめても、お前の体温が遠く感じる」
「ふふ。全く君は……」
言外に抱きしめられたいと伝えてくる不器用な妻に、ヴォルグは笑みを溢した。
「おいで」
ヴォルグがそう呟くと、ナギは素直に彼の背中へと腕を伸ばした。
年を追うごとに可愛さが募る。ここが馬車でなければ、迷わず押し倒しているところだ。
肩までの長さになったナギの髪に優しく手を差し入れる。
露わになった額に、ヴォルグは柔く唇を押し付けた。
「君の心が晴れるまで、何度もこうして抱きしめてあげるよ」
「……バカ」
「今、好きって思ったでしょ?」
「…………悪いかよ」
「んぐっ」
「ヴォルグ?」
「な、何でもない。君ってほんと、見ていて飽きないなぁ」
二時間後。魔王夫妻のやり取りは、道中一度も途切れなかったとげっそりとした顔の馭者が、厩番に愚痴を溢したのは言うまでもない。
◇ ◇ ◇
鉱山と林業の街――シルフレア。
かつてこの地に暮らした女将軍の名を冠したこの街では、現在ある問題を抱えていた。
領主クロドアの、名ばかりの第二夫人――愛妾エーリカの横暴な振る舞いである。
もう直ぐ冬を迎えようとしている魔界では、各領地でそれぞれの特産品を売り出し長い越冬に備える。
勿論シルフレアも例外ではなく、林業の街として恥じぬよう今年もまた大量の薪や冬の間の商売として装飾品が用意されるはずだった。
「妃殿下!」
わっと涙ながらに走ってきた侍女長をナギはしっかりと抱き止める。
「久しぶりだな、メルゼ。息災なようで何よりだ」
「こ、こんな辺境の地までお越しいただけるなんて……。奥様が知ったら、」
「そのグレースを見舞いに来たんだよ」
ナギの後ろからひょっこりと顔を出した魔王に、侍女長メルゼが今度は「ひぃい」と上擦った悲鳴を漏らした。
「ま、まままま魔王陛下!?」
「あはは。若い頃の君みたいな反応だね」
「うるせえな。――メルゼ、このバカは放っておいていいから。グレースの部屋へ案内してくれ」
シルフレア辺境伯夫人、グレース。
その人は、寝台に座った状態で、ナギたちを出迎えた。
淡いラベンダーの髪を下ろし、驚愕に見開かれた金色の瞳がナギを捉える。
「ナギ様」
「倒れたと聞いてな。見舞いに来たんだ」
「……メル。貴女、また勝手に」
「まあ、そう怒ってやるなよ。お前のことが心配だったんだろ」
「……」
「それで? 今回は何をやらかしたんだ?」
ナギの問いに、グレースは唇を噛み締めた。
現在、シルフレア伯爵クロドアは、越冬の準備で魔王城に滞在している。
先年度の納金率から下賜される食料や布類の量が変わるため、各地の領主はこの時期になると魔王城に滞在し、越冬のために下賜された物を持ち帰る決まりになっていた。
「クロドア様の名を騙って、伐採した薪の三分の一を我が家へ運ばせたのです」
「…………はあ、」
シルフレアの街で伐採される薪の三分の一は、毎年魔王城へと献上される。
そして、それは魔王城だけではなく、王都で暮らす領民たちの分も賄っていた。
残った薪を細かく分配し、各領地へ送ることがシルフレアの冬仕事だ。
伯爵家の手元に残る薪は微々たるものだったが、彼らを慕う領民の好意で分けてもらえることも少なくない。
それなのに。
「う~ん。ごめんね――シルフレア第二夫人は頭が悪くいらっしゃる?」
それまで黙って二人を見守っていたヴォルグが、怒りを滲ませた声でぽつりと呟く。
「……疑うなよ。頭緩そうな顔(つら)してんじゃねえか」
「いや、人を見た目で判断するのは良くないかな、と思って」
「あの女に関しては見た目通りの評価で問題ないだろ」
散々な言いように、グレースは思わず目元を和らげた。
痛みを纏っていたはずの頭が、少しだけ軽くなる。
「お気遣い痛み入ります。ですが、これは領主代行を任された私の落ち度です」
「グレース」
「ですから、どうか王都にいるクロドア様には内密に」
「……それは無理だ」
「え、」
ナギはキッパリと言い放った。
憔悴するグレースの姿をこの目に収めたときから決めていた。
あの女をクロドアの第二夫人として迎えてから十余年。
