触れて、確かめて - 2/2

 ナギと子どもたちが魔王城に戻ってきてからもうすぐ一週間が経とうとしていた。
 初めこそ、突然現れた父親に戸惑っていた子どもたちだったが、数日も過ごせば少しは打ち解けたようで、今ではわが家のように魔王城の中や庭園を駆け巡っている姿を見かけることが増えた。

「ご機嫌麗しゅうございます。妃殿下」
「……いい加減、否定するのも面倒くさくなってきた」

 ふう、と短く困惑のため息を漏らしたナギに、マリーの口角が上がる。
 妃だなんて柄ではない上に、戻ってきてからこっち、ヴォルグとそういった甘い雰囲気になったことは一度たりともなかった。

「十年近く離れていたんだ。俺のことなんてどうでも良くなったんだろ」
「それは違いますわ!」

 卑屈な考えに呑まれそうになったナギを、マリーは全力で否定した。

「陛下は一日だってナギ様のことを忘れたことはございません。こちらへ来てくださいまし!」

 ナギに与えられた私室のソファは寝心地が良く、彼女はそこに横へなるのが通例だった。このときも、だらしなく寝転びながらマリーの応対をしていたわけだが、流石は魔族。ナギが有無を答えるより先に彼女の身体を持ち上げて歩みを進めてしまう。
 横抱きで運ばれていることに不満を募らせるも、ここで下手に騒げば、好奇心旺盛な我が子に見つかりかねないことを察し、大人しくされるがままになる。

 連れてこられたのは、ヴォルグが仮眠室と呼んでいる書斎だった。
 所狭しと並べられた書棚の迷路を川を遡る魚のような俊敏さで進んだマリーが足を止めて、視線を持ち上げる。

「ご覧くださいな」

 そこには一枚の絵画が飾られていた。
 マリーの視線を辿るように、己も視線を上げて、ナギは硬直した。
 一体、いつの間に描かせたのか、夕暮れの中で花を積んでいるナギの姿が額縁の中に収まっている。

「……つーか、これってあの時の」

 それはヴォルグに花冠を作ってやったときの光景と酷似していた。
 どうしてよりによってこの場面を、と思いでもしないが、未だに己を抱えたままのマリーが満足そうにしているのを見て、また首を傾げる。

「あいつ、何て言ってこれを描かせたんだ?」
「隣をご覧になれば、分かりますわよ」
「はあ?」

 横抱きにされたままでは、見えにくいと抗議するようにマリーの鎖骨を肘で突けば、彼女は漸くナギを解放した。
 そして、マリーに言われた場所――恐る恐る近付いた絵画の側に、小さなプレートが設置されていることに気付く。

「『我が最愛にして、唯一無二の剣』……馬鹿じゃねえの」
「陛下は毎日これを見ては、恋しいと言わんばかりに微笑まれておりました」
「疑ったらダメだな。あの魔王は正真正銘の馬鹿だ」
「ふふっ。ナギ様ったらお顔が真っ赤でしてよ」
「もーっ! 余計なもんばっかり作らせるな! 止めろよ、お前ら!」

 照れと怒りと、それから少しの愛しさに押し負けて唸ったナギに、マリーはますます頰を緩めた。

「ヴァトラ様が亡くなったときと同じか、それ以上に荒んでいた陛下を止めることなど出来るわけもないでしょうに」
「それは、」
「分かっています。ヴォルグ様とナギ様が選んだことですもの。我ら一同、口を挟む余地はありません。ですが、あの方の隣に並び立つことを許されたのは貴女だけでしたから……

 ナギのいない十年間。ヴォルグは一体どんな気持ちで過ごしてきたのだろう。
 聞いてみたい気持ちと聞きたくない気持ちが交差して、頭の中がぐちゃぐちゃになる。

「誰かいるの?」

 不意に、遠慮がちな声が聞こえてきて、ナギとマリーは息を潜めた
 魔王と自分の血を分けた息子――ソルが申し訳なさそうな顔で書斎の中に入ってくる。

「あ、ごめんなさい。お話の邪魔して……」
「いや。もう終わったから平気だ。それより、何かあったのか?」
「魔王様に母さんを呼んできてくれないかって頼まれたんだけど」
「分かった。すぐ行く。先に戻ってろ」

