1話『愛入れぬ二人』

目を覚ますと、懐かしい灰色の天井がルーシェルの視界に映りこんだ。
鉛のように重い身体を起こすと、寝台の傍にある椅子でイヴが眠っていた。
長い銀色の髪が、重そうに床に向かってしな垂れかかっているのに、そっと手を伸ばせば、髪と同じ色の睫毛の隙間からザクロを閉じ込めたように真っ赤な目が現れる。

「……おはよう、ルーシェル」

気怠そうに髪を掻き上げながら、イヴが微笑んだ。
甘い、林檎に似た香りが空気中に漂い、思考を乱す。
視線を逸らすことで、それから逃れようとしたが、思ったように身体が動いてくれなかった。

「そんなに眉間に皺を寄せて、何を怒っているのよ?」

ぐ、と眉間に皺を寄せたまま、ルーシェルはイヴを睨んだ。

「……あっさりとここに帰ってきてしまった自分に、だ」
「あら、そうなの? てっきり私に怒っているものだとばかり思っていたわ」

子どものように屈託ない笑顔を見せる彼女に、ルーシェルは嫌悪感を隠そうともせずに盛大な舌打ちを零した。
それに臆することもなく、イヴはそっとルーシェルの座る寝台に腰を下ろす。

「機嫌を直してちょうだいな。折角、二人きりなのに」
「触るな」

頬に伸ばされた手を間髪入れずに叩き落せば、イヴが怒ったように頬を膨らませた。

「少しくらい、いいじゃない。貴方は私のもので、私は貴方のものなのだから」
「……昔のことを持ち出されても困る。俺たちは相容れないのだと、あの時痛いくらいに思い知っただろう?」
「違うわ! あれは、私の力が未熟だっただけで」
「違うものか。再び共にあったところで、俺たちが結ばれることなど決してない」

きっぱりと言い放ったルーシェルにイヴは悲しみに表情を染めた。

「そんなことないわ」
「無理なものは無理だ。お前だって分かっているだろう?」
「やってみないと分からないって貴方が言ったんじゃない!!」

ヒステリックに叫ぶイヴに、ルーシェルは苦虫を噛み潰したかのような表情になった。
駄々っ子のように、嫌々と繰り返し首を横に振るイヴに、言葉を吐き出すのさえ億劫で、もはや溜息も出ない。

――あの頃と何も変わっていない。

身体は成熟しているというのに、中身は花園で暮らしていた頃のままだ。
そう思うと、ルーシェルは途端に胸が痛んだ。
こんな風に彼女を歪めたのは、他ならぬ自分自身であることを、今更ながらに思い出す。

◇ ◇ ◇

「一緒に堕ちてくれるか」

そう尋ねたときのイヴは、酷く嬉しそうだった。
間違っても、これから神に背く大罪を犯そうとしている人物が浮かべるべき表情ではないそれに、ルーシェルが片眉を上げる。

「イヴ?」
「……嬉しい。貴方が、お父様じゃなくて私を選んでくれて」

朝陽に反射したイヴの笑顔が、柔らかな棘をルーシェルの胸に突き立てるのだった。

地獄へ堕ちてから半年。
連れ立った多くの弟たちの半分が堕天に失敗し、意思を持たない悪魔へと変貌を遂げた。
残った弟たちと創り上げた地獄の城から、瘴気まみれの空を見上げ、ルーシェルは重いため息を吐き出す。
神に反旗を翻したは良いものの、多くの弟たちを失った悲しみは計り知れず、いっそ自分一人でイヴたちを攫ってしまえば良かったのではないかと、『たられば』の考えばかりが、ルーシェルの脳内を渦巻いていた。

「ルーシェル!」

そんなルーシェルの悩みなど露知らず、呑気な顔をして現れた神の一人娘に、ルーシェルはそっと一瞥を返す。

「んもうっ! またそんな怖い顔をして! それより、見てちょうだい。私の目、綺麗な柘榴色に変わったの」

貴方の好きな色でしょう。
真っ赤に染まった目でそんなことを宣うものだから。
ルーシェルは、存在しないはずの心臓がぎゅっと掴まれたように痛かった。

いつか一緒に見た、神の園の柘榴を彷彿とさせる赤が、イヴの両目できらきらと輝いている。

「……ああ、綺麗だ」
「ふふ。貴方なら、そう言ってくれると思った。――アダムったら、ちっとも気付いてくれないのよ」

するり、と華奢な指先がルーシェルの頬を撫でていく。
悪戯にこちらを煽る彼女の誘いに、ルーシェルは猫のように目を細めた。

「まだ陽も高い内から、俺を誘惑するとは。お前は悪い遊びばかり、すぐに覚えるな?」
「…………教えたのは貴方のくせに」

拗ねたように唇を尖らせる彼女が可愛くて、そっと唇を寄せた。
鼻から息が抜ける際に「んっ」と甘い声がイヴから漏れる。
それに気を良くして、ルーシェルは一層深い口付けを彼女に贈った。

