2話『若狼は夜明けに吠える』

明朝。
まだ、霧けぶる朝日の下に魔王は仁王立ちしていた。

「おい、まだ早いって言ってんだろ。日も昇りきってないうちに何格好つけて立ってんだ。見てるこっちが寒いっての!」

ぼふっと音を立ててヴォルグの顔に着弾したのは、ナギが部屋の中から投げて寄越した分厚いファーのコートだった。

「平気だよ。僕、体温低いから」
「そういう問題じゃねえの。そんなとこ突っ立っていたら、いくらお前でも体力奪われるって言ってんだよ。このバカ!」
「馬鹿って君ねぇ。仮にも主人に対して馬鹿って……」
「冬の早朝に防寒具も着ないで立ってる奴をバカと言わず、何て呼ぶんだよ」

からからと笑いながら窓を閉めたナギに、ヴォルグは唇を尖らせた。
昨日は優しかったのにな、と寝付くまで優しく撫でられた髪に、乱暴に指を絡ませる。

「朝餉だぞ、陛下。早く中に入れ」

紺色のコートを着たマモンが呼びに来るまで、ヴォルグは悶々と昨夜のことを思い出していたのであった。

三貴人が到着したのは、城の鐘が昼を伝えて少し過ぎた頃であった。
昨夜降り積もった雪の除雪作業に追われ、到着が遅れたらしい。
嘘か誠か分からない報告であったが、ヴォルグは雪塗れになった彼らを優しく迎え入れた。
アスモデウスとマリーに紅茶と軽い食事を持ってくるように頼むと、ナギを供に会議室へ三人を案内する。

「もうそんなに雪が?」
「我々が治める地域は王都に比べると気温が低いですからね。雪が残りやすく、この時期は屋敷を出るのも一苦労で……。遅くなってしまって申し訳ありません」

年少の務め、と言わんばかりにレヴィアタンが頭を垂れた。
ヴォルグはそれに苦笑を返すと、タオルで身体を拭うベルゼブブとベルフェゴールをちらと窺った。
二人とも、「災難でしたね」と互いの身体を濡らす雪を見て穏やかに談笑している。

「それでは、そろそろ本日の議題をお聞きいたしましょうか、陛下」

ヴォルグの視線に気が付いたのか、ベルフェゴールが席につきながら言った。

「そうだね。……ナギ、例のモノを」
「はい」

ナギは皆に一礼すると、ヴォルグの背後に聳え立つ漆色の書棚に手を伸ばす。
昨夜、皆の意見やマモンの調べを纏めたものをヴォルグと一緒に作っていたのだ。
分厚い書類の束に、三貴人の面々が表情を硬くするのが見なくても分かった。
だが、ただ一人。レヴィアタンだけがその書類の題目を見るや否や、勢い良くナギの腕を取った。

「これは……」

驚愕に目を見開く彼女に、ナギは口元を緩める。
にっこり、と微笑みを返せば、レヴィアタンは食い入るように書類を見つめた。
題目は『先王の殺害、その真相について』。
ベルゼブブとベルフェゴールの二人が息を飲む音が部屋に響いた。

「さて、まず最初のページを見てもらおうか」

ヴォルグの声に、皆が一斉に紙を捲る。
そこには、ベヒモスの証言が事細かに記されていた。
先王ヴァトラがどのような状態で発見されたのか、またその容疑者である先代「王の騎士《剣》」シュラウドが何者かに殺されたことまで、全て。
ふと、レヴィアタンがナギの手首を強く握った。
ベヒモスの証言が書かれていることで、兄が生きていることを知ったのだ。溢れそうになる涙を必死に堪え、こちらを見る彼女の瞳には強い光が宿っていた。

「ここに、シュラウドを殺したのは『白薔薇の印が施された剣』と書かれてある。これは、僕の剣であり、元・人間であるナギの証言によって『聖剣』の可能性が高いということが判明した。これは我らが敵対する人間組織『聖アリス教会』独自の武器であり、これを扱える人間は『聖人』と呼ばれる限られた者だけなのだそうだ」

