7話『受け継ぐ者』

長い、夢を見ていたようだ。
黄昏に染まった波が、きらきらと光って眩しい。
ネモフィラの絨毯から、ゆっくりと身体を起こすと鈍い痛みがベヒモスの後頭部を襲った。

『夢じゃない』

か細い声が風に乗って、ベヒモスの鼓膜を震わせる。

「え?」
『貴方が見ていたのは夢じゃないのよ、ベヒモス。思い出して……』

酷く悲しそうなその声は、ベヒモスの心を波立たせた。
どこかで聞いたことのある、美しい音色。
この声を、自分は知っている。
くしゃり、とベヒモスの掌の下でネモフィラが歪む。

「…………チヨ?」
『……やっと、目が合いましたね』

ふふ、と笑ってこちらを見るのは、懐かしい顔で。
淡い光を放つ彼女がベヒモスの周りを嬉しそうに飛び回っていた。

「どうして、」

――どうして今まで忘れていたのだろう。

こんなにも焦がれていた女性のことを、どうして自分は忘れていたのだろうか。
情けなく涙が流れるのを拭いもせず、チヨに手を伸ばすと、彼女はそれに応えるように近付いてきた。

「どうして、貴女がここに」
『あの子が、連れてきてくれたのです』
「あの子?」
『そう。私と貴方を繋ぐ、あの子が』
「ここに、来ているのか?」

チヨはゆっくりと首を縦に頷かせた。
記憶が戻った今なら分かる。
浅葱色の髪に、チヨと同じ金色の瞳を持つ人物などベヒモスは一人しか知らない。

「そうか、あの子が……」
『ええ』
「気が付かなかったよ」
『そうでしょうね。だって貴方、記憶を封じる呪いが掛けられていたのですもの』

チヨの言葉にベヒモスは、目を丸くした。

「私に呪いが? そんな、馬鹿な……」
『嘘ではありません。魔力と魂だけの姿になったから分かるのです。貴方の身体には別人の魔力が残っている。それも昨日今日の名残じゃない。おかげで、目を合わせるのにこんなにも時間がかかってしまった』

チヨの手がベヒモスの頬に触れる。
だが、その手には温もりが感じられなかった。

『もっと早く、貴方に会いたかった』
「すまない」
『どうして、貴方が謝るのですか? 相変わらず、おかしな人ですね』

ころころ、と笑うチヨの声が、ベヒモスの胸を穿つ。
優しくて心地の良い温もりにもう一度、触れたかった。
抱きしめられない不甲斐なさに、また涙が溢れる。

『泣かないで。貴方のそんな顔が見たかったのではないのですから』

チヨの手が動く度、優しい風がベヒモスの頬を撫でた。
スン、と鼻を啜って、涙を拭う。
細君が満足そうに笑うのに釣られて、ベヒモスの顔から悲しみは消えた。

『記憶が戻った今なら、貴方には分かっているでしょう?』
「ああ。……行こうか?」
『ええ』

ベヒモスの応えに、チヨは静かに笑った。
黄昏の波間が、チヨの身体を通ってベヒモスを照らす。

『こんな形で、貴方の故郷を見られるとは思いもしませんでした』

いつか話した黄昏の波が、静かに揺れている。
真っ白な頬を夕日が照らすのを見ていると、いつか見たあの景色が重なった。

「君は消えるのか?」
『ええ、いずれは。けれど、あの子が真に幸せになる姿を見るまでは、彼岸には行けそうにありません』

そういう魔法を使ったのです、とチヨは言った。
慈愛に満ちた表情に、ベヒモスは言葉が詰まって、胸が痛かった。

◇ ◇ ◇

執務室に次から次へと運ばれてくる書類の数に、ナギは途中から思考を放棄した。
無心になって、ヴォルグが捺印した書類を封筒に入れる作業を繰り返す。

「……ねえ、ナギ」
「何だ」
「最近よく眠れていないでしょ?」
「…………そんなことねえ」
「隈、すごいよ?」

ここ、とヴォルグの指がナギの下瞼を撫でる。

「うおっ! な、何すんだよ、急に!」

わざわざ気配を殺してまですることか、とナギが抗議の声を上げる。
骨筋張ったヴォルグの指の感触に、つい先日、まだ日も高いうちにこの部屋でされたことを思い出しそうになって、グッと下唇を噛み締めた。

例の夜会から、既に一ヶ月ほど経っている。
ベルフェゴールから辱めを受けた記憶は、少しずつ色褪せていた。

――そこまでは、良い。

問題はその後の出来事だった。
ヴォルグの過保護っぷりに、ナギが嫌気を差し始めた頃。
ついうっかり流されて、彼に身体を許してしまったのである。
その所為か、ここ数日はヴォルグの目を真面に見ることが叶わず、動揺を悟られたくない一心で、少し距離を置いて接してきた。
それなのに、そんなナギの気持ちなどお構いなしで、不用意に近付いてきた眼前の魔王に薄っすらと殺意が顔を覗かせる。

