いい兄さんの日 2024 - 2/2

白波

――逃げられない。

はく、と息を吐き出したのと同時に塞がれた唇の感触に、シィナは目眩を覚えた。
上顎を掠めていく舌に、自分でも分かるほど大袈裟に肩が震える。

「やめて……っ」

息継ぎのために少しだけ距離が開いた隙を衝いて、筋肉質な上体を押し返す。

「やめていいのか」

囁くように耳元へ吹き込まれた言葉に、カッと身体が熱くなった。
当たり前だ、と怒鳴るべく顔を上げたシィナを、男が真っ直ぐな目で見下ろしていた。

「俺は、やめたくない」
「え、」

困惑のあまり固まってしまったシィナの身体を、男――クオンはきつく抱きしめる。
腕の中に閉じ込めるように、逃げ出すことは許さないと言わんばかりにぎゅう、と力強く抱きしめられて、シィナは「ひえ、」と間抜けな悲鳴を漏らすことしかできなかった。

「ここに、いてくれ」

そう言って降ってきた唇を、シィナはどこか他人事のように遠く感じながら、受け止めてしまった。

◇ ◇ ◇

「兄上!!」

朝から突撃してきた意外な人物に、シュラはくあ、と欠伸を噛み殺した。
独身寮はある程度の自由が効くとはいえ、まだ日も上らない時間帯の来客は初めてのことだ。

「何だよ、こんな朝早く。どうしたんだ?」

今にも泣き出しそうな顔で立つ妹のシィナに、片眉を持ち上げる。

「どうしよう……っ、私、」
「ちょ、待て待て! ここで泣くな!」

抱え込むように部屋の中へとシィナを通せば、嗚咽混じりに「どうしよう」を繰り返すだけになってしまった彼女に、シュラは後頭部を掻いた。
この春から第二小隊の副隊長に就任してからと言うもの、シィナは情緒が不安定になっているようだった。
今まで大家族の中で育ってきたのもあり、初めて与えられた個室に慣れないのだろうということは、時々訪ねてくる際にうっすらと感じていたが、今日の様子はどうやらそれとは異なるらしい。

「落ち着け。ほら、お前の好きなやつ淹れてやったから」
「……うん」
「ゆっくり飲めよ」
「ん」

シィナがお気に入りだと勝手に置いていった紅茶を出してやると、しゃくりながらも器用に飲み込んでいる。

「それで? 何があったんだ?」
「…………あの、ね」

温かい紅茶を飲んだことで少しだけ落ち着いたのか、シィナの頬を流れていた涙は勢いを失いつつあった。
けれども、言葉として吐き出すには気持ちの整理が追いつかないようで、もにょりと居心地悪そうに動いた唇に、シュラは苦笑を返す。

「大丈夫。ゆっくりでいい」
「うん」

シィナ(いもうと)は、昔から頭の回転が早いくせに、自分の気持ちを言葉にして吐き出すのが苦手だった。
飛び級で卒業してすぐ騎士団の新設部隊である第五小隊に招集を受けたかと思えば、第二小隊に異動後も異例の速さで副隊長を拝命した実力の持ち主であるというのに、蓋を開けてみれば、まだまだ生意気盛りの十代少女だ。
どうせまたくだらないことだろうなあ、と呑気に自分も紅茶を啜っていたシュラに、然してシィナは爆弾を投下した。

「……クオンと寝ちゃって、」
「ぶーっ!!」

思わず口の中に含んでいた紅茶を吹き出した。
おかげで机の上に広げていた報告書がびしょ濡れになってしまったが、そんなことに構っている余裕はない。

「はあ!?」
「分かってる! 分かってるから、その顔やめて!」
「い、いや、お前、何!? 何の報告されてるの、俺!」
「違うの! 続きがあるの!」
「…………言ってみろ」

あらぬ方向からぐさり、と脇腹を刺されたような感覚に、シュラは天井を仰いだ。
あの模様、虎に似てるな。
妹の口から溢れたとは思いたくない言葉の羅列が、気を抜けばぐるぐると頭を占領しようとするため、死んだ魚のような目をして木目の模様を動物に割り当てていく。

