ホロスコープの向こう

カレンダーにデカデカと書かれた花丸に、アンナは「これって……」と声を漏らした。

「アンナちゃんの任期終了まで、あと三日だからね。忘れないように書いておいたんだよ」

ボサボサの髪を掻き毟りながら、ホロが早口で答える。
覚えていたんですね、と喉元まで迫り上がってきた言葉は、声にならなかった。

ホロが、その日を忘れるわけがない。
漸くアンナから解放される日なのだから。

「先生が予定を覚えているなんて珍しい。明日は槍でも降るんじゃないですか」

冗談混じりにそう告げたアンナだったが、胸中穏やかではなかった。
結局、何も変わらなかった。
ホロにとって自分はいつまで経っても、手の掛かる子どものまま。
監査官という立場を私的に利用した煩わしい部下として、彼の心に暗い影を残しただけだ。

「……ホロ先生」
「ん~?」
「最後の日くらい、美味しいもの食べに連れて行ってくださいよ」

机の上に散らばった書類を片付けるフリをしながら、横目でホロの様子を窺う。
手元の書類に夢中で、アンナが近付いてきたことにも気付いていないらしい。

「ねえ、先生ってば。聞いてます?」

少し屈んで書類の上に影を落とす。
ホロはそこで初めて、アンナが拳一つ分ほどの距離まで肉薄していることに気付いた。

「……いつも言ってるでしょ。そういうのは若い子たちと行ってきなさい」
「先生と過ごす最後の夜なのに?」
「アンナちゃん」

嗜めるように名前を呼ばれて、アンナはグッと唇を引き結んだ。
普段の戯けた様子からは考えもつかないほど、真剣な光を宿した眼差しがアンナを射抜く。
けれど、アンナは怯まなかった。
なまじ子どもの頃から怒られ慣れてはいない。

ボサボサ頭から伸びる、赤褐色の髪へと指を絡めて、見せつけるようにゆっくりと口付けを施す。
ホロの表情は依然、硬いまま。
ぴくり、とも変わらない表情筋に、若干の焦りを募らせながら、アンナは「せんせい」と舌足らずな口調でホロを呼んだ。

「お願いします。最後に一度だけ、デートしてください」
「だから、」
「デートしてくれたら!」

――ホロ先生のこと、ちゃんと諦めます。

そう言ったあと、ホロの目が一瞬だけ揺らいだような気がした。

◇ ◇ ◇

アンナがホロに想いを告げたのは、彼の監査官に就いてから一ヶ月を過ぎた頃だった。
大きくなっても好きなままだったら考えてあげてもいいよ、等と子どもの頃に言われたことを間に受けて告白したにも関わらず、ホロは苦い顔で「ごめんね。シアンの娘はちょっと……」と言い放ったのだ。
ショックで三日は食事が喉を通らなかった。
振られたからと言って、仕事を疎かにするのは騎士としての矜持が許さない。
ジクジクと痛む胸を押さえつけながら業務を熟すアンナに、ホロは困ったように苦笑を浮かべていた。

「あれから一度だって、先生に『好き』って言わなかった私を褒めて欲しい」
「色々駄々漏れだったけどねぇ」
「それは、仕方ないじゃん。口に出していないものはセーフでしょ」
「屁理屈~~」
「何とでも仰い」

囃し立てる従姉妹のミアの額へ刺突をお見舞いすると、アンナは勢い良く酒を煽った。
ほとんど無理やり取り付けたデートの約束は明日に迫っている。

つまり、明日のデートを終えれば、アンナは二度とホロに会えなくなるのである。

「でもさ、本当に良いの? 先生と会えなくなっても、」
「良くない、けど。困らせたいわけじゃないし」
「アンナちゃん」
「二年も一緒に過ごせたんだもの。その思い出だけで充分って思わないと、」

視界が滲む。
酒の所為で、涙腺が普段より緩んでいるらしい。
一度決壊したそれは容易に止まるはずもなく、あとからあとから湧いては流れる滝のように、雫が頬を濡らした。

「うあ~~~! むり~~! だって、好きなんだもん! 諦めたくないよぉ~~!!」
「どうどう……」
「先生のバカ! ちょっとくらい女の子扱いしてくれたって良いじゃん! 何が『シアンの娘は無理』よ!! 父上、持ち出す前に私を見なさいよ!!」

店の迷惑も考えずにわんわん泣き叫ぶアンナの醜態に、ミアは「どうどう」と言いながら彼女の背中を摩ってやることしかできない。

「泣け泣け~。泣いてすっきりした頭で最後に玉砕しちゃえ~」
「ぎょっ、くさい、とか言わないでよぉおお!」
「んふふ。シュラくんとシィナは酒豪なのに、間に挟まれたアンナちゃんが酒乱なの、最高に面白いよね」
「ちょっと聞いてる、ミアちゃん!」
「聞いてる聞いてる」

