2話『呼び名』

やがて日も暮れた頃、ルーシェルにとっては見慣れた小屋に辿り着いた。
雲の上にアマネを優しく下ろし、空いた両手を頭上に掲げ、二回叩いてみせる。
すると、どこからともなく可愛らしい下級天使が二人、姿を見せた。

「お呼びですか?」

少し掠れたソプラノが二重奏で応える。

「ああ。ラム、すまないがコレの寝床を拵えてやってくれ。イルは俺が上に行っている間に回ってきた書類を部屋に持ってこい」

二人とも背丈は丁度アマネの胸元までだろうか。
じっと見上げてくる四つの銀の目にアマネは柔く微笑んだ。
ラム、と呼ばれた方は淡い桜色の長髪の持ち主で、一つに結ったそれが風に揺れ、美しい色合いに反射していた。温かそうな印象のラムとは対照的にイル、と呼ばれた方は、青空を思わせる爽やかな青の髪を短く切り揃え、きりりとした鋭い目が凛々しく光っていた。

「ラムと申します。ルーシェル様直属、位は十一級です」
「同じく、位は十一級。ルーシェル様側近が一人、イルでございます」

右手を胸に置きお辞儀する二人に倣い、アマネも同じようにお辞儀を返した。

「中級二位、アマネと申します。これから一年程こちらでお世話になる予定ですので、どうぞよろしくお願いします」

一通り挨拶が終わったのを見計らって、ルーシェルがまた軽く両手を叩いた。

「もういいか?  明け方までには終わらせたい仕事があるんだ。急ぎ支度しろ」
「かしこまりました」

部屋の中に消えていったルーシェルとイルを、唇を尖らせて見送っていると、ラムが急かすようにアマネの袖を引いてみせた。

「何です、あの態度は。感じの悪い!」
「お仕事が溜まっておられるので、少々機嫌が悪いだけです。さ、アマネ様はこちらへ」

そう言うとラムは鼻歌交じりに雲の道を歩いていく。歩く度に短いポニーテールが揺れるのを見て、幾分かアマネの心は落ち着きを取り戻した。
二つ程、雲の橋を渡って辿り着いた御所にアマネは目を剥いた。
次兄にあたるミカエルの御所とは比べ物にならないほど、大きな御所が目の前に現れたからである。

「……お、大きな御所ですね」
「はい。こちらには、ルーシェル様が嘗て堕天した際に引き連れていた悪魔の方々も住んでいらっしゃいますから」
「あ、悪魔ァ!?」

思わず声を荒げてしまい、アマネは咳払いで喉を整えた。天使の住処に悪魔がいるなど聞いたこともない。
恐る恐るといった風に、ラムに続いて中に入ると意外にも清浄な気しか感じられなかった。

「先日、洗礼を受けられましたので正確には『元』悪魔の皆様が住んでいらっしゃいます。まあ皆様、階級を上げたくて昇級試験の方にかかりっきりですので、一週間に一度休息の為にお戻りになられるくらいです」
「へえ……」

もう何を言われても驚く気がしないとアマネは思った。悪魔が住んでいる、その上全員が洗礼を受け天使になっているなど。驚き過ぎて笑いが込み上げてくるレベルである。
一階は元悪魔たちの部屋になっているらしく、アマネは二階の階段を登り、更に渡り廊下を歩いた奥の離れに案内された。
美しい金色の羽細工が施された支柱に思わず見惚れていると、ラムが笑う気配がした。

「この羽細工はですね、ルーシェル様が復帰なさった時に戒めとして切られた髪からお父様が創造されたものなんです」
「え……」
「ルーシェル様は悪趣味だ、と舌打ちされてましたけど。僕らは気に入っています」

白を包むように羽が巻きついているその様は、まるで抱かれているような気分になるのだとラムは恥ずかしそうに笑いながら言ってみせた。
天蓋の布と寝台のシーツを新しくすると、ラムは仕上げに小窓を開け、部屋を出て行った。
柔らかい寝台の上に仰向けで寝転がる。
真新しく変えた天蓋の布は金色で、さっきまで共にいたルーシェルを思わせた。
初めて会った憧れの兄は酷く気難しくて、けれどアマネがよく知る二人の兄たちに似た優しさを感じさせた。
父が何を思って彼に師事するよう言ったのか、その真意は分からない。
だが彼が天界に戻って来ても尚、寂しい目をしていることにアマネは少しだけ胸の痛みを覚えながら、ゆっくりと瞼を閉じた。