「に、逃げるときに、慌てて、た、から、その、間違えて」
「……何を」
「インナー」
「…………はあ」
「私のインナーを回収してきて欲しくて、」
「お前なあ、もう、はあ……」
「お、怒らないで。わ、私だって、何がどうしてこうなったか、その、」

もう今日は何を聞いても驚かない自信がある。
従兄弟と妹のあれそれを詳しく聞く気はこれっぽっちもないが、兄として一つだけ気になったことが思わず口を衝いて出た。

「合意だよな?」

五月の若葉、あるいは湖畔の碧。
兄弟の中で唯一、母と同じ色合いの双眸がシィナを射抜く。

「いやじゃ、なかった、よ?」
「……よし、任せろ」
「ちょ、ちょっと待って、兄上! 何する気なの!」
「何って、半殺しに決まってんだろ」
「どうして!?」
「お前、気が付いてないのか?」

酒の匂いがぷんぷんしてるんだよ。
にこり、と笑顔を浮かべた兄だったが、目だけが全く笑っていない。

シィナは自分がまだ飲酒可能な年齢に達していないことを、これほどまでに後悔したことはなかった。
東の国では十六歳を過ぎれば、酒が解禁される。
母親である桔梗が東の国出身なことに加え、かなりの酒豪であるため、シュラたちも自宅内ではそれなりに嗜む。
だが、中央の国と西の国では飲酒年齢が二十歳と制定されていた。

「わ、私は酔ってなかったもん……」
「お前が酔わないことは分かっている。問題は相手の方だ」
「…………」
「シィナ」
「だ、だって、私相手にあんなことしてくるなんて、お、思わなくて」
「ウェルテクスの家系は酒乱だから気をつけろって言われていただろ」
「で、でも、私だよ?」
「へえ? クオンはお前だと認識した上で迫ったのか?」
「~~っ!」

兄の意地悪な質問に、最初にキスをされたときのクオンの表情をありありと思い出してしまって、シィナはぐっ、と喉を鳴らした。

『なあ、こっち向けって』

さっきまで馬鹿笑いしていたくせに、急に耳朶を震わせた低い声に瞬きを返すことしかできなくて。
気が付いたときには、柔らかい感触が唇の上を撫でていったあとだった。

「……知らない、だって、名前、呼ばれてない、し」
「ふーん?」
「な、何」
「茹蛸みたいだな、と思って」
「兄上!!」
「はいはい。分かったよ。インナーを回収してくればいいんだろ」

反撃する気力も遂に無くなってしまったのか、紅茶の入ったマグカップを両手で持ちながらこくりと弱々しく頷いたシィナの頭を柔く撫で回す。
まだ早いから二度寝をしてからでもいいか、とシィナをベッドに押しやって、シュラはソファに背中から倒れ込んだ。

「悪いな。朝早くに」
「いや、俺はいいけど」
「確か『遺物と精霊術式の相性について』の本、いくつか持ってたよな、と思ってさ」
「あ~。どこやったっけなあ~。ちょっと待って。本棚ひっくり返せば出てくるはず」
「手伝うよ」
「ん。寝室にも本棚あるから、そっち見てくれ。俺大きい方の本棚を探してくる」
「ああ」

ラッキー。
そう叫ばなかった自分をシュラは内心で褒め称えた。
頭の中に響いた『……阿呆が』という蒼月の声には聞こえないふりを決め込む。

「……これか?」

懸念していたほど、事後の様子は感じ取れなかったことが幸いだった。
ただ乱雑に脱ぎ散らかされた様子のベッド周りに、ほっと胸を撫で下ろす。
懐からシィナが着て帰ってきてしまったクオンのインナーを取り出して、床に散らばっていたシィナの物と入れ替えようと屈み込んだシュラだったが、ベッド下に落ちていた『あるもの』にびしり、と身体を硬直させた。

「シュラ~? ごめん、もうちょっと掛かりそうなんだけど急ぎ~?」
「い、いや、急ぎじゃない。週末の提出書類だから!」
「そっか。んじゃ、待っててくれ」
「分かった」

廊下を挟んだ向こうの部屋から聞こえてきたクオンの声に、シュラは声が震えないように返事をするのがやっとだった。
だらだらと冷や汗が背中を流れていく。
淡いラベンダーに可愛らしいレースの装飾を施されたブラジャーが、ベッド下から顔を覗かせていたのである。

(……あのバカ!!)