せっかくの美人が涙と鼻水で台無しである。
従姉妹がここまで取り乱すのも珍しい。
余程、最初の告白で手酷く振られたことが堪えたようだ。
トラウマを植え付けた張本人を恨めしく思っていたミアだったが、不意に渦中のホロの魔力を感知して、辺りを見回した。

「あれ、ホロ先生じゃない」

口に出してから、彼が一人で店に来たのではないことを悟って、全身から血の気が引いていく。
ずび、とアンナが鼻水を啜った音がやけに大きく響いた。

ホロの隣には、深緑の髪を一つに結った女性が座っていたのだ。

「…………」
「ア、アンナちゃん?」

ミアの呼びかけに、アンナの応答はない。
じいっと食い入るように二人を見つめる彼女の姿に、ミアは内心「やっちまった」と後悔の念に苛まれていた。
視線の先では、仲睦まじく会話を弾ませるホロと女性の姿。
心臓を直接鷲掴みにされたかのような痛みが、アンナを襲う。

「…………バカみたい」
「え、」
「帰る。愚痴聞いてくれてありがと。これで払っといて」
「ちょ、ちょっと待って、アンナちゃん!!」
「ついてこないで!!」

ヒステリックに叫んだ瞬間、金色と視線がぶつかった。
女性の腰を擁したホロと目が合ったことで、治りかけていたはずの涙がまた溢れ出す。

そこから、どうやって部屋まで帰ったのか記憶がない。

大人って最低と悪態吐きながら、二日酔いで痛む頭をゆっくりと持ち上げる。
この二年間ですっかり馴染んだはずの自室も、ホロの居城であるかと思えば、途端に胸が鈍い痛みを訴え始めた。

「……ミアちゃんに悪いことしたな」

せっかく近くまで寄ったからと、ご飯に誘ってくれたのに。
殆ど愚痴に付き合わせたかと思えば、逃げるように帰ってきてしまった。

きっとあれは、アンナとデートをしないための作戦だったのだろう。
まんまと引っかかってしまった自分に嫌気が差す。
はあ、と深いため息を吐き出して、ベッドに逆戻りしたアンナの耳に、遠慮がちなノックが届いた。

「起きてる?」

今一番聞きたくない声が、無遠慮に耳朶を打つ。
返事の代わりに扉を睨みつければ、不審に思ったらしいホロが微かに開いた隙間から顔を見せた。

「何だ、起きてるじゃないか」
「……寝てます」
「ええ? 今日はデートするって君が言い出したんだろう?」
「…………ふふっ」
「アンナちゃん?」
「先生って、酷いですね。そんなに私のことが嫌いなら、直接言えばいいのに」
「え、」

アンナはベッドから上体を起こすと、鋭い視線をホロに向けた。

「私とミアちゃんが居るって知っていて、あの店に来たんでしょう」
「……」

燻んだ赤から覗く金色の双眸が瞬きを落とす。
子どもの頃から焦がれてやまないその視線を浴びても、今はちっとも嬉しくなかった。

「うん」
「…………ふ、」
「ごめん」
「っ、最低。――おかげで、すっぱり諦められそう。少し早いですけど、引き継ぎ作業したら、もう行きます」
「アンナちゃん」
「何です」
「僕のこと、好きでいてくれてありがとう」

ホロの前で泣くのだけは絶対に嫌だったのに。
滅多に見せない優しい笑顔でそんなことを言われてしまえば、もうダメだった。

殆ど反射で、ホロの身体を蹴り飛ばす。

「ホロさんなんて、だいっきらいです!!」

任期最終日、アンナは初恋の人と尊敬する恩師を一度に失ってしまった。

◇ ◇ ◇

アンナが所属している特務監査部隊は、減刑酌量の余地がある重罪人と暮らし、監視することを主な任務内容としている。
それ故、クラルテの聖騎士団本部へ戻ることが出来るのは半年に一度行われる定期報告会のみで、二年間の任期を終えない限りは自身の行動も制限されてしまうため、この部隊に配属されると出世は望めないと言われるほど過酷な任務でもあった。

「休暇届? アンナがか?」
「はい。任期を終えたので、暫く休みたいと」

ユタが読み上げたばかりの報告書をシアンに手渡す。
昨日、実家に顔を見せたときはいつもと変わらない様子だった。
気心を許せるホロが監視対象とは言え、疲れが出たのだろうと、妻に似て達筆なアンナの字の上から承認印を押さえつける。

「……あの、シアン」
「ん?」
「兄さんの後任なんだけれど」
「ああ。確か、監査官になってまだ二年の新人だったか?」
「担当を変えてくださいと泣きついてきたらしくて、」
「はあ!?」