「…………お前だって、他人のこと言えないだろ」

だが、この隈はここ数日の激務で、自室に戻ることは疎か、風呂にすら入れていないことが原因と言ってもおかしくはなかった。
無遠慮にナギの隣に腰を下ろしたヴォルグを睨めば、彼の顔にもくっきりと疲れが刻まれていた。
こんな風に近くでヴォルグを見たのは、あの日以来だ。
ちら、と横目で見た顔は酷いもので、普段の美しさが嘘のように、目は真っ赤に充血し、薄っすらと髭まで生えていた。

「僕は仮眠室で寝ているからいいんだよ。だけど、君はソファに寝転がっては見せるけど、眠っている様子がないじゃないか」
「それは、」

眠ると夢を見る。
ベルフェゴールの夢を。

記憶が薄まりつつあったが、合意だったとはいえ、本意ではない行為を強いられたのだ。
トラウマにならない方がおかしい。
チッ、とナギが脳裏にちらついた忌々しい記憶に舌打ちを零すのと、部屋がノックされたのはほぼ同時であった。

「ベヒモスです。少しよろしいでしょうか?」

夕刻にベヒモスが執務室を訪れるのは珍しい。
何かあったのだろうか、とナギが首を傾げれば、ヴォルグも同じように首を傾げながら「どうぞ」と短く返事を返した。
ティーセットを持ったベヒモスが、穏やかな表情を浮かべて部屋の中に入ってくる。
じっと、こちらを見つめる彼にどこか違和感を覚え、ナギは首を傾げた。

「どうした、庭師? 俺の顔に何か付いているか?」
「いや、なに……。随分とお疲れのようだ、と思ってな」

差し出されたカップを受け取ると、ヴォルグとナギは一息にそれを飲み干した。
甘いレモンティーの香りが咥内を満たす。喉から腹に流れ落ち、疲れを溶かしていく。

「ふぅ」

ほっこり、と腹を満たした紅茶に、ナギは満足そうに笑みを浮かべた。

「そうだ、ベヒモス。頼んでいた花は咲きそうかい?」
「ええ。庭の土が合っているのか、直に蕾が開きそうですよ」
「そうか。それは楽しみだな」

強張っていた頬が緩み、眦を和らげたヴォルグにベヒモスも嬉しそうに笑う。
おかわりは、と言われ、素直にカップを差し出した二人に、ベヒモスはティーポットを持ち上げた。

「……陛下、少しお話があるのですが」

淡いオレンジの紅茶が再びカップに注がれようとした、その時――。

「ぐっ!?」

ベヒモスが急に胸を押さえて倒れ込んだ。

「大丈夫か、ベヒモス!!」
「よせ、ヴォルグ!! 近付くな!」

ベヒモスから感じるはずのない、見知った気配を感じ取ってナギはヴォルグを制した。
ゆらり、と起き上がった彼の両目に毒々しい白薔薇が咲き誇っている。

「……白薔薇か」
「一体、何が起こっているんだ」
「てめぇは離れてろ。今のこいつは動く聖剣と思った方がいい」

ナギは、両目に薔薇が浮かんだ状態の人間を何度か見たことがあった。
突然、発狂したかのように暴れ出し、敵をなぎ倒していくその様は、味方にとっては頼もしかったが、魔族になった今は、それがどんなに恐ろしいことかよく分かっていた。
本来であれば、人間の物理攻撃など魔力には毛ほどの威力もない。だが、聖剣使いのジグに白薔薇の力を与えられた者は違う。
全身が白薔薇の力に覆われ、肌が触れただけでも魔族には致命的なダメージになる。

「クソ……っ。こんなところに来てまで、その技を見る羽目になるとは……!」
「あああああ!!」

赤く染まった目の中に浮かぶ白薔薇が、憎かった。
己の母を殺した男の目と同じ、赤い血の色。

「また、てめえか!! ジグ!!」

ソファのすぐ脇に立て掛けていた大剣を鞘から抜き、ベヒモスの拳を剣背で受ける。
ずしり、と体重の乗った拳が鈍く剣に響いた。

「……ヴォルグ、今すぐ部屋を出ろ!」
「でも!」
「良いから出ろ!! お前が居ると、集中出来ねえんだよ!!」

鋭く光った眼光に、ヴォルグはおとなしくナギの言に従った。
部屋の窓から中庭に飛び降りれば、それと同時に爆風が背を襲う。

「ナギ!!」
「へ、いきだっつの!!」

――キィン。

素手で殴られたはずなのに、金属のような反響音が部屋の中に響いて、ナギは舌打ちを零した。
ぎょろぎょろと忙しなく動く目が、ナギの神経を逆撫でする。
あの目が、嫌いだ。
こちらを見ているようで、見ていない、あの目が。
脳裏を掠めた忌々しい男の姿に、ナギは歯軋りした。