 ナギの静かな口調を訝しげながらも、ソルは言われた通りに来た道を戻っていった。
 息子の背中が見えなくなるのを待って、その場に蹲る。

「マリー」
「はい、妃殿下」
「だから、それやめろって」
「ふふ。何ですか、ナギ様」

 余計なこと、言うなよ。

 こんな小さなことで舞い上がってしまうほど、己は女々しかっただろうか。
 自分が彼を想っていたとき、彼もまた自分を想っていてくれたのかもしれないと知って、胸がいっぱいになった。気を抜けば今にも涙が溢れてしまいそうな有り様だ。
 絵画を見上げながら睫毛を伏せたナギに、マリーが優しい笑みを浮かべる。

「今度、ドレスを着ていただけるのであれば、喜んで口を噤みましょう」
「分かった。それで手を打つ」
「ナギ様のそういう潔いところ、大好きですわ」
「これはヤケクソって言うんだよ」

 何年経っても彼女には敵いそうにないと胸の内で毒吐きながら、書斎の扉を乱暴に閉めるナギであった。

◇◇◇

 視界の端で浅葱色が翻る。

 記憶の中よりも随分と長く伸びたそれを鬱陶しそうに肩の後ろへ追いやりながら、不機嫌な表情を貼り付けたナギが斜向かいに着席する様をヴォルグは楽しそうに見守った。

「何だよ」
「いや? ナギが居るなあと思って」
「……マリーといい、叔母上といい、口を開けばそれしか言うことがねえのか」
「そんなことはないよ。ああ、僕の勇者が帰ってきた、とか、このかわいい双子は僕の子どもたちなのか、とか、君が望むままに欲しい言葉を贈ろうか?」
「頼まれても聞きたくねえっての。胸焼けしそうだ」
「ふふっ」

 緋色の目が愉悦に歪む。
 こういった表情をしているときのヴォルグが、ナギは少し苦手だった。
 ドロドロに溶かした砂糖菓子よりも質が悪いからだ。

「それで? ソルとルナとは上手くやっていけそうか?」
「正直に言うと、僕の方はもうベロベロに甘やかす準備が整っているんだけど、彼らの方が警戒心を解いてくれなくて」

 そういえば、先ほども自分のことは「母さん」と呼んでいたソルだったが、ヴォルグのことは「魔王様」とどこか他人行儀だったな、とナギは思案を燻らせた。

「まあ、俺の子だしなぁ」
「僕の子でもあるんだけどね!?」
「ははっ」
「ちょっと、真剣に悩んでいるのにあんまりじゃないか?」
「悪い悪い。だってよォ、少し前まで復讐のことしか眼中にないって顔してた魔王陛下が子ども二人に手を焼いてるのがおかしくって」

 喉を逸らして笑った勇者に、魔王は苦虫を咬み殺した。

「仕方ないだろ。ずっと君だけを想っていたのに、戻ってきたら僕の子どもです認知してくださいってな感じで双子を見せられて、動揺しない方がおかしいよ」
「……誰もそんなこと言ってないだろ」
「僕の子? って聞いたら怒ったじゃないか」
「ベルフェゴールの子ですって言った方が良かったのか?」

 空気が凍てつく。
 肺すらも凍ってしまうのではないかと思うほど、ひりついた空間にナギは「ハッ」と鼻で笑うのがやっとだった。

「何か言った?」
「魔王陛下のお耳は、都合の悪いことが聞こえなくなるご様子で」
「それ以上煽るなら痛い目を見る覚悟をしなよ」
「アレが俺の中に残したものを、お前が手ずから掻き出したことも忘れたっていうなら、ご自由にどうぞ?」
「ナギッ!!」

 ヴォルグの中で、一番思い出したくない光景は勿論、父王が死んだ日の出来事だった。だが、次点で嫌な記憶に数えられているそれは無謀にもハニートラップを仕掛けて戻ってきたナギの悲惨な姿だった。好き勝手に食い散らかされた彼女の身体に残ったベルフェゴールの痕跡を思い出すだけで、腑が煮えそうなるほどの怒りを覚える。
 常は穏やかな表情を浮かべている魔王が珍しくも額に青筋を浮かべ、獣のように息を荒げている姿に、ナギが肩を竦めて苦笑した。

「言っとくけどな、俺はあの後ちゃんと報告したぞ」
「何を?」
「月のモノが来たから、アレの子は妊娠しなかった、と」
「……」
「痛い目を見るのは、どっちだろうなァ?」

 心底楽しいと言わんばかりに、金色の目が愉悦の色を深く滲ませた。
 浅葱色の髪の隙間から覗く悪戯っ子のような視線を一身に浴びて、ヴォルグが降参だと唇を尖らせる。

「仕方ないだろ。ちょっとトラウマになるくらい、強烈だったんだよ」
「……ぐちゃぐちゃにされた俺の裸を見たのが?」

 明け透けな物言いに、ヴォルグが「ぐ」と魔王にあるまじき情けない声を漏らす。
 それを聞いたナギはと言えば、珍しいものでも見るように膝で肘を支えながら頬杖をついて、ヴォルグをじっと凝視した。