珍しく声を荒げたシアン――若い頃は多々あったことだが――に、ユタも苦笑を返した。

「アイツまた何かやったのか……」
「それが、原因は監査官の方にあったみたいなの」
「ホロじゃなくてか?」
「ええ。兄さんの研究資料を誤って処分してしまったらしくて、」
「あ~~……」

それは監査官にも落ち度がある。
だが、ホロの執務机は一見すると、その殆どがゴミ山同然だった。
散らかり放題の机の上から必要な資料を集めるのは、同期のシアンはもちろん、彼の双子の妹であるユタでも困難を極める。

「兄さんの方からも、担当の変更を打診されてね。どうしたものかと思って……」
「そうだな。とりあえず、空いている監査官を、」
「それが今は誰も空きがないらしいの」
「…………アンナ以外、か?」
「ええ」
「承認印、押したんだが」
「それはこちらで、どうとでもできます」
「……本人を呼び出してみるか」

休暇届の受理だけで呼び出されるわけがないことをアンナはよく知っていた。
眉間に皺を寄せた父とその副官に、唇を噛み締める。

休暇届を人質に告げられたのは、数日前にこっ酷く振られた相手の監査官へ戻ってほしいという残酷な命令だった。

「嫌です」
「そこを何とか」
「大体、ホロ先生が普段からきちんと片付けないのがいけないんじゃないですか」
「それは、本当にそうなんだけどね。貴女以外、任務に就ける人が居ないのよ」

しおらしいユタの態度がまた、アンナの怒りを再熱させる。

「任期明けは一週間の休暇を推奨しているはずですよね? どうしてまた、」
「これが終わったら、休暇を一月伸ばしてやっても良い」
「……」
「どうだ? やってくれるか?」
「…………後任が決まるまで、なら」

ただし、条件が一つあります、とアンナは眼光を閃かせた。

「自宅から通わせてください」
「は?」
「住み込みは嫌です。この二年、散々な目に遭ったので」

半分嘘で、半分本当である。
ホロの生活力はほぼ皆無と言っていい。
この二年の間、アンナと午前中にやってくる学生諸氏が、家事の殆どを請け負っていたのだ。

「私はあくまで監査官です。家政婦紛いのことをする義理はありません」
「義理ってお前、子どもの頃から世話になってるだろ……」
「父上」
「な、何だよ」
「年頃の娘を自分と同じ歳の独身男が暮らす家に放り込む父親がどこにいると言うんです」
「い、いや、それは、でも任務だしな」

父親を説き伏せる娘の横顔が、彼女の母――桔梗に重なる。

「まったく、似なくて良いところばかり似るわねぇ……」

ぼそり、と呟いたユタの声は幸いにもウェルテクス親子には届かなかったようだ。
普段は少々様子のおかしい戦闘狂の科学者然としたホロだが、あれでネイヴェスの血を色濃く受け継いでいる。
取っ組み合いにでもなれば、彼を抑えることが出来るのはここに居るシアンと彼の妻、桔梗。それから、今まさに親子喧嘩真っ最中のアンナくらいのものだった。

「――お願いよ、アンナ。貴女以外に頼める人が居ないの」

ユタの懇願に、ウェルテクス特有の海を嵌め込んだような深い蒼が微かに揺らぐ。
ユタはその隙を見逃さなかった。

「近接で兄さんのことを抑えられるのはシアンと桔梗。それに貴女だけなの。反魔法の結界や手錠も兄さんにはあまり効力がないことはよく知っているでしょう?」

通常の囚人であれば反魔法の結界や手錠が枷となり、日常生活を送るのが精一杯となる。
だが、ホロは違った。
高い魔力耐性がある所為で、反魔法すらも軽減してしまうのだ。

「貴女なら何かあっても、上位精霊が居るし、ね?」
「…………そうですね」

何かあっても。
逆を言えば、何も起こるわけがない、と思っているから、ユタもそんな言葉を紡げるのだ。

結局、ユタの説得――断じて、シアンから提示された長期休暇に目が眩んだわけではない――に負け、アンナは渋々ホロの監査官を引き受けることになってしまった。

◇ ◇ ◇

せめてのも抵抗に二日だけ休ませてもらったアンナは、一週間ぶりに訪れたホロの館の前で仁王立ちしていた。
監査官が自分に戻ったと知ったらホロはどんな顔をするのだろう。
嫌そうな顔、一択しか思い浮かばなくて、任期中は気軽に潜ることが出来ていた門をきつく睨みつける。

『…………さっきから、何してるの?』

掠れた声に、アンナは肩を強張らせた。
来客応答用の水晶が淡く光っている。

(いつから見られてた!?)