エーリカが何か問題を起こすたび、グレースが庇い立ててきた。
それはナギが境界に引きこもっていた間も変わらず、むしろここ数年で悪化の意図を辿っていると聞いた。
「辺境伯にあたっては、外交を主としている所為でここ数年は越冬の間しか領地に戻らないと聞く。奥方が倒れたというのに、その知らせを受け取らないのはおかしいだろ」
「まさか、」
「俺からライトに頼んできた。息子を巻き込むのは不本意だろうが、あれも次期領主だ。事の次第を見届ける義務がある」
ナギの目に宿る炎に、グレースはそれ以上何も言えなかった。
この人が本気で怒っている姿を見るのは、これが初めてだ。
普段は王妃扱いを嫌って、剣時代と変わらぬ気さくなナギだが、自身の懐に入れたものを傷つけられた途端、その態度を一変させる。
情に厚い彼女の姿を知っているヴォルグからしてみれば、今回の件はよく我慢した方だった。
「明後日には辺境伯たちも帰ってくる。お前に与えられた猶予はこの二日だけだ」
「……ご温情、感謝致します」
深くお辞儀したグレースの、痩せ細った姿に、ナギは拳をギュッと握りしめる。
「滋養に良いものを持ってきた。メルゼ、すぐに用意してやってくれ」
「かしこまりました」
メルゼが恭しくナギの持っていた荷物を預かると、隣にある簡易給仕室へ引っ込んだ。
「それから、動けるようなら少し外を歩かないか。一緒に買い物がしたいんだ」
ナギの申し出に、グレースだけではなくヴォルグも目を見開く。
買い物、と言えば、ナギから最も縁遠い言葉の一つである。
魔王城に来る商人の品を物色するのも嫌がるくせに、とヴォルグが白い目で彼女を見れば、その視線に気がついたナギがムッと唇を尖らせた。
「な、何だよ」
「僕と一緒に買い物行ったことあった?」
「……帰ったら付き合ってやるから」
「僕も行く」
「女同士の買い物がしたいんだ、俺は」
「普段は女扱いすると怒るじゃないか、君」
「~~~っ! 鈍いのも大概にしろよ! 下着屋に行きたいんだってば!」
遂にはカッとなって目的の品を口に出してしまったナギは、慌てて口を塞いだ。
だが、一度溢した言葉がそれで戻るわけはなく、頬を淡く染めたヴォルグと、視線が交差する。
「へえ?」
意地悪く細められた目に、ナギが下唇を強く噛み締めた。
「だっから、言いたくなかったんだよ! 良いだろ、別に! 俺が下着見たって!」
「マリーに頼めば良いじゃないか」
「あいつに頼んだら、お前に筒抜けだろうが!」
「あ~なるほど、ちょっと言えない下着を見たいってこと?」
「…………いい加減にしないと怒るぞ、ヴォルグ」
低い声で唸ったナギに、ヴォルグは両手を上げて降参の意を示した。
そんな二人のやり取りを間近で見ていたグレースが、思わずと言った様子で笑い声を上げる。
くすくすと、まるで少女のように肩を震わせて笑う彼女の姿に、今度はナギが頬を赤くする番だった。
「な、何だよ! グレースまで!」
「も、申し訳ありません。お二人のやりとりが可愛らしくて」
「かっ、わいくない! こいつのどこが可愛いってんだ!」
「ふふっ」
「グレース!!」
ナギが叫ぶも、グレースの笑いは中々収まらない。
楽しげに笑う主人の声を聞いて、メルゼは預かったばかりの桃を鼻歌混じりに切り分けるのだった。
◇ ◇ ◇
途中まで付いてくると言って聞かなかったヴォルグを屋敷に置いて、ナギとグレースの二人はシルフレアの街へ繰り出した。
鉱山と林業の街という字が有名なシルフレアであるが、レヴィアタンの有するユーラ領に次ぐ、大きな港街でもあった。
漁港から程近い場所に造られた市場には様々な店が軒を連ねている。
「……グレース様! お久しゅうございます! お加減はもうよろしいので?」
「グレース様、新しい織物が入ったんです。あとで見にきてくださいね!」
「奥様! 病み上がりでお寒うございませんか? よろしければ、こちらで温かいものをお召し上がりください!」
道行く人々のみならず、店を構える商人たちのほとんどが、グレースの顔を見かけるたびに何かしら声を掛けてくる。
「大人気だな」
