ナギと子どもたちが魔王城に戻ってきてからもうすぐ一週間が経と
初めこそ、突然現れた父親に戸惑っていた子どもたちだったが、
「ご機嫌麗しゅうございます。妃殿下」
「……いい加減、否定するのも面倒くさくなってきた」
ふう、と短く困惑のため息を漏らしたナギに、
妃だなんて柄ではない上に、戻ってきてからこっち、ヴォルグと
「十年近く離れていたんだ。
「それは違いますわ!」
卑屈な考えに呑まれそうになったナギを、
「陛下は一日だってナギ様のことを忘れたことはございません。
ナギに与えられた私室のソファは寝心地が良く、
横抱きで運ばれていることに不満を募らせるも、
連れてこられたのは、ヴォルグが仮眠室と呼んでいる書斎だった。
所狭しと並べられた書棚の迷路を川を遡る魚のような俊敏さで進ん
「ご覧くださいな」
そこには一枚の絵画が飾られていた。
マリーの視線を辿るように、己も視線を上げて、ナギは硬直した。
一体、いつの間に描かせたのか、
「……つーか、これってあの時の」
それはヴォルグに花冠を作ってやったときの光景と酷似していた。
どうしてよりによってこの場面を、と思いでもしないが、
「あいつ、何て言ってこれを描かせたんだ?」
「隣をご覧になれば、分かりますわよ」
「はあ?」
横抱きにされたままでは、
そして、マリーに言われた場所――恐る恐る近付いた絵画の側に、
「『我が最愛にして、唯一無二の剣』……馬鹿じゃねえの」
「陛下は毎日これを見ては、
「疑ったらダメだな。あの魔王は正真正銘の馬鹿だ」
「ふふっ。ナギ様ったらお顔が真っ赤でしてよ」
「もーっ! 余計なもんばっかり作らせるな! 止めろよ、お前ら!」
照れと怒りと、それから少しの愛しさに押し負けて唸ったナギに、
「ヴァトラ様が亡くなったときと同じか、
「それは、」
「分かっています。ヴォルグ様とナギ様が選んだことですもの。
ナギのいない十年間。
聞いてみたい気持ちと聞きたくない気持ちが交差して、
「誰かいるの?」
不意に、遠慮がちな声が聞こえてきて、ナギとマリーは息を潜めた
魔王と自分の血を分けた息子――
「あ、ごめんなさい。お話の邪魔して……」
「いや。もう終わったから平気だ。それより、何かあったのか?」
「魔王様に母さんを呼んできてくれないかって頼まれたんだけど」
「分かった。すぐ行く。先に戻ってろ」
ナギの静かな口調を訝しげながらも、
息子の背中が見えなくなるのを待って、その場に蹲る。
「マリー」
「はい、妃殿下」
「だから、それやめろって」
「ふふ。何ですか、ナギ様」
余計なこと、言うなよ。
こんな小さなことで舞い上がってしまうほど、
自分が彼を想っていたとき、
絵画を見上げながら睫毛を伏せたナギに、
「今度、ドレスを着ていただけるのであれば、
「分かった。それで手を打つ」
「ナギ様のそういう潔いところ、大好きですわ」
「これはヤケクソって言うんだよ」
何年経っても彼女には敵いそうにないと胸の内で毒吐きながら、
◇◇◇
視界の端で浅葱色が翻る。
記憶の中よりも随分と長く伸びたそれを鬱陶しそうに肩の後ろへ追
「何だよ」
「いや? ナギが居るなあと思って」
「……マリーといい、叔母上といい、
「そんなことはないよ。ああ、僕の勇者が帰ってきた、とか、
「頼まれても聞きたくねえっての。胸焼けしそうだ」
「ふふっ」
緋色の目が愉悦に歪む。
こういった表情をしているときのヴォルグが、
ドロドロに溶かした砂糖菓子よりも質が悪いからだ。
「それで? ソルとルナとは上手くやっていけそうか?」
「正直に言うと、
そういえば、先ほども自分のことは「母さん」
「まあ、俺の子だしなぁ」
「僕の子でもあるんだけどね!?」
「ははっ」
「ちょっと、真剣に悩んでいるのにあんまりじゃないか?」
「悪い悪い。だってよォ、
喉を逸らして笑った勇者に、魔王は苦虫を咬み殺した。
「仕方ないだろ。ずっと君だけを想っていたのに、
「……誰もそんなこと言ってないだろ」
「僕の子? って聞いたら怒ったじゃないか」
「ベルフェゴールの子ですって言った方が良かったのか?」
空気が凍てつく。
肺すらも凍ってしまうのではないかと思うほど、
