二日の猶予を与えると言ったにも関わらず、グレースを苦しめた元凶を目の当たりにして我慢ができるはずもない。
ましてやヴォルグの寵愛を受けたなどと、見え透いた嘘を平気で並べ立てる姿に、怒りで頭が真っ白になってしまった。
「それで、ご機嫌斜めなんだねぇ~」
ひどく楽しそうな声でこちらを見下ろす魔王に、ナギは舌打ちした。
「何、笑ってんだ。お前まさか、本当にあの女と寝たんじゃねえだろうな?」
「……残念だけど、僕が君以外に抱こうとした女性は、第二夫人より聡明で美しい人たちばかりだったよ」
「…………喜んで良いところか?」
「んふふ。嫉妬してくれないの?」
「……さっきから、腑煮え滾ってんのに、これ以上どこで嫉妬の炎を燃やせってんだ」
「ナァギ」
「ちょ、やめろ。甘ったるい声出すな。気色悪ぃ」
するり、と蛇のように腰に巻きついてきたヴォルグの腕をナギが叩く。
グレースから案内された客室は一目見て上等なものだと分かるそれだった。
魔王城に負けず劣らずの豪華な寝台の上には、繊細で美しい天蓋が取り付けられている。
それと夫の顔を見比べ、ナギは瞬きを一つ落とした。
「……シないぞ」
ヴォルグが妙な気を起こす前にと、ナギが唇を尖らせながら言葉を紡ぐ。
「どうして?」
「友人の家で行為に及べるほど、面の皮が厚くないからだ」
「え~~」
「…………本気だからな」
「そこを、何とか」
不埒な腕は腰を柔く撫でた後、ナギの胸を軽く包み込んだ。
焦らすように揉んだかと思うと、耳裏を冷たい吐息が撫でていく。
「ちょ、ヴォル、グ……ッ」
「ダメ?」
「……っ」
「ねえ、ナギ」
「~~~! やめろバカ!!」
羽毛の詰まった枕がヴォルグを襲う。
思わず「ぐふっ」と間抜けな声を漏らせば、顔だけではなく、肌という肌を真っ赤に染めたナギと視線が交差した。
「ほ、本当にやめろってば! こ、こんなとこグレースに見られたくない」
「こんなとこって?」
「……わ、訳わかんなくなった顔とか、知ってるの、お前だけで良い」
「ふふ。カタコトなの、可愛い」
「ヴォ、ヴォルグ」
「分かったよ。もうしない。でも、これだけ」
許してね、と甘い唇に噛み付く。
熱くなったナギの舌を堪能していると、軽いノックが扉を叩いた。
「どうぞ~」
呑気に返事をするヴォルグの胸に思いっきり拳を叩きつけると、ナギは頭からシーツを被った。
「あの、陛下……」
「やあ、グレース。その後、第二夫人はどうなったのかな?」
「エーリカとその息子は牢に繋いであります。――此度は我が領地の者が、大変申し訳ございませんでした。夫に成り変わり、深く謝罪申し上げます」
「それには及ばない。騒ぎを聞きつけたクロドアがこちらに向かっているそうだ」
「そう、ですか」
「それと、もう一人屋敷に呼び寄せたい人がいるんだけど、頼めるかな?」
「は、はい」
グレースは深くお辞儀すると、足早に去っていった。
カツカツとヒールの音が遠ざかっていくのを聞いて、ナギがシーツから顔だけを覗かせる。
「誰を呼んだんだ?」
「それは見てのお楽しみ」
「?」
クロドアが到着したのは、その日の夜だった。
ライトニングを伴に、汗びっしょりで現れた辺境伯の姿に、ヴォルグとナギが顔を見合わせる。
そして、魔王夫妻の顔を認めるや否や、シルフレア辺境伯爵クロドアは、その場で勢い良く膝を折った。
「…………死を持って償います」
「ふふっ。開口一番にそれとは恐れ入る。お前の命一つで我が妻の怒りが収まるのなら、ぜひそうしてもらいたいな。ねえ、ナギ」
「ああ。だが、俺はお前の死を望まない。お前はグレースの愛する夫なのだから」
「魔王様、ならびに魔王妃様のご温情に心から感謝を、」
深々と頭を下げたクロドアの隣には、同じように跪いたライトニングの姿があった。
それを見たヴォルグが満足そうに口元を綻ばせる。
「さて、クロドア。君にはいくつか聞きたいことがある。『俺』の質問に嘘偽りなく答えると誓うか」
「……誓います」
ヴォルグが俺という呼称を使うのは本気で怒っているときか、公務のときだけだ。
この場合、若干の苛立ちを見せながらも、公式的な質疑応答としての記録を残そうとしているのだろう。
その証拠に、王都から呼び寄せられた彼の右腕であるマモンと書記官が、シルフレア伯爵親子の後ろに控えている。