揶揄い半分、感心半分といった様子でナギが口角を上げると、グレースが気恥ずかしそうに眉根を寄せた。
「有難いことに、と言うべきでしょうか」
「もっと自信持てよ。俺なんて、ちょっとその辺を歩いただけで、悲鳴上げながら逃げられるんだぜ」
「白昼に堂々とナギ様のお姿を拝見できるなんて、王都に住む方々が羨ましいです」
「なら、今度はお前が遊びに来い。マリーや俺の娘たちも喜ぶ」
「ルナ様に、ステラ様はお元気ですか?」
「ああ。ルナの方は誰に似たのかお転婆が過ぎるけどな」
「まあ!」
二人が目的の場所へ向かいながら談笑していたときだ。
いやに甲高い声が、それまで和やかだった市場の雰囲気を霧散させた。
「私の言うことが聞けないと言うの!?」
キン、と耳に残る金切り声に、ナギは額に青筋を浮かべた。
「……噂をすれば何とやらだな。どうする?」
「……少し、様子を見ても?」
「ああ。構わない」
二人は互いに顔を見合わせると、野次馬たちに紛れて、声がした方へと歩みを寄せた。
糾弾されているのは年若い娘だった。
ルナくらいか、とナギが目を細めていると、再び金切り声が辺りを支配する。
「蒼玉(サファイア)の宝飾品が売れないってどういうことよ!」
グレースの悩みの種――エーリカ第二夫人が、街中に響き渡るほど大きな声を出しながら、娘へ詰め寄った。
「で、ですから、こちらは魔王様へ贈る献上品の一つでして、」
「魔王様が何だと言うの! 領主夫人である、この私に逆らう気!?」
「どうか、ご容赦ください……! こちらは魔王様が直々に選ばれた魔王妃様への贈り物の品なのです……」
宝飾店の娘は、罵られても尚、毅然とした態度で断り続けていた。
「なかなか、骨のある娘だな」
「はい。アレは、この街の商人頭の娘です」
「へえ……」
「ですが、これ以上は、」
「まあ、待て。あの女が次に何を吐くのか、興味がある」
魔王の名を口に出したにも関わらず、エーリカはフンと鼻息を荒くする。
「お前はこの街から出たことがないから知らないのでしょうけれど、私は魔王様からご寵愛を受けたことがあるのよ。私が頼めば、魔王様だって許してくださるわ」
興味があるとは言ったものの、エーリカの口から飛び出した爆弾発言に、ナギの怒りは臨界点を超えた。
無論、本気で怒った彼女を止めることなど、ヴォルグですら困難を極める。
雑踏の中、音もなく俊敏な動作で駆け抜けていったナギの背を、グレースは引き止められなかった。
「……誰が、誰の寵愛を受けたって?」
低い声が空気を震わせる。
それこそ男と見紛うほどの長身から放たれた、獣が唸ったような声に、その場に居た全員が地面に足を縫い付けられたように動けなくなった。
「なあ、よく聞こえなかったんだ。もう一度、聞く。誰が、誰の寵愛を受けたって?」
「な、何よ、貴女。どこの誰か知らないけれど、私が魔王様やクロドア様の寵愛を受けたと知っての狼藉?」
今度こそ、ナギの額からプッツンと血管の切れる音が聞こえてきそうだった。
グレースが成す術なく天を仰ぐ。
「知らないなら、教えてやるよ。お前が寵愛を受けたと宣った魔王の妻だ」
「は、」
「つまり、お前が欲しい欲しいと駄々を捏ねている蒼玉の受取人さ。――これでもまだ、俺が誰か分からねえのか?」
ナギは人前であるにも関わらず、着ていた外套と服を脱ぎ捨てた。
胸当てを残した彼女の背には、雷を意味する紋章が大きく広がっている。
野次馬は勿論、それに混ざって彼女の背を見たグレースもほうと恍惚の息を漏らした。
流石に、雷の紋章が誰を意味しているのかを知らないエーリカではない。
だが、眼前に立つ男とも女とも言えない中性的な容姿の人物が、王妃だとはとても思えなかった。
「そ、それが何だと言うの。私にだって、」
「王が魔力を用いた紋章を贈るのは王妃だけだ。そんなことも知らずに、虎の威を借りようとしていたのか?」
「なっ!」
「俺はグレースと違って優しくないんだ。悪いが、お前に選択肢は与えない」
――不敬罪で身柄を拘束させてもらう。
飢えた獣のように低い声でそう言い放つと、ナギはエーリカの腕を軽く捻りあげるのであった。