ヴォルグの言に室内は静けさに覆われていた。
呼吸する音すらも極限まで小さくなった部屋の中に、若王の凛とした声が響き渡る。

「我々魔族の中に、奴らと通じている者が居るということになる」
「な!」
「そんな、まさか!」

過剰に反応したベルゼブブとベルフェゴールの二人に、ヴォルグは優しく微笑みを浮かべた。

「そんなこと、あるわけがないだろう? 僕も最初は嘘であってほしいと思った。だが、ベヒモスを含む僕の配下たちが命がけで調べたものだ。彼らが嘘を言っているとは到底思えない。そこで、だ」

ヴォルグはゆっくりとナギと顔を見合わせた。
己の迷いを振り払うように、こちらをまっすぐ見つめる王に、ナギは頷き返す。

「……君たち三貴人の中に、裏切り者が居ないか調べさせてもらいたい」
「何を仰るのです、陛下!! 我々がどうして貴方を裏切りましょうか!」
「ああ。君たちを疑っているわけではない。ただ、調べるならまず一番上の、王に次ぐ立場の者たちからと相場は決まっているだろう? 君たちの身が潔白であるということを僕に証明してほしいだけなんだ」

紅色の眼に、もう迷いはない。
爛々と燃え盛る怒りの炎を、ナギは静かに見守っていた。

「それでは、レヴィアタン様はこちらへ。ご婦人を同じ部屋で取り調べる訳には参りませんので」
「え、ええ……」

ナギに従って部屋を出ていくレヴィアタンを見て、ベルゼブブとベルフェゴールの二人の顔が歪んだ。

「じゃあ、まずは君からだ。ベルフェゴール」
「は、はい」
「服を脱いでくれるかな?」
「は?」
「ナギが言っていたんだよ。聖剣の加護を受けた者には身体のどこかに白薔薇の刺青が浮かび上がる、とね。君の身が潔白であるのであれば、僕の前で服を脱ぐくらい造作もないだろう?」

ひ、とベルフェゴールが引き攣った声を漏らす。
だが、次いで、のそのそと亀が歩を進めるがごとく緩慢な動作でもたつきながら衣服を脱ぎ始めた。
上半身が最後の一枚になったところで、ベルフェゴールの動きが止まった。
カタカタ、と指先は震え始め、息を吸う度に肺が痛んだ。助けを求めるようにベルゼブブの方を見るが、彼はその視線に気が付くと火の粉が振りかかるのを嫌ってベルフェゴールから視線を逸らした。

「どうした、ベルフェゴール。そんなに肌を晒したくないのか?」
「そうですよ、閣下。生娘ではないのですから、肌を晒して疑いが晴れるのであれば安いものではありませんか」

ヴォルグとベルゼブブの言葉に、ベルフェゴールは唇を噛み締めた。
何が悲しくて若造の前で服を脱がねばならないのか。どうして自分は素直に従ってしまったのか。
騎士であるナギが居ない今ならば、ベルゼブブと二人がかりで王を殺せるのではないのかという考えが、頭の中で蠢き始める。
ちら、とベルゼブブに視線を送るも、彼は先程から一度もこちらと目を合わせようとしない。
あまり見過ぎても、ヴォルグに気付かれる恐れがある。
どうしたものか、と最後の鎧であるシャツのボタンにゆっくりと指を掛けた。

「……ところで、ベル」
「何でしょう?」

ベルフェゴールのストリップショーを尻目に、ヴォルグは鈍く光るベルゼブブのモノクルに手を伸ばした。

「これは一体いつから着け始めたのかな?」
「え?」
「僕の記憶では、君が三貴人になって間もない頃はまだ着けていなかったと思うのだけれど?」

ごくり、とベルゼブブが生唾を飲み込む音がやけに大きく部屋の中に響いた。
ボタンを外していたはずのベルフェゴールも、ヴォルグの問いに驚いて身動きを止めている。

「これ、はその……父上の形見で……」
「先代のベルゼブブ殿が亡くなられたのは、我が父上が亡くなる少し前だったか?」
「は、はい」

ヴォルグは知っていた。
先代のベルゼブブは『千の目を持つ者』と呼ばれ、全てを見通す不思議な目を持っていたことを。そんな、目を持った者がモノクルなど着けるはずがない。