「当ててやろうか」
「な、何をだい?」
「想像以上に貧相だったことに加えて、アレが食い散らかした跡を見て気分が悪くなったんだろ」

 限りなく正解に近い回答に、不自然な速さでナギから視線を外したヴォルグに、ナギは「マジかよ!」と年甲斐もなく大声を上げて笑った。

「まあ、普通はそうだよな。あの頃の俺は、ガリガリだったわけだし? 胸もなしよりのありって感じで、一見すると男と相違なかった。欲情できるやつの方が少ねえよ。なあ、魔王陛下?」

 いくら着飾ったところで、ナギの身体はお世辞にも女というには貧相だった。
 それを知っているのはヴォルグと、忌々しいことにベルフェゴールの二人だけである。
 初めてが良かった、などと執着心の強い童貞のような気持ちを自分が持ち合わせていたことにも驚いたし、何より一番に信を置いていた配下にそんな思いを抱いてしまった自分にどうしたら良いものか分からず、その結果手ずから後処理を施すという謎の行動に走ってしまったわけだが、今となればナギのことをきちんと意識したのはあのときだったのかもしれない。

 うーうー、とまるで生まれたての獣が親に甘えるような何とも言えない声で呻くヴォルグの姿をニマニマしながら眺めながら、ナギは彼の掌に視線を遣った。

 あの手が、どういう風に触れたのか、鮮明に覚えている。

 壊れ物でも扱うように、辿々しく触れて、離れて、を繰り返し、どちらの肌か分からないほど混ざりあって一つに溶けてしまいそうだったのに、二人は別々の道を歩むしかなかった。
 戻ってきてから、真面に触れていない。
 境界で衝動のままに軽いキスを交わして以来、あの夜を思い出しては互いに怯えていた。
 触れて、また離れてしまったら、と。

「そんなに見つめられると穴が開いてしまうよ」

 いつか聞いたようなセリフを恥ずかしげもなく溢した眼前の男に、頰に熱が上った。

「……誰がお前なんか見て楽しいんだよ」
「そうかな? これでもご婦人方の評判は良いんだよ?」
「へえ?」
「妬いてくれないのかい?」

 誰が、ともう一度吐き捨てるように呟いて、ナギは立ち上がった。
 長々と話し込んでしまったが、もうすぐ昼餉の時間である。
 用件が分からずじまいだったが、自分と違ってヴォルグは午後も多忙な身だ。彼の職務を邪魔するわけにも行かないし、この居心地の悪い空間から早く立ち去りたいという思いもあった。

「……どこに行くの?」
「昼飯。お前も午後から遠方の貴族と謁見があるとか言ってたろ。邪魔したな」

 魔王の目が虚に揺らいだ。
 え、と音に出したときには既にソファへ押し倒されていて、瞑目するのがやっとだった。

「お、おい」
「ここにいて」
「いや、だから、昼飯を――」
「ここで食べればいいじゃないか」
「おい、ヴォルグ。お前、」

 魔王は音もなく泣いていた。
 緋色の目からぼたぼたと溢れ落ちる冷たいそれが、ナギの頰に伝う。

「どこにも行かないでくれ」

 今にも消えてしまいそうな声で、消え入りそうな表情でそんなことを宣うものだから、ナギは思わず「うん」と頷いてしまった。
 涙と同じか、それ以上に冷たい指先がナギの輪郭を静かに辿る。
 真昼間に何をしているんだ、という考えと、逃がさないと言わんばかりにこちらを見つめる緋色に、頭の中が混乱して身動きが取れない。

「君に触れる口実が欲しい」

 即物的な物言いに、ナギは嫌悪感を隠そうともせずにため息を吐いた。

「もっと他に言い方あったろ」

 思ったことがそのまま口を衝いて出てしまったが、それを聞いたヴォルグがふにゃりとだらしなく眉毛を下げるものだから、ますます苛立ちが募った。

「じゃあ、お手本をみせておくれよ」
「お手本ー???」
「そ。君が先にやってみせて」

 ナギの腕を引っ張って上体を起こさせながら、ヴォルグが不敵に微笑む。
 これはバカにする気満々で聞いているやつだ、と長くもないが短くもない時間ですっかり覚えてしまった彼の表情の変化に、生来の負けん気がうっかり顔を出してしまった。