「何か言った?」
「魔王陛下のお耳は、都合の悪いことが聞こえなくなるご様子で」
「それ以上煽るなら痛い目を見る覚悟をしなよ」
「アレが俺の中に残したものを、
「ナギッ!!」
ヴォルグの中で、一番思い出したくない光景は勿論、
常は穏やかな表情を浮かべている魔王が珍しくも額に青筋を浮かべ
「言っとくけどな、俺はあの後ちゃんと報告したぞ」
「何を?」
「月のモノが来たから、アレの子は妊娠しなかった、と」
「……」
「痛い目を見るのは、どっちだろうなァ?」
心底楽しいと言わんばかりに、
浅葱色の髪の隙間から覗く悪戯っ子のような視線を一身に浴びて、ヴォルグが降参だと唇を尖らせる。
「仕方ないだろ。ちょっとトラウマになるくらい、
「……ぐちゃぐちゃにされた俺の裸を見たのが?」
明け透けな物言いに、ヴォルグが「ぐ」
それを聞いたナギはと言えば、
「当ててやろうか」
「な、何をだい?」
「想像以上に貧相だったことに加えて、
限りなく正解に近い回答に、
「まあ、普通はそうだよな。あの頃の俺は、
いくら着飾ったところで、
それを知っているのはヴォルグと、
初めてが良かった、
うーうー、
あの手が、どういう風に触れたのか、鮮明に覚えている。
壊れ物でも扱うように、辿々しく触れて、離れて、を繰り返し、
戻ってきてから、真面に触れていない。
境界で衝動のままに軽いキスを交わして以来、
触れて、また離れてしまったら、と。
「そんなに見つめられると穴が開いてしまうよ」
いつか聞いたようなセリフを恥ずかしげもなく溢した眼前の男に、
「……誰がお前なんか見て楽しいんだよ」
「そうかな? これでもご婦人方の評判は良いんだよ?」
「へえ?」
「妬いてくれないのかい?」
誰が、ともう一度吐き捨てるように呟いて、ナギは立ち上がった。
長々と話し込んでしまったが、もうすぐ昼餉の時間である。
用件が分からずじまいだったが、
「……どこに行くの?」
「昼飯。お前も午後から遠方の貴族と謁見があるとか言ってたろ。
魔王の目が虚に揺らいだ。
え、と音に出したときには既にソファへ押し倒されていて、
「お、おい」
「ここにいて」
「いや、だから、昼飯を――」
「ここで食べればいいじゃないか」
「おい、ヴォルグ。お前、」
魔王は音もなく泣いていた。
緋色の目からぼたぼたと溢れ落ちる冷たいそれが、
「どこにも行かないでくれ」
今にも消えてしまいそうな声で、
涙と同じか、それ以上に冷たい指先がナギの輪郭を静かに辿る。
真昼間に何をしているんだ、という考えと、
「君に触れる口実が欲しい」
即物的な物言いに、
「もっと他に言い方あったろ」
思ったことがそのまま口を衝いて出てしまったが、
「じゃあ、お手本をみせておくれよ」
「お手本ー???」
「そ。君が先にやってみせて」
ナギの腕を引っ張って上体を起こさせながら、
これはバカにする気満々で聞いているやつだ、
「……後で語種にするとか無しだぞ」
「分かった」
「絶対だからな! おい、アスモデウス! お前、証人になれよ!」
「あら、やだ。一体いつからバレていたのかしら」
いつからも何も最初からヴォルグの影に潜んでいたくせによく言う
「じゃあ、
「いや、誰もそこまで求めてないけど」
「その方が楽しいじゃないの」
「えー……」
乗り気になったアスモデウスとは裏腹にムードもへったくれもない
けれども、後に引けば引いたで、
期待いっぱいの眼差しに若干引きながら、
「これが夢じゃないって、お前の手で直接触れて確かめてくれ」
なあ、と熱を帯びた声で、ヴォルグの耳元に息を吹き込む。
わざとらしく胸を押し付けてみたが、
数年経っても、
舌打ちしながら身体を離せば、
「あははははははッ! お、おまっ、マジかよ!!」
今日のヴォルグはナギの笑いのツボを的確に刺激してくる。
カラカラと噯気なく笑い飛ばされて初めて自分がバカにされている
「ち、ちがっ。こ、これは、ナギが急に耳元で喋るから!」
「あらやだ、魔王陛下ったら。存外ウブなのねぇ」
「違うってばー!!」
必死になっている姿が殊更「図星」を示していて、
「何? 何て仰いましたっけ魔王陛下は?」