未だ体調が万全ではないにも関わらず、同席したいと言ってきかなかったグレースと応接室のソファに腰を下ろしていたナギは、ヴォルグの楽しそうな――他者が見れば、震え上がるほどに美しい真顔である――横顔をじっと見つめた。
「ではまず、エーリカ第二夫人が日常的に行っていた強制搾取の件についてだが」
「はい」
「君はどこまで把握していた?」
「……恐れながら、今日に至るまで私は詳細を把握しておりませんでした。グレースが内々に処理をしてくれていたからです」
「そうだね。その点は伯爵夫人の手腕を評価せざるを得ない」
「……」
「領内におけるものであれば、僕でも首を突っ込むことは難しい。君に裁判権があるからね。だが、今回は違う。魔王城や王都に贈る量と同等の薪を収めろと言われたと、領民から報告があった」
「何ですって!?」
それまで沈黙を守っていたライトニングが思わず叫ぶ。
叫び出したいのは伯爵も同じことだろう。だが、クロドアは息子を一瞥しただけで黙らせると「初耳です」と今にも消え入りそうな声で呟いた。
「シルフレアの薪は、長い冬を越えるためになくてはならないものだ。それを自身の暮らしを豊かにするためだけに、第二夫人は奪い取ったらしい」
「……何ということを、」
「だが、彼女の犯した罪はそれだけじゃない」
今回、クロドアが馬を急がせた最もの理由。
「俺の寵愛を受けたと吹聴した上で、我が妻ナギを愚弄し、その肌を公衆の面前で晒させた」
後半は私怨が隠しきれていなかったが、王族を侮辱したことに変わりない。
平民であれば、その場で斬り捨てられてもおかしくないことを、辺境伯の第二夫人が仕出かしたのだ。
死を持って償うという言葉がクロドアの口を衝いて出たのも無理はなかった。
「これまでの狼藉を考えると、正直、不敬罪で裁くのは物足りないくらいだ。君は彼女の処遇をどう考える」
「……それは、」
「私は騙されませんわよ!」
クロドアが言い淀んだそのとき――応接室の扉が大きく口を開いた。
泣き腫らした所為で、派手な化粧が崩れ落ち、どことなくピエロを彷彿とさせるエーリカが肩を怒らせて部屋の中に入ってくる。
その後ろから、彼女の息子でライトニングの異母弟と、クロドアの叔父ギゼルが顔を覗かせていた。
「この女! よくも私を侮辱してくれたわね! 魔王妃様は十年前に他界されていると言うではありませんか!」
金切り声を上げるエーリカに、ナギは開いた口が塞がらなかった。
隣ではグレースが頭が痛いと言わんばかりに、蟀谷を抑えている。
「…………また、ややこしいのが来たなオイ」
「申し訳ありません」
「お前が謝ることじゃない」
「ですが、」
「まあ、待て。ヴォルグには何か考えがあるらしいからな」
ナギはそう言って肩を竦めると、意気消沈したグレースの背を摩ってやった。
ちり、と首筋を撫でる殺気にナギが顔を上げれば、雷を纏ったヴォルグの背が目に入る。
「やはり、お前の仕業だったか。ギゼル」
「こ、これは、魔王陛下。貴方様がどうしてここに、」
「白々しいにも程があるぞ。――エーリカの子がクロドアの子ではなく、お前との間に出来た子だという調べはとっくについている」
その場に居た全員が息を呑んだ。
グレースが、わなわなと震えながら、立ち上がる。
クロドアの子を宿した、と聞いたから、どこの娘とも知れない彼女を第二夫人として迎えることを了承した。
外交に身を投じる殿方の中には、別の街に夫人を持つことも珍しくない。
だが、クロドアは違った。
古来種の血を引く故に、子どもを授かりにくいグレースを責めることなく、どんなに仕事が忙しくても週末は必ず屋敷に帰ってきてくれた。
一夫多妻制の多い魔界では珍しいほどの愛妻家である。
ライトニングが生まれてからは周りが驚くほど子煩悩になった彼の様子に、グレースが苦笑を溢すほどだった。
「……よくも、よくも私とクロドア様の時間を、」
グレースの吐息に白煙が混じる。
銀龍の血を引く彼女は、爆炎の魔法を使う。
こんな狭いところで魔法を放てば、全員無傷では済まなかった。
――浅葱色の髪が、グレースの前に翻る。
ナギがエーリカやギゼルの姿が見えなくなるように、グレースと彼らの間に立ち塞がったのだ。
「落ち着け、グレース」
ナギの声に、グレースはぎり、と奥歯を噛み締める。
次いで、頭に血が上った所為でふらついた彼女の身体を、ライトニングが受け止めた。