羞恥で全身が燃えるように熱くなった。
返事も出来ないまま、時間だけが過ぎていく。

『ユタから話は聞いてる。とりあえず中に入ったら』

いつまで立っても動きを見せないアンナに痺れを切らしたのか、ホロがため息を吐くのが聞こえてきた。
自分ばかりが意識しているようでやるせない。

「お邪魔します」

今まで一度も使ったことの挨拶を、吐き捨てるように告げて、アンナは重い一歩を踏み出した。

「確かに誰でも良いから寄越してとは言ったよ。だけど、まさか君が来るなんて、」
「そうですね。私もまたここへ戻る羽目になるなんて思いもしませんでした」

自分たちのやり取りを遠巻きに見守っている魔導学園の学生たちの視線が痛い。

「一週間しか経ってないのに、どうしてこんなに汚く出来るんですか。私、ちゃんと片付けてから退去しましたよね?」

聞いていた報告よりもずっと酷い。
ちら、と後ろを振り返れば、学生たちが半泣きで首を横に振っていた。

「……気が付いたら、こうなってるんだよ」
「また魔法頼みで片付けようとして、失敗しただけでしょ」
「うぐ、」
「反魔法の中で魔法が使えないことを忘れるなんて、あなたくらいですよ」

呆れてものも言えない。
反魔法の結界の中では、下級魔法は勿論、回復魔法系なども扱えなくなる。
魔力適性の低い人が送るような生活を余儀なくされるのだった。

「お昼までには片付けてしまいましょう。ほら、ネイヴェスさんも手伝ってください」
「え、」
「何か?」
「いや、呼び方が、」

気になって、と尻すぼみになっていくホロに、アンナは瞬きを落とした。

「何です。今まで通りに呼んで欲しかったんですか」
「……」
「先に今まで通りを壊した私が言えた義理ではありませんが、それはあまりにも無神経が過ぎるのでは?」

ホロはアンナの言葉に何も答えなかった。

(……初めて言い負かせた)

喜んで良いものか微妙な気持ちを胸に抱いたまま、床に散らばった書類へとアンナが手を伸ばす。
その背中を、血の気が引いて真っ白な顔になったホロが静かに見つめていた。

◇ ◇ ◇

アンナとホロの出会いは、彼女が三歳の誕生日を迎えた日まで遡る。
まだ幼かったアンナは覚えていないかもしれないが、面会許可証を取り付けた――半ば強引に発行させたと後に聞いたときは肝を冷やした――シアンと桔梗夫妻が子どもたちを連れ、ホロを訪ねてきたのだ。
そのときは確か、生まれたばかりのシィナを見せたいという理由で二人は突然の来訪を告げた。
詳細は忘れてしまったが、何も娘の誕生日に重犯罪者の家を訪ねなくても、と苦言を呈したホロに、シアンはいつも通りの笑顔を見せた。

「うちのお姫様に頼まれたら断れなくてなあ」
「お姫様? シィナちゃんはまだ赤ちゃんでしょ」
「その上だよ。ほら、アンナ。お前が会いたがっていたホロさんだぞ」

シアンの目線を辿れば、彼の足元で小さな金色が煌めいた。

「は、初めまして」
「……初めまして」

金色の隙間から蒼が瞬く。
シアンから色彩を、顔立ちは桔梗のものを引き継いだのだろう。
二人の良いところ取りだなあ、とぼんやり面立ちの整った少女を見つめていれば、彼女の頬がじんわりと赤く色付いた。

「あ、あなたが、アンナの王子様ですか?」
「ん!?」
「ぶわはははっ! 本当に聞きやがった!」
「ちょっと! だから言ったじゃないですか! 変なこと教えないでって!」

困惑するホロを他所に、父親は大爆笑である。

「どういうことか、説明してもらおうか」
「―――――ってお前のこと気に入ったみたいでよ」

あの時、シアンは何と言ったのだったか。

意識がゆっくりと浮上する。
先ほどまで見ていたのは遠い過去――夢だったことに気付いて、ホロは緩く頭を振った。
瞼を刺す朝日の眩しさに、顔を顰める。
緩慢な動作で上体を起こすと、扉の向こうに人の気配を感じた。

「おはよう、アンナちゃん」
「……おはようございます。ネイヴェスさん」

アンナはあれからすっかり他人行儀である。
何とも言えない表情でこちらを見遣る彼女の視線から逃れるように、ホロは寝巻きを脱ぎ捨てた。

「ちょっと、」
「何?」
「着替えが済んでいないなら、言ってください」
「あ、ごめん。君だと気が緩んで、」
「……」

毛虫でも見るかのような顔で、眉間に深い皺を刻んだアンナが、乱暴にドアを閉める。

(すっかり嫌われちゃったなァ……)