◇ ◇ ◇

亀裂が生じたのは、地獄を住まいと定めてから二百年が経とうとした頃だった。
どれだけ深く愛し合っても、一向に懐妊する兆しを見せないイヴが痺れを切らしたのである。

「どうして! どうしてよ!」

慟哭する彼女の姿に、ルーシェルは唇を噛み締めることしかできなかった。
母体に問題があるのではないか、と心配する弟たちを説き伏せ、ルーシェルは自身とイヴの身体、その両方を隈なく調べた。
すると、懐妊できない理由はイヴではなく、己にあることを知った。

「…………所詮、俺は神の僕というわけか」

ルーシェルたち天使には『種を残す』必要がない。
神の僕である天使は、神の采配ひとつで天の花園から生まれることが出来るのだから。
考えればすぐに分かることだった。
この身体が『子を成す』ように造られていないことなど。

「……最後にもう一度だけ、試してみよう」

ルーシェルは、最後にある実験をすることにした。
これで子が出来れば、イヴを自由にしてやれる。
長い間、縛り付けてきた彼女を解放してあげたい。それだけだった。

「やったわ! ルーシェル! 私、子どもができたみたい!」

待望の妊娠に、イヴは勿論、地獄の城が湧き立った。
これで神に対抗する新たな術が増えた、と色めき立つ弟たちとイヴの姿に、ルーシェルは一人冷めた視線を向ける。

(やはり、『そう』なったか)

イヴの胎に芽吹いた命は、ルーシェルのものではなかった。
イヴと共にこの地へと攫ってきた神の一人息子、アダムの種をイヴには内緒で仕込んだのである。
行為の最中、意識が混濁したイヴに分からないよう、あらかじめ用意していたアダムの種をその胎に注ぎ込んだ。
これで子が成せなければ、母体にも問題がある。
そう思い込もうとしていたルーシェルだったが、神が定めた運命はそう易々と覆らなかった。
どれほど渇望しても己との間に出来なかった子が、番として生を受けた相手の子であれば簡単に孕むと知って、ルーシェルは絶望した。

ただ、愛されたかっただけなのに。
愛した人との間に、子を望んだだけなのに。

誰も、俺を『愛してくれない』。

その晩、ルーシェルは何も告げずにアダムとイヴを離宮へ追放した。

突然のことに弟たちが非難の声を上げたが、そのどれもルーシェルは聞き入れなかった。
そして、誰とも言葉を交わすことがなくなり、自室に篭りがちになってしまった。

丁度、その頃である。

ミカエルやガブリエルが地獄を訪問する機会が増えたのは。

◇ ◇ ◇

今思えば、あれはルーシェルが落ち込んでいるのを知った神なりの慰めだったのだろう。
あの頃と同じ、寸分変わらぬ景色の地獄の空を、ルーシェルは忌々しいと言わんばかりの厳しい目付きで睨みつけた。

「ねえ、ルーシェル。今なら貴方の子だって孕めるわ。だって、私、」
「煩い。その話は聞きたくないと何度も言っているだろう」
「どうして? どうして、そんなに私に冷たいの……。あの紛い物が、貴方をそんな風にさせた?」
「…………どうして、そこでアレが出てくるんだ」

ルーシェルは奥歯を噛み締めながら、イヴに視線を遣った。

「私が嫌になったから、アレをお父様に強請ったんでしょう?」
「違う!!」
「じゃあ、どうして私のことを見てくれないの!」
「先に、俺を見捨てたのはお前じゃないか!」
「私は貴方のことを見捨てたりしてないわ!」
「なら何故、子を成した後、俺の元に姿を見せなくなった!」
「それは貴方が怒っていると思って……」
「ああ。怒っていたとも! 己に子種がなかったことにな!」

だからこそ、側に寄り添って大丈夫だと言って欲しかった。
そんなものなくてもいいと、それだけで良かったのに。

「お前は、一人目を産んだ後、俺になんと言ったか覚えているか?」
「……」
「次は、女の子がいいわねとそう言ったんだ。アダムによく似た男の子を抱きながら」
「ルーシェル」
「触るな!!」

ままごとでも良かった。
ただ側で、この寂しさを埋めてくれるなら、誰だって――。

『明星』

眼前のイヴと、アマネの姿が重なる。

数百年ぶりに感じた温かな気持ちは、ルーシェルの孤独(すきま)を少しずつ満たしてくれた。
それが自分のものじゃなくてもいい。
アマネが笑っている姿を見るだけで、ルーシェルは束の間、寂しさを忘れられた。

だから、自分が触れて汚さないように、必死に守ってきた――つもりだった。

最後に見たアマネの泣き顔が、ルーシェルの胸を酷く掻き乱す。
これではまるで。

「……貴方って酷い人ね」
「…………お前にだけは言われたくない」
「先に私を求めたのは貴方でしょ。それなのに、途中で手を離した」
「否定はしない。だが、その理由はお前も分かっているだろう」
「子どもが出来なかったくらいで何よ」
「そんなものが欲しかったんじゃない、俺は」

愛されたかっただけだ。
金と紫の淡い色彩が、胡乱に揺らぐ。
迷子になった子どものような表情で、ルーシェルが空を仰ぐ。

曇天の空に、鴇色が光ったような気がした。