「だぁら!!!」

怒りを力に変えて、ベヒモスに剣を振るう。
剣背で殴りかかったにも関わらず、ベヒモスは難なくそれを受け止めた。
おまけに剣を掴まれてしまって、ぶんぶんと力任せに振り回される。

「く、このっ!!」

遠心力で足が宙に浮いたのを感じて、ナギは振り回されるまま彼の顎めがけて足を延ばす。
ドゴッ、と鈍い音が響くのと同時に、ベヒモスの手から大剣が離れた。

「ったく、ただの庭師じゃねえな。てめえ、一体何があったんだよ」
「……チ、ヨ」
「!?」
「すま、な、」

血の涙が、ベヒモスの眦を伝って頬を汚した。
ぽたり、と床に飛散したそれに、ナギはゆっくりと目を見開く。

「どうして、お前が母さんの名前を知ってるんだ……!」
「チヨ……」

すまない、とベヒモスがもう一度呟いた。
ブン、と風切音を纏った拳が己を狙うのに、ナギは身体が固まったように動けなかった。
当たれば顔の骨が砕ける。そう、分かっているのに、母の名前を呼ばれて動揺が隠せない。

「どこが『平気』なんだい? ちっとも、倒せてないじゃないか」

軽々と彼の拳を受け取ったのは、先程地上に降り立ったはずのヴォルグだった。
指一本でベヒモスの拳を止めて見せた彼を、ナギは虚ろな瞳で見つめる。

「ナギ?」
「お前、俺の母を知っているのか」
「ちょ、近付いたら駄目だと言ったのは君だろ!」

ベヒモスの拳を捕らえたヴォルグの横を通り過ぎ、ナギは彼の懐に潜り込んだ。
大剣を彼の首筋に添えれば、一筋の雫がナギの頬を濡らした。

「答えろ!! ベヒモス!!」

声を張り上げたナギに、ベヒモスは表情を歪めた。
困ったように笑う彼を見て、ナギの顔から色が消える。

「まさか、アンタ……」

ベヒモスの身体から、ふっと力が抜けた。
ぐらり、と傾いだ巨体を支えようとしたナギを制して、ヴォルグが彼の身体を受け止める。

「大丈夫かい?」
「あ、ああ。悪い。出過ぎた真似をした」
「君は僕の騎士なんだから、僕を守る義務がある。実際、命を助けてもらったんだ。謝る必要はないよ」
「……」
「ナギ?」

ゴミ箱をひっくり返したように、ごった返しになってしまった部屋の中で唯一無事だったヴォルグの椅子に、ベヒモスを座らせる。
銀髪に見え隠れする彼の瞼がヒクヒクと動くのに、ナギは唇を噛み締めた。

「……こいつに妻子は居るのか?」
「居なかったと思うけれど、どうして?」
「俺の母の名前を知っていた」
「それが、どうかしたのかい?」
「おかしいだろっ! どうして人間の名前をこいつが知っているんだよ!! それも、教会の上層部『聖子』の位に居た俺の母を!!」

今度はヴォルグの目が見開かれる番だった。
紅の宝玉が零れ落ちそうになるのを視界の端に収めながら、ナギは震える手をベヒモスに伸ばした。

母、チヨは昔から言っていた。
貴方の父は恐ろしく綺麗な人だった、と。今ならその言葉の意味がよく分かる。
恐ろしくて、強くて、綺麗な魔族。

触れた頬の温度は、冷たい。
母の柔らかな温もりを感じさせる頬とは正反対だ、とナギは思った。

「ずっと、会いたかったんだ」

ナギの肩が震える。
頬を伝う涙は、止むことを知らない雨のようにしとどに床を濡らした。

「親父っ……」

わあん、と崩れ落ちたナギの身体を、ヴォルグは優しく抱きとめる。

「思いっきり、泣けばいいさ」
「う、るさい」
「ふふ。そんな可愛い声で言われても、ちっとも怖くないよ」

自身を包むヴォルグの匂いに、ナギは沈んでいた気持ちが僅かばかりに浮き上がるのを感じた。

「ヴォルグ」
「ん?」
「ありがとな」
「どういたしまして」

背中を撫でるヴォルグの手が心地良い。
黄昏の波間が、二人の影を優しく照らしていた。