「……後で語種にするとか無しだぞ」
「分かった」
「絶対だからな! おい、アスモデウス! お前、証人になれよ!」
「あら、やだ。一体いつからバレていたのかしら」

 いつからも何も最初からヴォルグの影に潜んでいたくせによく言うと二人揃って非難の目を向ければ、最古の悪魔は妖艶な微笑みを浮かべてそれを誤魔化した。

「じゃあ、魔王様とナギの誘い文句でどっちが良かったか採点すればいいのね
「いや、誰もそこまで求めてないけど」
「その方が楽しいじゃないの」
「えー……」

 乗り気になったアスモデウスとは裏腹にムードもへったくれもない空間にナギはうえ、と舌を出し、やる気が削がれたと抗議した。
 けれども、後に引けば引いたで、謂れのないことを吹聴される未来が待ち受けていることを知っていたので、仕方なしと胸の前で十字を切って、隣に座るヴォルグを見遣る。
 期待いっぱいの眼差しに若干引きながら、深く息を吸い込んで一拍置いた後に、彼の手を握った。

「これが夢じゃないって、お前の手で直接触れて確かめてくれ」

 なあ、と熱を帯びた声で、ヴォルグの耳元に息を吹き込む。
 わざとらしく胸を押し付けてみたが、あまり反応は乏しくなかった。
 数年経っても、成長が見られないナギの胸では魔王陛下の心臓はピクリとも動かないらしい。
 舌打ちしながら身体を離せば、首元まで真っ赤に染めて狼狽える魔王と目が合った。

「あははははははッ! お、おまっ、マジかよ!!」

 今日のヴォルグはナギの笑いのツボを的確に刺激してくる。
 カラカラと噯気なく笑い飛ばされて初めて自分がバカにされていることに気づいた魔王が慌てて否定に走るも既にあとの祭りであった

「ち、ちがっ。こ、これは、ナギが急に耳元で喋るから!」
「あらやだ、魔王陛下ったら。存外ウブなのねぇ」
「違うってばー!!」

 必死になっている姿が殊更「図星」を示していて、ナギはそれが甚くお気に召した様子だった。

「何? 何て仰いましたっけ魔王陛下は?」
「『お手本を見せておくれよ』と仰っていたわね」
「も、もうやめて。僕が悪かったから……!」
「はー! さいっこう! お前を口で言い負かす日が来るなんてな! 最高に気分が良いから、このまま抱かせてやるよ!――アスモデウス、人払いは任せたぞ」
「任せて」

 ふふ、と妖艶な笑みを残して部屋を後にした臣下と、腕に絡みついたナギの身体に今度はヴォルグが瞑目する番だった。

「何だよ? 『俺に触る口実が欲しい』んだろ」
「い、言ったけど」
「だから、与えてやるってんだよ。その口実を。『俺』の気分が良いから、抱いてもいいぜって」
「何か違う気がする」
「口じゃなくて手を動かせ。据え膳食わぬは?」
「男の恥――って、違う! ちょっと! 服を脱がそうとしないで!」
「生娘じゃあるまいし、今更何を恥ずかしがってんだ」

 こちらが乗り気になれば、後ろに下がるようにジリジリと逃げるヴォルグにナギの見た目通りに短い堪忍袋の尾が今にも切れんばかりに危険な音を立て始める。

「こういうのは、男から動くものじゃないかな?」
「……動いてないから、俺が発破かけてやったんだろ」

 二人の視線がかち合って、互いの動きが止まる。

「キスから始めても?」

 魔王の、魔王らしからぬセリフにはもう慣れたつもりだった。
 けれど、それはあくまでつもりだったに過ぎないと、子どもみたいな純粋な顔で甘酸っぱい言葉を平気で並べる眼前の男に、喉の奥が「きゅうっ」と変な音を奏でる。

「お好きなよ……んぅ」

 最後まで言葉を紡ぐより先に、冷たい唇が音を飲み込んだ。
 人間と違って体温の低い魔族の肌には未だに慣れない。
 色を孕むたびに熱を帯びるナギの身体とは対照的に、ヴォルグの身体は興奮すればするほど冷えていった。
 相反する二人の体温が、互いの間でぬるま湯のように渦巻いていく。

「しつこ、い」
「ごめんね。君の唇が記憶と、ううん。それ以上に柔らかくて、つい夢中に」
「ばか」
「うん」

 触れるのを怖がっていた昨日までがバカみたいだった。
 喘ぐ暇さえ惜しいと、隙間が開くことさえ許せないと、ボタンを乱雑に開け放って獣のように互いの肌へ噛み跡を残す。