そうするように仕向けたのはホロ自身だが、可愛がっていた節がある分、罪悪感がちくりと胸を刺した。
アンナを将来を考えればこそ、自分から早く解放してやりたかっただけなのに。

「はあ……」

扉の向こうから聞こえてくるため息にアンナはムッと唇を尖らせた。
態度が悪いことは自覚しているが、そんなあからさまにため息を吐かれると腹が立つ。
そもそも、ホロの生活態度が改善されていれば、アンナがここに戻ってくる必要もなかったのだ。
沸き上がる苛立ちを舌打ちへと変え、眼前の壁をきつく睨みつける。
すると、「あのぅ、アンナ様」と掠れた声に名前を呼ばれた。

「どうしたの?」
「朝食は、どうなさいますか?」

廊下の向こう、上からひょっこりと顔を出したのは、班長を務める学生――エメリヒである。
いつもは一緒に食べていたからか、恐らくアンナの分も準備してくれたのだろう。
既に自宅で軽く済ませていたため、どうしたものか、と答えに詰まっていたところで、背もたれにしていた扉が口を開く。

「わ、」
「っと、ごめん」

緩く腰を擁した腕と、頭上から降ってきた声に、先ほどまでとは別の意味で喉が詰まった。
薬品の匂いがアンナを優しく包み込む。
じわ、と頬が熱くなるのを止められなかった。

「す、すみません……! 不注意でした! エ、エマ! 朝も食べてきたから、私は結構です!!」

一息に捲し立て、脱兎の如く逃げ出したアンナの後ろ姿を、ホロは目を丸くして見送ることしか出来ない。

「僕、何かした?」
「今のは、先生が悪いです」
「えぇ~~……」
「後でちゃんと謝ってくださいよ。アンナ様にまで監査官を辞められたら、私たちの単位にも響くんで」
「最近の若人は手厳しいなァ」

ぽりぽりと無精髭を掻きながら目を細めた教師に倣って、エメリヒもじとりとした視線を彼に向けるのだった。

◇ ◇ ◇

ホロは現在、技術顧問という名で聖騎士団に籍を置きながら、特別講師として魔導学園の実習も請け負っていた。
減刑条件の一つとして、後進の養育を組み込まれたのである。

「今日は午後から雨が降るそうですから、資料室の窓は必ず閉めてくださいね」
「はーい」
「先生。本当に、くれぐれもお願いしますよ! 私たちの論文も一緒に保管しているんですから!」
「分かった分かった」

午後から実技試験があるとかで、エメリヒたちは一旦学園に戻らなければならないらしい。
二人きりになってしまう不安から顔を曇らせるアンナの横で、エメリヒたち学生が声を揃えてホロに詰め寄っていた。

「――ンナ様、アンナ様ってば!」
「んえ!? は、はい! 何でしょう!」
「先生だけだと不安なので、資料室の戸締りをお願いしてもいいでしょうか」
「え、ええ。分かったわ。雲行きが怪しくなったら、閉めておきます」
「助かります……! では、また明日!」

アンナの返答を聞くや否や、エメリヒたちは箒に跨って飛んでいってしまった。
最近の魔導学生たちの間では、ミアに憧れて箒や杖での飛翔魔法が流行っているらしい。
その背中に不遜な紫を思い浮かべてしまって、従姉妹の影響力の凄まじさを改めて感じさせられた。

「そこに居たままだと冷えるよ。早く戻っておいで」
「……はい」

声を掛けられただけで、今朝の接触を思い出して胸が疼く。
もうすっかり気持ちの整理はついたとばかり思っていたのに、ホロを前にすると途端に顔を覗かせるものだから、手に負えなかった。

「午後の予定をお聞きしても?」
「うーん、どうだったかな。今日は特に何も入ってなかったような気がするから、午前中の議論を纏めたり、頼まれていた武器の調整をしたり、気分によって進めようかと」
「分かりました。では、眠気覚ましにお茶でも淹れてきます」
「……」
「ネイヴェスさん?」
「あ、いや、うん。お願いするよ」
「はい」

ホロは時々、妙に真剣な眼差しをこちらに向けてくることがある。
あの金色に真正面から見つめられると、心が騒ついて落ち着かない。
そわそわと浮き足だった自分を諌めるように後ろ髪を撫で付け、アンナはキッチンへと足を向けた。

監査官として勤務していたときにも、二人きりで過ごしたことはある。
とは言っても、ホロは執務室に引き篭もりっきりで、その間に溜まった家事を済ませてしまうのがお決まりのパターンだ。
家事は請け負わないと宣言した手前、何をして隙を潰そうかとぼんやりした頭で紅茶の支度を進めていく。

