3話『翼無き者』

どうぞ、とラムに案内されたのは昨日の小屋だ。
そして、厳かに開いた扉の中を見渡して、アマネは目を剥いた。
膨大な量の書類があちらこちらで高い塔を作って、小屋全体を埋め尽くさん勢いだったからだ。

「……こ、これは一体」
「よし、早速で悪いが片付けるのを手伝ってくれ。お前を迎えに数時間空けただけで、この様なんだ」

たったの数時間で一体人間界に何があったというのだ。
思わずそう悪態を吐きそうになるのを何とか堪えると、アマネは一つの塔を指差した。

「こちらに積まれているものは、何の書類なんですか?」
「それは人間たちの活動記録だ。右隣りは新しい命が誕生した書類、その更に右が……」

つらつらと説明するルーシェルには悪いが、アマネの頭には最初の三つほどしか、書類の内容が入ってこなかった。
それ程までに膨大な量の書類が山積みになっているのだ。
顔を青ざめながら、アマネは片手を上げ、質問の意を示した。

「私は何をすれば良いのでしょうか」
「……お前は俺が書いた書類をラムと一緒にそっちの籠に分類して詰めていってくれ」
「分かりました」

言うや否や、イルとラムが既に後ろに積まれていたらしい書き終わった書類を大量に運んでくる。
それでも、部屋にある書類の四分の一もに満たないのだから、始める前だというのに既に、気が遠くなりそうであった。

「この赤い判子が押されてあるものは黒い籠に、何も押されていないものはこちらの白い籠に入れてください」
「ええ」

ラムの説明に頷くとアマネは早速作業を始めた。
慣れない書類作業に戸惑っているのか、どこかぎこちない動作で書類を見ては籠に入れる作業を繰り返す彼女にルーシェルが小さく笑みを浮かべる。
年相応に可愛らしいところもあるな、と思っていたのも束の間――。

「明星」
「何だ」
「終わりました」

ちら、と書類から顔を上げれば、きらきらとした眼でアマネを見るラムとちょっぴり自慢げに腰に手を当てるアマネがいた。

「……そうか」
「はい!」

次は何をすれば良いのだと言わんばかりの返事に、ルーシェルは溜息を吐き出す。
前言撤回である。少しも可愛くない。
まったく妙なものを寄越してくれたものだ。
痛む頭を叱咤しながらも無意識に手を動かしていると、いつの間にか書類は最後の一枚になっていた。
イルに目配せをすれば、彼は心得たと言わんばかりに、籠の中身を主人に見えるように持ち上げた。

「この書類で最後か?」
「はい、ルーシェル様。今記入されているものが終われば、本日のご予定は午後の定例会議のみとなっております」
「分かった。……アマネ」

来い来いと左手で手招きすると、彼女は戸惑い半分、興味半分といった様子で近付いてきた。

「これで終わりだ。暫く休め」
「ええ……。はい……」
「何だその返事は。何が不満だ」

せっかくもっと働こうと思っていたのに。
そう顔にありありと書いて、ぶすりと唇を尖らせる幼い天使に、ルーシェルがまた溜息を零す。
結局、定例会議にアマネも連れて行く羽目になり、一日の業務を終えると、ルーシェルはげっそりとした顔で自室の寝台に寝そべった。
常ならば一人で作業することの多い業務も今日はアマネがいたからか、随分と捗った気がする。
未完とは言っていたものの、今のところ特に他の天使と変わったところは見受けられない。
唯一の欠陥といえば翼がないことぐらいだ。
父である神は、一体あれをどうしろと言うのだろうか。

「ルーシェル様!!」

ノックもなしに部屋に入ってきたイルにルーシェルが顔を顰める。

「どうした、何かあったのか?」
「ア、アマネ様が!!」

がばり、と起き上がったルーシェルの背中を嫌な汗が伝っていった。

「だからダメなんですってば! アマネ様!!」
「何がダメなのです! 今すぐあの人間を助けなければ……!」
「――何の騒ぎだ!」

執務室に入ると、そこには窓から今にも飛び降りようとしているアマネがいた。
彼女の腕をぐいと引き寄せ、その頭に思いっきり拳骨を落とす。

「……お前は一体何をやっているんだ」
「痛いです、明星」
「何をやっているのかと聞いている」

ルーシェルが睨みを利かせるとアマネは叩かれた頭を押さえながら、小さく俯いた。

「人間が悪霊に憑りつかれていたので……」
「助けようとしたのか」
「…………はい」

深い深い溜め息を吐くルーシェルに、アマネがびくりと肩を震わせる。
俯いたままの視線を上に戻すのが怖い。
冷や汗が背中を撫でるのが嫌でも分かった。

「俺たちの仕事は、あくまで観察だ。どの人間がどれだけ生きて、生まれたとか死んだとか、そういうのを記録するのが天使の役割なのは分かっているだろう? 中には例外として協助する人間もいるが、それはその人間が善の行いをした功績であって、おいそれと助けて良いものではないんだぞ」
「……分かっています、でも」
「でも、何だ」
「だからと言って見過ごすわけにはいきません!」