「ナギ」
「なんだよ」

 いよいよ本格的に触ります、といった段階になって初めて、ヴォルグはナギを押し倒した。
 背中に触れる硬い革の感触に眉根を寄せていたナギだったが、体温と違って燃えるように熱い緋色が己を見下ろしていることに気付くと、ふるりと僅かばかりに身動いだ。

「触っても?」

 今日のヴォルグはとことん調子が悪いらしい。
 絶好調の自分とは大違いである。
 常は饒舌に回る口が貧相な女一人も満足に口説けない様子に、笑みを浮かべていたはずの勇者の目が鋭くなった。

「お前、前はそんなに臆病じゃなかっただろ」
「それは、その……」

 急に言葉を濁し、目を逸らしたヴォルグにナギが何かを閃いた顔つきになる。

「さては、俺以外に勃たなくなったな?」
「…………」
「ふうん?」
「べ、弁明させてくれる?」
「却下だ。このボケ」

 ナギは衝動のままにヴォルグの身体を蹴り飛ばした。
 次いで、彼が起き上がるより先に、男の割に薄い腹筋へ乱暴に腰を下ろす。

「俺以外に試してみて勃たなかったから、俺に触るのが怖かったわけだ」
「う、うぅ」
「なぁにが『我が最愛』だ、クソボケ。同族嫌悪の呪いが治った途端に、手当たり次第食い漁ったのか? あ゛?」

 ドスの効いた声に、ヴォルグは答えない代わりに身を縮こませた。
 今のナギに何を言っても火に油なのは目に見て間違いないが、何も言わないのもそれはそれで男として情けない次第である。
 せめてもの反抗に、と口を開いては閉じ、を繰り返してみるも「悪足掻きすんな」と虚しく一蹴されてしまった。

「随分とプラトニックな関係を望まれるな、と思っていたら、そうですか? ふうん? 触るのが怖かったんじゃなくて、自分の心配をしていたわけだ?」
「うっ」
「何人だ?」
「え、」
「何人試した」

 そこまで聞きたがるものなのか、と目を白黒させて、初めてナギと視線がかち合った。
 夕暮れの波間の空によく似た金色が淡く光っている。
 ともすれば、泣くのではないかと不安を抱かせる頼りない輝きに、ヴォルグは正直に白状することにした。

「ご、五人です」
「今もまだ囲ってんのか」
「まさか! ちょっと試しただけで、本気になんて、」

 ゴッと鈍い音が額から聞こえた。
 ナギの頭突きがヴォルグのそれにクリーンヒットしたのである。

「当たり前だ。――俺以外を愛してみろ。お前の前で、女と一族郎党、皆殺しにしてやる」

 これが普通のご婦人であれば、恨み節の効いた冗談だな、と笑える自信がある。
 けれど、ナギの場合は冗談で済まされない。それが出来る力と覚悟が彼女にはあった。

 ――こういうところだ。

 ヴォルグは、自分にぴたりと張り付いて離れなくなったナギの旋毛を眺めながらほくそ笑む。
 こういう裏表のないナギだからこそ、自分の心臓はがっしりと掴まれてしまったのだろう、と改めて思った。

「もうしない」
「は? 何、次は見つからないようにしますみたいな面してんだ。許すわけないだろ」
「だから、もうしないってば。その必要もないし」

 よいしょ、と薄い身体からは考えもつかないような膂力で起き上がったヴォルグは、向かい合うように座ってナギの背に回した腕に力を込めた。

君以外に僕のことを全部受け止めて愛してくれる人なんていないもの」
「はー?! アストライア様とかいますけどー!!」
「今、母上の名前出す? 一瞬で萎えた!!」
「先に萎えるようなこと言っておいて、何を被害者ぶってんだ!!
「だから、ごめんって」
「もっと誠意を見せろ」
「例えば?」

 答えを知っているくせに、あえて言わせようとしていることに気付いて、ナギの額に青筋が浮かぶ。

「もういい。一生、右手の世話になってろ」
「え、ちょ、待ってよ」
「知らん」

 ごめんって、冗談だよ。
 立ち上がろうとするナギを何とか押さえつけて、窺うように目線を上にすれば、ナギの怒った顔が降ってきた。
 すわ、また頭突きかと身構えたヴォルグを襲ったのは、柔らかい感触で。

「焦らされるの嫌いだって知ってんだろ」

 掠れた声が「早く」と告げたのを合図に、魔王は眼前に差し出された無防備な首筋に噛み付いた。