「『お手本を見せておくれよ』と仰っていたわね」
「も、もうやめて。僕が悪かったから……!」
「はー! さいっこう! お前を口で言い負かす日が来るなんてな! 最高に気分が良いから、このまま抱かせてやるよ!――
「任せて」
ふふ、と妖艶な笑みを残して部屋を後にした臣下と、
「何だよ? 『俺に触る口実が欲しい』んだろ」
「い、言ったけど」
「だから、与えてやるってんだよ。その口実を。『俺』
「何か違う気がする」
「口じゃなくて手を動かせ。据え膳食わぬは?」
「男の恥――って、違う! ちょっと! 服を脱がそうとしないで!」
「生娘じゃあるまいし、今更何を恥ずかしがってんだ」
こちらが乗り気になれば、
「こういうのは、男から動くものじゃないかな?」
「……動いてないから、俺が発破かけてやったんだろ」
二人の視線がかち合って、互いの動きが止まる。
「キスから始めても?」
魔王の、魔王らしからぬセリフにはもう慣れたつもりだった。
けれど、それはあくまでつもりだったに過ぎないと、
「お好きなよ……んぅ」
最後まで言葉を紡ぐより先に、冷たい唇が音を飲み込んだ。
人間と違って体温の低い魔族の肌には未だに慣れない。
色を孕むたびに熱を帯びるナギの身体とは対照的に、
相反する二人の体温が、
「しつこ、い」
「ごめんね。君の唇が記憶と、ううん。それ以上に柔らかくて、
「ばか」
「うん」
触れるのを怖がっていた昨日までがバカみたいだった。
喘ぐ暇さえ惜しいと、隙間が開くことさえ許せないと、
「ナギ」
「なんだよ」
いよいよ本格的に触ります、といった段階になって初めて、
背中に触れる硬い革の感触に眉根を寄せていたナギだったが、
「触っても?」
今日のヴォルグはとことん調子が悪いらしい。
絶好調の自分とは大違いである。
常は饒舌に回る口が貧相な女一人も満足に口説けない様子に、
「お前、前はそんなに臆病じゃなかっただろ」
「それは、その……」
急に言葉を濁し、
「さては、俺以外に勃たなくなったな?」
「…………」
「ふうん?」
「べ、弁明させてくれる?」
「却下だ。このボケ」
ナギは衝動のままにヴォルグの身体を蹴り飛ばした。
次いで、彼が起き上がるより先に、
「俺以外に試してみて勃たなかったから、
「う、うぅ」
「なぁにが『我が最愛』だ、クソボケ。
ドスの効いた声に、ヴォルグは答えない代わりに身を縮こませた。
今のナギに何を言っても火に油なのは目に見て間違いないが、
せめてもの反抗に、と口を開いては閉じ、を繰り返してみるも「
「随分とプラトニックな関係を望まれるな、と思っていたら、
「うっ」
「何人だ?」
「え、」
「何人試した」
そこまで聞きたがるものなのか、と目を白黒させて、
夕暮れの波間の空によく似た金色が淡く光っている。
ともすれば、泣くのではないかと不安を抱かせる頼りない輝きに、
「ご、五人です」
「今もまだ囲ってんのか」
「まさか! ちょっと試しただけで、本気になんて、」
ゴッと鈍い音が額から聞こえた。
ナギの頭突きがヴォルグのそれにクリーンヒットしたのである。
「当たり前だ。――俺以外を愛してみろ。お前の前で、
これが普通のご婦人であれば、恨み節の効いた冗談だな、
けれど、ナギの場合は冗談で済まされない。
――こういうところだ。
ヴォルグは、
こういう裏表のないナギだからこそ、
「もうしない」
「は? 何、次は見つからないようにしますみたいな面してんだ。
「だから、もうしないってば。その必要もないし」
よいしょ、
「
「はー?! アストライア様とかいますけどー!!」
「今、母上の名前出す? 一瞬で萎えた!!」
「先に萎えるようなこと言っておいて、何を被害者ぶってんだ!!
「だから、ごめんって」
「もっと誠意を見せろ」
「例えば?」
答えを知っているくせに、
「もういい。一生、右手の世話になってろ」
「え、ちょ、待ってよ」
「知らん」
ごめんって、冗談だよ。
立ち上がろうとするナギを何とか押さえつけて、
すわ、また頭突きかと身構えたヴォルグを襲ったのは、
「焦らされるの嫌いだって知ってんだろ」
掠れた声が「早く」と告げたのを合図に、