「本当に御父上の形見なのか?」
「……っ」

ベルゼブブの額に滲んだ冷汗が答えだった。
ヴォルグの手が、ベルゼブブの頬を打つ。
カシャン、と軽やかな音を立てて、モノクルが床に跳ねる。

「……面を上げよ、ベルゼブブ」
「チッ」
「上げよと言っているのだ」

ヴォルグの声にベルゼブブは、ゆらりと顔を上げた。
その目に宿る、白薔薇を妖しく光らせて、くつくつと喉を逸らして笑う。

「はははっ! 流石は陛下! 人を見る目がおありのようで!」
「残念だよ、ベル。この手で兄のように慕った貴方を斬る日が来ようとは」
「それはこちらのセリフですよ、陛下。……お覚悟を!!」

ベルゼブブはそう言って、懐から銀の短剣を取り出した。
その柄には、白薔薇の刻印。

「……聖剣か」
「そうです! 貴方には父王と同じ道を辿ってもらう!」

ヴォルグは咄嗟に、ベルゼブブから距離を取ろうとするが、部屋の狭さが災いした。
動いた拍子に倒れた椅子に足を取られ、胸元目掛けてベルゼブブの腕が迫ってくる。

「……っ!!」
「ヴォルグ!!」

――キィン。

金属のぶつかり合う音が、部屋の中に木霊した。
ぜえぜえと息も荒く、凶刃から主人の身を守ったナギの背中に、ヴォルグはほっと息を漏らす。

「ナギ」
「ったく! だから、俺も残ると言ったのに!」
「心配せずとも、私が仕留めようと思っていたところでしたのよ?」
「居るなら、もっと早く出てこい!」

アスモデウス、とナギが叫ぶや否や、彼女はゆらりとヴォルグの影の中から姿を現した。
妖艶な笑みを浮かべたかと思うと、未だヴォルグに敵意を剥き出しにする二人の男に腕を伸ばす。

「捕らえろ」

凛と咲く菫のように、美しい声が毒を吐き出す。
彼女の手から伸びた毒の霧は、容易く二人を縛り上げた。

「ご安心なさい。楽には死なせません。陛下を苦しめた分、ゆっくり、たっぷり、拷問してから殺してさしあげますとも」

アスモデウスの笑顔に、その場に居た誰もが恐怖に表情を染めた。
ずるずると二人を引き摺って部屋を出ていこうとする彼女を、遅れてやってきたレヴィアタンが引き留める。

「お待ちください、アスモデウス様」
「何かしら?」
「その男は、私に拷問させてください」

アスモデウスは瞬きを落とすと、二つ返事でベルフェゴールをレヴィアタンに差し出した。
レヴィアタンが、腰に下げていたレイピアをゆっくりと抜刀する。
そして、男の前に躍り出るや否や、その首を切断した。

「レヴィアタン様、何を――!!」

ナギが慌てて駆け寄るが、彼女は近付くな、と言わんばかりに鋭い眼差しでナギを制止した。

「直ぐには殺しません。私の剣は、海竜の牙から作られた特別、鋭利なもの。培養液に浸して、神経を繋いだまま自らの身体が拷問される様を見せてやるのです」
「貴様……!」

床に転がったベルフェゴールの首が、憎たらしそうにレヴィアタンを睨み上げる。
だが、彼女はその髪を無遠慮に引っ張り持ち上げると、彼の顔にレイピアを近付けた。

「誰が口を開いて良いと言った? 兄上を陥れ、姪に無体を働いた貴様は決して許さぬ。貴様の娘、息子。一族全員の四肢を捥いで、海竜の餌にしても、私の怒りは決して治まらんぞ」

ドスの効いた低いアルトの声が、ベルフェゴールの顔から色を奪っていく。
怒ったときの声は、ナギに似ているな、とどこか他人事のように美しく逞しい背中を、ヴォルグは黙って見送った。

しん、と静まり返った部屋の中に残ったのは、ヴォルグとナギの二人だけ。
先に口を開いたのは、意外にもナギの方だった。

「終わったな」
「ああ」

ふう、と息を吐き出して、椅子に腰を落ち着かせたヴォルグを見て、ナギは笑い声を上げる。

「何だい、そんなに笑って。僕の顔に何か付いているのかい?」
「ふふ、いや。お前でも、そんな顔をするんだな、と思って」
「そんな顔って?」
「一安心、って顔に書いてるんだよ、バァカ」