「…………あの、」

お茶を運ぼうとトレイを持って振り返ったアンナを待ち受けていたのは、先ほど玄関前で別れたはずの家主で。
じいっとこちらを食い入るように見つめるホロの姿に、アンナは居心地悪く身動いだ。

「ネイヴェスさん?」
「――それ」
「?」
「耳慣れなくて不快だから、前の呼び方に戻してくれるかな」
「は?」

小首を傾げたアンナの視界を燻んだ赤が覆い隠す。
ホロが身体を屈めている所為で、髪がだらりと垂れてきたのだ。

「ラストネームは、あまり好きじゃないんだ」

鼻先が触れ合う。
少しでも動けば、唇が触れてしまいそうな距離だった。

突然のことに、指先一つ動かせなくなってしまったアンナを嘲るように、ホロがトレイを掠め取っていく。

「あ、」

漸く振り絞った声は、ホロの背中に届いたのかどうかさえも分からなかった。

◇ ◇ ◇

随分と、大人気ないことをした。
書面に目を通しながら、ホロは下唇を強く噛み締めた。

アンナの小さな仕返しは、思っていたよりも深くホロの心を抉っていたのである。
突き放した手前、強く言い返す権利などあるはずもない。
それなのに、彼女の口から紡がれるネイヴェス(家名)に、苛立ちが募った。

父の顔がチラついて、胃がむかむかとした痛みを訴え始める。
彼が義兄であるアギアを引き取ったのは、跡取りであるホロに何かあったときの保険としてだ。
実際、アギアがホロを庇って倒れたときも「ホロが無事ならそれでいい」とさえ宣った男である。

《ネイヴェス》という名前を聞く度に、非情な父親の顔を思い出してしまう。

「…………はあ」

名前など、書類上の記号でしかないといくら言い聞かせてみても、過去に受けた痛みがそう簡単に消えてくれるはずもない。
時折、顔を見せたかと思えば、灰の中で燻る小さな炎のように、心の柔らかいところを撫でていくのだ。

「くそッ」

娘と呼んでもおかしくはない年齢の子に取る態度ではなかった。
アンナの前だと、何もかも上手くいかない。

(……今更、格好つけてどうするんだ)

自分はあの子を手放したいのに。
そもそも、手放せると思っている時点で烏滸がましい。
まるで彼女が自分のものだと言わんばかりだ。

アンナがホロのものであったことなど、一度もないのに。

(さっきので、幻滅してくれたら儲けもんだな)

また、泣かせてしまったかもしれない。
笑っていてほしい、という願いとは裏腹に、アンナがホロに見せる表情は暗いものばかりだ。

良くない方向へと思考が引っ張られていく。

――ぱた。

――ぱたた。

窓を打つ小さな音に、視線を持ち上げれば、今のホロの気持ちを代弁するかのように真っ暗な雲が雨を従えてすぐそこまで迫っていた。

「まずい!」

資料室の窓は、風を通すために開けたままだ。
このままでは明日の朝一番で般若となったエメリヒと対峙しなければならない。

慌てて、階段を駆け上がれば、今まさに資料室から出てきたアンナと目が合った。

「あ、ごめん。窓、」
「はい。閉めておきました」
「助かったよ。僕、すっかり忘れていてさ」

あはは、と乾いた笑い声が、降り始めた雨音の合間を縫うように廊下へ反響した。

「論文が濡れなくて良かった。キリも良いし、夕食の準備でもしようか」
「はい。あの、ホ、ホロ先生」
「ん?」
「不躾な質問で恐縮なのですが、あそこに見えるのは、」
「…………やばい!」
「やっぱり、洗濯物ですよね!?」
「昨日からシーツ干しっぱなしだったの、忘れていた!!」

気温が低くなった所為で、まだ乾いていなかったシーツを干したままにしていたことをすっかり失念していた。
やばい、と繰り返すことしか出来なくなったホロを尻目に、アンナが廊下の奥に嵌め込まれた窓枠に足を掛ける。

「私が取り込んできます! 先生は、演習場の扉を開けてきてください!」
「ちょ、何をするつもりなんだい!? ここ二階だよ!?」
「いいから早く!!」

身軽さは桔梗にも負けないのではないだろうか。
ふわり、と重力を欠片も感じさせない軽やかさで二階から飛び降りたアンナを見送るや否や、ホロは言われた通り、演習場へと駆け込んだ。