「グレースやライトニングを人質に、エーリカを第二夫人にしろと脅したな」
「な、何を仰っているのか、」
「これを見ても、まだそんなことが言えるか?」
ヴォルグが右手を上げる。
すると、マモンがその手に一枚の紙を差し出した。
「エーリカが出産した産院の記録だ。どうやら赤子の魔力の型が、クロドアとは異なっているようだが?」
見てみろ、とヴォルグがクロドアに差し出す。
彼はそれを上から下まで舐めるように見ると、ぐしゃりと書類を握りしめた。
「身寄りのない妊婦を拾ったから面倒を見てやってほしいと、私に告げたのは嘘だったのですね……!」
「う、嘘ではない! お前まで何を言うか!」
「ではなぜ、赤子の型が叔父上の魔力と同じなのですか!」
そこに書かれていたのは、ギゼルと同じ魔力の型だった。
魔力の系譜は父親のものを引き継ぐことが多い。
稀に、母親の魔力を引き継ぐ者や、複合型として両親の魔力をどちらも受け継ぐ者、そして隔世遺伝で祖父母の魔力を発現させる者も存在している。
だが、この場合、重要視されるのは間違いなく、父親の型であった。
ギゼルはクロドアの母の弟に当たる。
従って、先代シルフレア伯爵の血を引くクロドアとは魔力の系譜が異なっていた。
「そんなもの、誰かが捏造したに決まって……!」
「往生際が悪いな。証拠もある以上、お前に残された道は一つだけだ」
「な、何を言う! そもそも、貴様は誰だ! 魔王妃を騙るなど恐れを知らんのか!」
ナギが背中の大剣に手を伸ばす。
女性が振り回すにしては、否、大の男が持つにしても見劣りしないほどの大きな剣を音もなく抜刀すると、ナギは愛剣を床に叩きつけた。
ガン、と鈍い音を放ったそれに、ギゼルとエーリカ、そして彼らの息子が恐怖に表情を染める。
「まだ俺が誰か分からないのか?」
「な、んだと」
「――『それ以上、近付くなよ。酔っ払い。うっかり、真っ二つにしちまいそうだ』」
その台詞には、覚えがあった。
新しく選出された剣が人間と聞いて、甥夫婦と挨拶と見物を兼ねて夜会に参加した日の光景が、ギゼルの脳裏に蘇る。
滅多に来れない王都の華々しい料理や景色、そして喉越しの良い酒を堪能し、気分が昂揚していたギゼルは、あろうことか千鳥足で魔王陛下に近付いてしまったのだ。
気が付くと、件の『剣』がどこからともなく現れ、ギゼルとヴォルグの間に立ち塞がっていた。
首筋に冷えた大剣が突きつけられる。
あの時と同じ、金色の目が刺すようにギゼルを射抜いていた。
「田舎貴族にとっては魔王妃が死んだという情報は真新しいものかもしれないが、それは俺が数年前に壁画を描かせた頃に流行った噂だよ」
「なっ、」
「ナギは俺の剣であり、最愛の妻だ。その妻を一度ならず、二度も愚弄した。お前たちには追って沙汰を下す。暫くは、魔王城の冷たい地下牢で暮らすと良い」
ヴォルグの下した判決に、ギゼルたちは大いに狼狽えた。
次いで、何を血迷ったのか、眼前の魔王妃に飛びかかった。
血走った目でこちらに腕を伸ばすギゼルと、金切り声を上げながら突進してくるエーリカに、ナギが大剣の柄を握る手に力を込める。
「……救いようのない阿呆だな」
ナギが呆れたようにため息を吐き出すのと、雷鳴が轟いたのは同時だった。
紫電と青い炎が、ナギのすぐ脇を駆け抜けていく。
前者はヴォルグの放ったものだが、後者は違う。
「また精度を上げたんじゃないか?」
口から白煙を上げるライトニングを振り返って、ナギは微笑んだ。
彼は、グレースを抱えたまま、深々と頭を垂れる。
「我が一族の罪をお許しください。どうか、これからも御身に忠誠を誓うことを、」
「お前とお前の両親の忠誠を疑ったことは一度もない。――その青き炎が、末長く王家を照らしてくれることを願う」
ナギの言葉に、ライトニングは母親を抱きしめる腕に力を込めた。
『末長く』と、彼女は言った。
竜種の血を引くライトニングにとって、これ以上ない言葉である。
「この身が朽ちるまで、我が炎を魔王陛下に捧げます」
「ああ。それでこそ、俺が名付け親になった甲斐がある」
くしゃり、と彼の髪を撫でてやると、その腕の中で涙ぐむグレースと目が合った。
「……良いご子息を持ったな」
「はい。本当に、」
ライトニングの炎は、ただ一人エーリカだけを標的にしていた。
これまで異母弟として可愛がってきたエーリカの息子には炎を当てないように魔力を制御したのだろう。