今度は、スパーンッという小気味の良い音が部屋に響いた。
アマネが再度涙目になってルーシェルを見れば、彼はゆらりと怒りの色を孕んだ目でこちらを睨んでいる。

「感化しすぎるな! 度を過ぎた観察は、人間にも俺たちにも悪影響をもたらす。それでも、助けたいと宣うのであれば、翼を持ってから物を言え」
「みょ」
「……帰れ。お前のようなじゃじゃ馬は、神の前で舞でも踊っているのが似合いだ。――イル、上に通達して迎えを呼べ」
「そんな……!」

いやだ、とアマネは無意識のうちに彼の服を掴んでいた。
視界が滲んで上手く見えない。それでも、この腕だけは離すまいと必死で握りしめる。

「お願いです、明星! ここに置いてください!」
「ダメだ。規則を破ろうとした者がここにいる資格はない」

何を言っても聞く耳を持たないルーシェルに、アマネは苛立ちを覚えた。
ただ、役に立ちたかっただけなのに。
一方的に怒られて、こちらを見ようともしない彼に、喉の奥から言葉が突いて出る。

「――明星だって! お父様を裏切ったくせに!!」

その瞬間、ラムとイルが息を飲むのが分かった。
しまったと口を噤んでも、声に出した言葉はもう戻らない。

「ご、ごめんなさい。違うんです……明星……!」
「……ふっ。そうだな、俺に何を言われても説得力はないか」
「違います! 今のは……」
「もういい。部屋に戻っていろ。お前の顔を見ているとイライラする」

出ていけ、とルーシェルがドアを示した。
アマネの目から大粒の涙が溢れる。彼女はその場に力なく蹲ると動かなくなってしまった。
鴇色の澄んだ眼から溢れる涙はまるで宝石のようで、ルーシェルはやおら目を細めると、彼女が泣く様を黙って見つめた。

「……お前たちは少し外に出ていろ」
「ですが、」
「心配には及ばん」

二人の天使たちが部屋を出て行ったのを確認して、ルーシェルは蹲るアマネの顔がよく見えるよう、彼女の前にしゃがみ込んだ。

「アマネ」
「……ひっ、ごめ、……ごめん、なさ……みょうじょッ」
「怒っていない。ただ、お前が無茶なことをするから……」
「?」
「翼も持たない奴がいきなり飛び降りようとしていたら、誰だって心配するだろ」

銀色の髪を撫でて、そっと抱きしめてやれば、仄かに花の匂いが香る。
懐かしい花園の香りだ、とルーシェルは幼い天使を腕に抱きながら思った。

「だから、無茶はしてくれるな」
「みょ、」
「それが聞けないなら、お前を箱に詰めてでも送り帰してやる」

形の良い頭に顎をぐりぐりと押さえつけながらルーシェルが言えば、アマネが小さな笑い声を零す。

「箱詰めだなんて、私そんな小柄じゃありませんよ」
「俺に言わせれば、お前たちはまだまだ小さく見えるのだがな。特にお前なんて、こんなだ」

親指と人差し指で空間の隙間を作って大きさを示してやると、コロコロと鈴のような声を立てて笑うアマネの目に溜まっていた涙が一筋零れ落ちた。
それを拭ってやると、彼女は恥ずかしかったのか少しだけ頬を染めて、ルーシェルの胸へ顔を伏せてしまった。

「照れているのか?」
「照れてません!」
「耳が赤いが……」
「明星の気の所為です! もしくは老眼!」

今度はルーシェルが声を上げて笑う番だった。

◇ ◇ ◇

泣き疲れたのか、眠ってしまったアマネを抱えて部屋を出ると、そこにはミカエルがいた。

「やあ」
「何だ、様子を見に来たのか?」
「ああ。兄さんの側仕えの子が泣きながら上に報告に来てね。父上が様子を知りたがって……」
「あいつら……。余計なことを」

あはは、と棒読みで笑いながらミカエルはルーシェルの腕の中で寝息を立てる妹の頬を優しく撫でた。

「この子は感情の起伏が激しい子でね。それに善の心が強すぎる所為か、人間に情を移しやすいんだ」
「とんだ欠陥品だな」
「まあ、そう言わないでよ」

指通りのいい髪を撫でつけ、ミカエルが笑う。
色の白い彼の手がアマネの髪を撫でる度、きらきらと反射するのをルーシェルが難しい顔をして見ていた。

「……兄さん」
「何だ」
「俺も抱っこ」
「ふざけるな、禿げろ」
「えー」

伸ばした腕を片手で弾かれ、不服そうに唇を尖らせれば、憐れむような目で見つめられてしまう。
たった一人の愛が欲しくて堕ちた天使と、優しい未完の天使。

――交われば、どうなるのだろうか。

ミカエルはルーシェルに気付かれぬよう、小さく笑みを噛み殺す。

「まあ、頑張って」
「完全に他人事だな」
「うん」

また来るよと、ルーシェルとアマネの頬にキスをしてミカエルが翼を広げる。
その翼は最高位を意味する金の色がチラつく、神々しい色であった。
夕闇に溶け込む弟を見送り、ルーシェルは溜息を吐いた。
「まったくどいつもこいつも……」
手間のかかる。
そう呟いた彼の声は、ミカエルの翼の音に掻き消された。