乱暴な動作で扉を開け放つと、それを追うような形でびしょ濡れになったアンナが山盛りのシーツを持って姿を見せる。

「召喚術式なら魔力は必要ありませんよね?」
「あらかじめ、術式に魔力を付与しているものなら、ね」
「なら、大丈夫です――シシハヤテ!!」

ホロに確認を取ると、アンナは懐から呪符を取り出して叫んだ。
淡い光と共に、彼女が契約している上位精霊が顕現する。

『これはまた随分とめかし込んでいるご様子で』
「戯れている暇はないの。手早く乾かしてもらえる?」
『御意』

くつくつと喉を鳴らしながら笑うと、顔の上半分を鬼面で隠した青年のような姿をした精霊――シシハヤテは、どこからともなく羽団扇を取り出した。
軽く空気を撫でるように団扇を仰いだかと思うと、突風がシーツを攫っていく。
まるで生きているかのような動きで宙を舞うシーツに、ホロは目を見張った。

反魔法の中であるというのに、術者であるアンナは勿論、精霊にも負荷が掛かっている様子が見られない。

「……良いこと思いついちゃった」
「何か言いました?」
「ううん。何でもない」
「そう、ですか」
「シーツは彼に任せるとして、君もお風呂に入ってきたら?」
「え!?」
「いや、だってびしょ濡れじゃないか」
「それは、そうです、けど」

戸惑いを隠せない様子のアンナの腕を掴むと、ホロは問答無用で歩き始めた。

歳若い女性騎士に、風邪を引かせるわけにもいかない。
ただでさえ、元老院や上層部から風当たりの強いホロの元へと通える人材は貴重なのだ。
万が一、アンナが体調を崩せば、シアンを始め、ユタやエメリヒたちに何を言われるか、考えるだけで恐ろしかった。

そう頭の中で言い訳を繰り返していると、知らない間に洗面所の前まで辿り着いていた。

「じゃ、お先にどうぞ」
「でも、先生だって濡れているじゃありませんか」
「僕はそんなに濡れていないから大丈夫だよ」
「……」
「それこそ、君の精霊に頼んで乾かしてもらうっていう手もあるしね」
「それだと身体は冷えたままです」
「今日は一段と頑なだねぇ」

思わずため息が溢れ落ちる。
じい、とこちらを見つめたまま動かないアンナに、ここ数日の鬱憤がむくりと顔を擡げた。

「…………そんなに心配なら、一緒に入る?」

猫のように目を細めたホロに、アンナはぶるり、と身を震わせた。
握られたままの腕から伝わってくるホロの体温に、肌が粟立つ。

「なーんて、冗談、」
「先生が、いいなら」
「え!?」
「私は気にしません」
「うわ、ちょ、待て待て待て!!!!」

眼前でボタンに手をかけ始めたアンナに、ホロは慌てて背中を向けた。
どうやら、珍しく本気で焦っているらしい。
滅多に見ることの出来ないホロの姿に楽しくなってきたアンナは、調子に乗ってシャツまでも取っ払った。
上半身に檸檬色の下着しか身につけていない状態で、カラカラと笑い声を上げる。

「ふふっ、先生でも焦ることあるんですね」
「あ、たりまえだろ! 急に脱ぐな!」
「口調、崩れてますよ」
「これは、君が――!?」

文句を言おうと振り返ったのが、良くなかった。
初雪のように眩しい肌を、真正面で浴びてしまった。

「…………な、に、してっ」
「私、気付いたことがあるんです」
「いい加減に、」
「先生って、私のこと子ども扱いできなくなったから、突き放したんじゃないですか?」
「!?」

すっかり虚を突かれたホロは、後退った拍子に水滴で足を滑らせた。
ずるり、と嫌な感触の後に、眼前のアンナの方へと倒れ込んでしまう。

「ごめ、頭打ってない?」
「――っ」
「うわ!?」

咄嗟に左手で彼女の頭を受け止めた、までは良かったのだが、右手が吸い込まれた位置がよろしくなかった。
柔らかい果実の上に着地してしまったのである。
慌てて身を離そうとしたホロを、アンナは然して縫い留めた。
華奢な指先に捕えられて、これ以上粗相するわけにいかないホロは身体を固くすることしか出来ない。
なるべく彼女を視界に入れないように気を付けながら、何とか腕を引き剥がせないかと頭を回し始める。

「……先生」
「なにかな」
「こっち、見てください」
「見れるわけないだろ」
「んふふ、どうして?」
「分かって聞いてるよね、それ」
「だって、楽しくて」

狼狽える先生なんて、初めて見るんですもの。

笑顔のアンナは天使のように愛らしかったが、言動は悪魔そのものである。
つう、と無遠慮に首筋を撫でていった彼女の爪先を嫌でも視線で追ってしまう。

美しく弧を描いた桜色の唇に辿り着いたそれに、ホロの中で張り詰めていた糸が弾けた。

「ホロせんせ、」

鈴の音が鳴り響くよりも早く、それに噛みついた。

「んう……っ、」
「口、開けて」
「や、」

いやいやと首を横に振るアンナにお構いなしに口付けを繰り返す。
甘い吐息の合間を縫うように舌を絡めれば、その度にアンナの身体がびくびくと跳ねるのが可笑しかった。
あとはもう、なし崩しである。
冷たい床の上に体温が移るまで、身体中にキスを落とした。

