3話『ただいまの口付けを』

二人して目元を真っ赤に染め、天界に戻ってきたルーシェルとアマネの二人に、ヨフィエルは苦笑しながらも天の門を開いてくれた。
白く輝く門に朝日が反射してきらきらと眩しい。

「ありがとう、アマネちゃん」

門を潜ると同時に、ヨフィエルの小さな呟きがアマネの耳に届く。
小さく会釈を返し、彼の前を通り過ぎようとして、眼前に広がる光景に息を呑んだ。

――天界に属する全ての天使が頭を垂れて、ルーシェルとアマネの二人を迎え入れたのだ。

「おかえり」

私の愛しい子らよ。
神の一声に、天使たちが声を揃えてルーシェルの帰還を喜んだ。

「おかえりなさいませ、天使長ルーシェル様!」
「おかえりなさいませ!」

わああ、と歓声に迎えられ、ルーシェルは目を見開いて固まっていた。
まるで彫像のように固まって動かなくなってしまった彼の腕を、アマネがそっと引っ張る。
そして、ゆっくりと一歩一歩踏みしめるように歩き、神の前へ二人して跪いた。

「ただいま戻りました」
「よくやった、アマネ」

ドレスの裾を持ってお辞儀したアマネの手に、神がそっと持ち上げて唇を寄せる。
神からの口付けは至上の誉れ。
周りに居た天使の歓声に一瞬どよめきが生じるが、神はその反応を予測していたのか、にやりと口角を上げてみせる。

「おかえり」
「……ただいま、戻りました」

たどたどしく、まるで初めてのおつかいから戻ってきた幼子のような頼りない口調でルーシェルが言葉を零す。
神は愛おしそうに彼の頬を撫でると、アマネの右手とルーシェルの左手を重ね合わせた。
突然触れた温もりに、お互いにギョッとして、思わず神を凝視する。

「お、お父様。一体何を……」

手を振り払おうと身動いだアマネを目で制すると、神はルーシェルに言葉を紡いだ。

「私はお前を許そう。だから、お前も己を許せ」
「だが……」
「誰がお前を責めた? 私を始め、この場に居るのはお前の帰還を待ち焦がれていた者ばかりだぞ。あとはお前が自身を許すだけだ」

帰ってこい、ルーシェル。

ルーシェルの右手を強く握りしめると、神は真摯な眼差しで彼を見つめ続けた。
そんな二人の様子を、アマネは緊張の面持ちで見守っていた。
神によって重ねられたルーシェルの手から、彼の戸惑いと不安が震えとなって伝わってきて、思わず手に力が入る。

「……貴方はもう十分に己を責めたでしょう? だから、楽になっても良いんです」

ね、とアマネがルーシェルを見上げれば、彼は驚いたように瞬きを繰り返して、それから何かを探すように視線を彷徨わせて俯いた。

「明星」

名を呼べば、母を求める幼子のような目と目が合う。
おかえりなさい、とアマネが再び紡ぐ。
まるで呪いのようだと自分で言いながら、アマネは思った。
自身の言葉がこの人を天界に縛る呪いになればいいと頭の片隅で、もう一人の自分が囁く。

「……俺の居場所は、ここにはない」
「ほう。では、どこにお前の居場所があると言うのだ?」

既に答えを知っているような口調で、神がルーシェルに問う。
ルーシェルの夜明け色の瞳に、光が瞬いた。

「不本意極まりないのだがな、これの傍が一番安心する。つまりはそういうことだ」
「な、」

急に力強く抱き寄せられたかと思うと至近距離でそんなことを吐かれて、アマネは動転した。
あわあわと唇を震わせるアマネに、ルーシェルは悪戯が成功した子どものように笑うと、彼女のベールを押しやって額に口付ける。
赤く染まったアマネの顔を見て、ルーシェルが常の人の悪い笑みを取り戻す。
そして、傍で見物を気取っていた神に一瞥をくれると灰色の翼を大きく広げた。

「書類仕事が溜まっているので、失礼する。――じゃあな」

朝焼けの空を舞いながらそう言った彼に、神は「ああ」と短く返すと二人の天使の背中が小さくなるまで見送った。
雲を埋める勢いで整列していた天使たちも、神に倣い彼らを見つめる。
天界に長兄が心から帰還したこの日を忘れまいと誓いながら。
明けの空をルーシェルと滑空するのは二度目だと、どこか浮足立った気持ちで外界に目を遣る。
そういえば、初めて出会ったあの日もこうして抱えられながら、空を飛んだ。
まだそんなに月日が経っているわけでもないのに、あの日の光景がとても懐かしく思えて、アマネは一人笑みを浮かべた。

「……何を笑っている?」

どこかぶっきらぼうな口調でルーシェルが問うのに、アマネは首を振った。

「初めて貴方と空を飛んだ日を思い出していたのです」

あの日と同じ、紫色に澄んだ夜明けの空にアマネは目を細める。

「そうか」
「はい」

それから、ルーシェルの館に着くまで互いに一言も発しなかった。
その所為か忙しなく脈打つ鼓動が痛いほど耳に木霊して、アマネは緊張のあまり唇を強く噛み締める。

「アマネ」

雲の上に降り立つと同時に名を呼ばれた。
はい、と返事をするより先に、唇を塞がれて、視界が涙で歪む。

「好きだ」
「……狡い、ですよ」
「お前にだけは、言われたくないセリフだな」

ニッと白い歯を見せて笑ったルーシェルに釣られて、アマネも笑みを濃くした。
私も貴方の傍が落ち着くのです、とそう伝えたら彼はどんな顔をするのだろうか。
再び重ねられた唇を甘受しながら、アマネが目を細める。

東の空で、二人の天使を見守るように明けの星が輝いていた。

《完》