◇ ◇ ◇

雲の上に浮かぶ天界の建物は、太陽の光をたっぷりと浴び、ぽかぽかとした心地良さを感じさせる。
そんな優しいぬくもりに包まれて、アマネはぐっすりと眠っていた。

「……い、おい」
「んぅ?」

誰かに肩を揺すぶられている。
自分はまだ眠いのだ、と意思表示するのに首を振れば、肩を揺する力がより強くなった気がした。

「起きろ!! この!!」

スパーンッと豪快な音がしたかと思うと額に鋭い痛みが走った。

「痛いッ!!」

あまりの痛みに額を押さえたまま飛び起きれば、そこには口元をひくひくと痙攣させたルーシェルがいた。

「おはよう、妹よ。とてもよく眠っていたようだな?」
「お、おはようございます。ルーシェル、兄様」
「兄様はやめろ。気持ち悪い」

舌を出すルーシェルに、アマネは顔を顰める。

「……私は貴方の妹です。兄の貴方を兄と呼ばず、何と呼べと?」
「そういう屁理屈を言うところ、ミカエルにそっくりだな。何とでも、好きに呼べばいい。――兄様以外ならな」

兄と呼ばれるのがそんなに嫌なのかルーシェルは自分で言っておいて、苦々しい表情になった。それを見たアマネが顎に手を添え、うーんと首を捻った。

(兄様がダメなら何と呼べばいいのかしら? この人に『様』を付けるのは何だか嫌だし。うーん、難しいわ……)

「呼び方など後でゆっくり考えろ。俺がお前を起こしに来たのは、仕事があるからだ」
「へ?」
「親父殿が訳もなくお前を俺に寄越すわけがないだろう」

ルーシェルはそう言って、アマネのベッドの脇を通り、大きな窓を開け放つ。
そこから見える景色は、素晴らしかった。
人間が、神と天使たちの愛すべき人間たちが忙しなく動き、世界を彩っているではないか。
神の住まう城から見える景色もそれはそれは素晴らしいが、これはまた別の意味で素晴らしい。
日が昇って間もないというのに男たちは山や海に仕事へ出かけ、女たちは朝食を作ったり、洗濯をしたり、駆け回る子供を叱る者もいる。
鳥が歌を歌えば、それに感動して祈りを捧げ、素晴らしき朝を家族と共に迎えられたことに感謝して朝食を囲む姿は「生きている」喜びをありありと感じさせた。

「何と美しい……」

思わず息を飲めば、ルーシェルがにやりと笑ったのが分かった。

「あたりまえだ。俺と弟たち、そして神が手塩にかけて作った世界なのだから」

ふわりと、下界から流れてきた風が彼の金色の髪を撫でていった。キラキラと光るその髪は宛ら夜を彩る星のようだと、アマネが目を見張る。
神が、この兄を『明けの明星』と呼んだ意味が少しだけ分かった気がした。

「あの、」
「何だ」
「明星(みょうじょう)、とお呼びしてもよろしいでしょうか?」

紫と金が交じり合った不思議な色彩のルーシェルの目が、これでもかというくらいに見開かれる。

「す、好きにしろと仰ったので」
「……」
「ダメならダメと……」
「ふ、」

ルーシェルが噴き出す。年甲斐もなく、けらけらと笑い出した目の前の男をアマネは呆けて見ていた。

「あははははッ!! 愉快愉快。その名を呼ばれるのは何百年、いや何千年振りか!!」
「……あの、お気に障りました?」
「いいや、気に入った。許す!」
「え」
「明星と呼ぶこと。この名で俺を呼ぶのはきっと、後にも先にも神とお前だけだろうよ」

すっかり気に入ったのか、笑いながら楽しそうに部屋を出て行ったルーシェルにアマネは瞬きを繰り返した。

「明星。ふふ、明星」

噛みしめるように呼んだ名前の響きはとても綺麗な音色で。
思わず、自然と笑みが溢れる。
ラムが支度を手伝いに来るまでの間、アマネは長兄に呼ぶことを許された美しい彼の『名前(あざな)』を、ずっと呟き続けた。