水を吸って重くなった彼女の下衣も取っ払うと、流石に怖気付いたのか一瞬だけ、青の双眸が揺らいだように見えた。
けれど、それで止まってやれるほど、ホロは優しくない。
新雪に足跡を残すように、若く瑞々しい素肌へと唇を這わせた。

「せんせ、」
「なに」

震える身体とは裏腹に、アンナの表情は穏やかなものだ。
口元を綻ばせたかと思うと、いつにも増してボサボサなホロの髪に手を差し入れる。

「もう、お認めになっては?」

真っ直ぐにこちらを射抜く青に、ホロはゆっくりと瞬きを繰り返した。

「…………君が、好きだよ。これで、満足かい?」

ホロがそう言った途端、アンナはがばり、と上半身を起こして、彼に飛びついた。

「ええ! とっても!」
「……全く、君には驚かされてばかりだよ。初対面でも、僕のこと王子様ですか?とか聞いてくるような子だったし、」
「あれは、父上が、」
「?」
「『運命の王子様は、お前と同じ色を一つ持ってるんだよ』って、それで、」
「写真で見た僕のことを王子様だと思い込んでいたってこと?」
「でも、好きになったのは、もう少し大きくなってからですよ?」
「それは知ってる」
「んふふ」
「うわ、ちょっと、」

体重を預けてきたアンナに釣られて、ホロの身体も後ろに傾ぐ。
慌てて受け止めれば、彼女は何が嬉しいのか「くふくふ」と聞いたこともない不気味な笑い声を上げながら、擽ったそうに肩を揺らした。

「好きです」
「うん」
「先生は?」
「……さっき、言ったでしょ」
「何度でも聞きたいものなんです」
「負けが無くなったと分かった途端にこれだよ。やっぱり君はあの二人の血が濃いねぇ」
「褒め言葉として受け取っておきます」

アンナが笑う度に、彼女の髪が首筋を撫でていく。
その感触に、何とも言えない思いが胸を焦がして、ホロは「ぐっ」と唸り声を上げた。
今まで押さえてきた衝動がむくむくと大きくなっていくのが、自分でも分かる。

「アンナ」

余裕のない掠れた声が、喉を衝く。
不思議そうにこちらを見上げるアンナの唇を塞げば、青の双眸が驚きに開かれた。

「……あ、あの、っ」
「まさかとは思うけど、初めてだったりする?」

下着姿になっているから、肌に火が灯る様がいやに艶かしかった。
じわじわと赤く色づくアンナの白い肌――首筋に噛みつけば、「う、あ」とひっくり返った声が返ってくる。

「せ、せんせ、」
「僕の名前は『先生』じゃないんだけどなあ」
「〜〜っ」
「ほら、呼んでごらん」

そう言って楽しそうに細められたホロの目がぎらぎらと眩い光を放つのに、アンナはグッと奥歯を噛み締めた。

「ホロ、さんぅ、……ぁン!」
「――よくできました」

八重歯を見せ、子どものように笑ったかと思うと、息を奪うほどの激しい口付けがアンナを襲った。
唇を開けば、舌に蹂躙され、息継ぎもままならない。
思わずホロを睨めば、金色の中にゆらりと炎が宿る。

――キラキラしていて、綺麗。

始まりは、そんな小さなきっかけだった。
お星様みたいな瞳を宿した人。
彼の瞳に映ることが出来たら、いいなあ。

そう思っていた昔の自分に、アンナは笑みを向ける。
先生も、私のこと好きなんだって。

「ホロさん」

唇が離れたタイミングで、アンナは彼の名前を紡いだ。
獣のように獰猛な光を宿したホロのそれに、手を伸ばす。

「もう、逃げられませんよ」

物騒な笑顔を貼り付けたアンナに、ホロは瞬きを落とした。
似なくて良いところばかり、両親に似るらしい。

「それ、僕のセリフじゃない?」
「?」
「せっかく、任期開けたのに戻ってくるんだもんなあ」
「それは先生がだらしないからでしょう」
「ぐうの音も出ないね――もっと、だらしないことする?」
「え?」

アンナの返事も待たずに、ホロは彼女の身体を簡単に抱き上げた。
横抱き――所謂、お姫様抱っこである――の状態で、すたすたと歩き始めたホロに、アンナは目を白黒させることしか出来ない。

「泣いても縋っても、離してあげないから」

覚悟して。

満面の笑みでそう言ったホロの表情に、これから始まる夜が長いことをアンナは嫌でも思い知らされるのだった。