けらけらと笑いながら額を小突かれて、ヴォルグは苦笑した。
ナギの顔だって似たようなものなのに、と心の中で思うだけに留める。

「……少し外を歩こうぜ。今日あたり、例の花が綺麗に咲いていると思うんだ」

そう言って、中庭を覗いたナギに、ヴォルグは「仕方がないなぁ」と腰を上げるのであった。

「ナギ」
「んー??」

ゆっくりと伸びをしながら返事をしたナギは、振り返った先で満面の笑みを浮かべる魔王に首を傾げた。

「ありがとう」

珍しく素直に礼を述べられ、ナギは瞬きを繰り返す。

「な、なんだよ急に」
「急じゃないよ。君にはいつも本当に感謝しているんだ」

優しくて不器用な、僕の剣。
君と出会わなければ、きっと彼らを捕らえることを僕は諦めていたかもしれない。

口には出さずに胸の内で言葉を続ける。
ここ数日の刺々しい雰囲気が嘘のように穏やかな表情を浮かべるヴォルグに、ナギも口元を綻ばせた。

「よかったな」
「うん」

ベヒモスの回復を待つ間、ナギは花畑の管理を彼とヴォルグから任されていた。
すっかり見慣れた黄昏の波間が、ネモフィラの青と混ざり合って綺麗なコントラストを生んでいる。
そこに新たに加えられたシロツメクサがふわふわと白い花を揺らしていた。

「ねえ、さっきから何を作っているんだい?」

ずっと手元に集中しているナギが気になって、彼女の顔を覗き込めば、ふと頭に微かな重みを感じた。

「よし、出来たっ! やっぱり王には冠がねえとな!」

ひひ、と悪戯っ子のように笑うナギに、ヴォルグは目を丸くした。
背後で夕日がゆらゆらと波に吸い込まれていく。

「ははっ! 嬉しいなぁ。ありがとう、ナギ」
「どーいたしまして」

大袈裟なほど深く頭を垂れたナギに、ヴォルグは喉を逸らして笑った。

「実はね、三貴人の制度を廃止しようと思っているんだ」
「へえ」
「それから、魔力で魔王を決めるのも、僕で最後にしようと思っている」

ヴォルグの言葉に今度はナギが目を丸くする番だった。

「王制度を廃止するのか?」
「……ゆくゆくはね。僕は別に皆を支配したいわけじゃないから。共に国を良くしていきたい、ただそれだけなんだ」

照れくさそうに笑うヴォルグに釣られて、ナギも口元に弧を描く。
このままずっと、この王に寄り添っていたい。
二つ目の花冠を作ろうと、ナギは再びシロツメクサの中にしゃがみこんだ。

「――随分と可愛らしいごっこ遊びに興じているじゃないか」

ぞわり、と背筋を這う、冷たい男の声。

「ナギッ!」

ヴォルグの声が耳元に届くも、一瞬で間合いを詰められ、首に冷たい刃が触れるのが嫌でも分かった。

振り返るまでもない。

この世でナギが最も嫌う男が、己の腰を擁して、ヴォルグに剣を向けていた。
銀色の髪の隙間で、金色の双眼が挑発するように光っている。
ヴォルグがゆっくりと立ち上がり、こちらに足を踏み出すのを見て、ナギは叫んだ。

「来るな、[[rb:魔王 > ヴォルグ]]!」

ジグの持つ聖剣は魔族にとっては毒に等しい。
一太刀でも浴びてしまえば、ゆっくりと死へ誘われる。

「ふふ。このじゃじゃ馬をどうやって手懐けたのか興味がそそられるが、少し急いでいてな。その話は後日ゆっくりとしようではないか」
「離せっ!! このっ!」
「暴れるなよ。うっかり、お前の魔王陛下に攻撃されても文句は言えんぞ」

男が薄ら笑いを浮かべて、ヴォルグのすぐ脇へ斬撃を飛ばす。

「ジグッ!! てめえ!!」

ぶわり、と生ぬるい風が三人の肌を悪戯に撫でていく。

「彼女をどうするつもりだ」
「知れたこと。『生贄』のアリスがこちらにあれば、初代はそれを取り返そうとする。我々は彼が目覚めるのをずっと待っているのだよ」
「何を言って……」
「おっと、少々お喋りが過ぎたな。つまり、これは元々こちらのモノだから取り返しに来ただけだ。ではな、魔王陛下」
「待て!!」

ナギを抱えたまま、ジグは自分が斬った空間の裂け目へと身を投じた。

「ヴォルグ!!」

絶対にこちらへ来るな。
ナギはそう言って、下手くそな笑顔を浮かべながら消えた。