インナーより何より大事なものを忘れて帰っているではないか。
これも回収するべきか、と考えて、シュラは眉間に皺を寄せた。
頼まれたのは、インナーだけで、正直シュラがこれを持ち帰るメリットはない。
むしろ、巻き込まれた被害者だ。

(いい加減見ていて、鬱陶しいと思っていたしな)

互いに意識しているのは明白なのに、決定的な言葉を告げることに躊躇し、身構えているようだった。
これが良い刺激になればいい。
シュラは敢えてそう判断すると、下着の回収は見送ることにした。

代わりにわざとらしく目立つ所に引っ張り出してやると、ひゅうと口笛を吹いた。

「クオン。お前、昨日は随分と良い夢が見れたみたいだなぁ」

芝居がかった口調でからかい混じりに呟けば、数冊の本を抱えながら姿を見せたクオンが「はあ?」と声を漏らした

「それ、女性物の下着じゃないのか?」
「んえ!?」
「ははっ、どっから声出してんだよ」
「いや、待てちが、は!? 何、なななんで!?」
「おいおい。まさかワンナイトラブってやつか?」
「ち、ちげーよ! いや、待て……。昨日は確か、シィナと、」

真っ赤になった顔を無防備に晒すあたり、この従兄弟も随分と自分に気を許してくれるようになったものだ、とシュラは僅かばかりに口元を綻ばせる。

「………………え、」

記憶の欠片をどうにか繋ぎ合わせたのか、シュラとベッドを交互に見遣ったかと思えば、それだけ呟いてクオンは動かなくなってしまった。

(これは、あれだな。うん)

「合意の上でのあれそれなら、俺はこのまま帰るんだが」
「…………」

きょど、とクオンの目線が不自然に泳いだのをシュラは見逃さなかった。

「クオン・ウェルテクス」
「は、はい!」
「もう一度聞く」

合意の上だな?

ここで頷かなければ殺される。
クオンは恐怖のあまり、力強く首を縦に振った。

「そうか。なら安心したよ。あとで、俺の部屋に来てくれ」
「……何? 俺、やっぱりボコボコにされる感じ?」
「違う。うじうじ悩んでいる妹に、さっさと告白して丸く収まってほしいだけだ」
「あ!?」
「手土産はそのブラジャーで頼む」
「い、いやいやいや! ちょっと待て、お前まさか本は口実!?」
「いや、借りてみたかったのは本当だ。――それから、三十分後くらいに来てくれると助かる」
「ちょ、待て! まだ行くなんて一言も……!」

鋭く穿つようなシュラの眼光に、クオンはひくり、と口元を引き攣らせた。

「来ないのは勝手だが、その場合、お前がうちの妹に無体を働いたとうっかり口を滑らせてしまうかもなあ」

誰に、と言わない辺りが姑息である。
十中八九、彼らの両親と自身の両親に告げ口されるだろうことが窺えて、クオンは頭を抱えた。

「それだけは勘弁してください」

早口で捲し立てたあとに土下座までしてみせた彼の姿に、シュラは笑みを噛み殺した。
くく、と喉の奥で笑い声を押し殺すと、従兄弟と視線を合わせる。

「お兄さんが一つアドバイスをしてやろう」
「……心底、嫌な予感しかしないんだけど」
「アイツ、お前の目が好きなんだってよ」
「ぎゃー!! 兄貴に何言ってんだ、あのバカ!!」

賑やかな従兄弟のリアクションに、溜飲が下がったシュラは満足そうに鼻を鳴らした。
窓の向こうでは、かすみ雲がゆらゆらと朝日に照らされながら踊っている。
淡い金色を纏ったその光景に、シュラの瞼には一人の少女が浮かんだ。

「…………他人に世話焼いてる暇なんかないんだよなぁ」

嬉しさを滲ませながら呟いたそれは、あたふたしているクオンには聞こえるはずもなく、シュラの右手に宿った龍の刺青が呆れたように短く明滅を繰り返していた。