彼の足元で倒れ込むエーリカとギゼルの二人に、ナギは口笛を鳴らした。
「僕は褒めてもらえないの?」
「お前は俺の分も残しておくべきだったな。どうすんだよ、このイライラはよぉ」
「マモン、ちょっとこっちに」
「……さらっと俺を巻き込まんでください」
普段から魔王夫妻の無茶振りに慣れているとはいえ、今回のような件は珍しい。
このあとの事後処理を思うと、マモンは頭が痛くなる一方だった。
◇ ◇ ◇
「さて、と。元凶は捕まえたし、これで暫くはシルフレアも安泰だろう」
事件から二日後、グレースの容態が落ち着くのを待って、ヴォルグたちは魔王城に帰城した。
ぐい、と伸びをするヴォルグに、ナギが「そうだな」と相槌を返す。
「それが、そう簡単にいかないみたいだぞ」
報告書をまとめていたマモンが難しい顔で、魔王夫妻に数枚の書類を示した。
「ギゼルの解放を求める陳状じゃないか。あんな男でも領民には慕われているんだね」
「いや、これはギゼルから宝飾品などを買い付けていたシルフレア周辺領主たちから送られてきたものだ」
「……まったく、」
はあ、とため息を吐き出したヴォルグたちに、ナギは肩を竦めた。
シルフレアと貿易を結びたいと思っている領地は五万とある。
レヴィアタンが治めるユーラとの北大陸を結ぶ中間点にあるシルフレアは、辺境の地ではあるが海陸両方の重要な物流拠点でもあった。
ここ数年でヴォルグとアスモデウスが開発に成功した魔術門のおかげで、任意の街を通過すれば十日かかる距離も数時間で辿り着くことが可能になったこともあり、ギゼルという後ろ盾がなくなったシルフレア辺境伯を取り込もうと、周辺の領主たちが躍起になっている姿が手に取るように分かった。
「一つ、いい考えがあるんだが」
「おや? 君が妙案を思いつくとは珍しい」
「まあ、陛下ったら。お戯れが過ぎますよ。ぶち殺されたいのですか?」
芝居がかった口調で物騒なことを告げたナギに、ヴォルグが口元を綻ばせる。
「君に殺されるなら本望だよ」
「……バカなこと言ってないで、俺の提案を聞けって」
「んふふ。愛しの奥方は、一体何を思いついたのかな?」
「…………すみません。そういうことはせめて俺が退出してからにしてください」
ヴォルグとナギの戯れる姿などは日常茶飯事であるが、それをたった一人で見せられるマモンは堪ったものではない。
ぎり、と将来、義両親になることが決まっている二人に奥歯を噛み締めていると、ナギが揶揄うようにマモンの頬を指先で撫でた。
「何だ? 混ざりたかったのか? お前なら大歓迎だぞ」
「ちょっと、ナギ。ダメだよ。ルナに怒られちゃうって」
「それもそうだな。あいつ、怒ると手がつけられなくなるし」
一体誰に似たのか、とマモンの婚約者である自身の娘を思って、ナギがため息を吐き出す。
次いで、脱線しそうになった話の本筋を戻すために「ライトニングを呼んできてくれ」とマモンに託けた。
「今の時間帯は訓練中のはずだが、」
「構わん。アレの今後にも関わる話だ。すぐにでも連れてこい」
渋るマモンを促して、ナギがほくそ笑む。
その顔は、悪戯を思いついたときのヴォルグやルナ姫によく似ていた。
程なくして魔王の執務室に連れてこられたライトニングが、緊張した面持ちでソファに腰を下ろす。
眼前には魔王夫妻が座っており、その背後にマモンが控えていた。
「あ、あの、先日の件に、何か進展があったのでしょうか?」
遠慮がちに言葉を紡いだ少年に、ヴォルグが「違うよ」と優しく微笑む。
「君にお願いがあって呼んだんだ」
「お願い?」
「ああ。僕の、いや『俺』の娘と婚約してほしい」
「え、」
ヴォルグの娘は二人。
一人は次期魔王であるルナ姫。だが、こちらはマモンとの婚約を済ませており、あとは成人の儀を待つばかりだと聞く。
そうなれば、ライトニングの脳裏には自然と、まだ六歳のステラ姫の姿が浮かんだ。
「ステラ姫と私が、ですか?」
「ああ。嫌かな?」
「い、いえ! 滅相もありません! ただ、あまりに急な話だったので、驚いて、」
「ステラは君に懐いているし、俺はシルフレアの現状を何とかしたい。君が受け入れてくれるならば、伯爵夫妻にはこちらから連絡を取る」
「……一晩、考える時間をいただいても?」
「もちろんだ」
緋色の双眸が柔らかく細められた。
身の内に宿る炎が、ちり、と熱を帯びる。
ぺこり、と礼儀正しくお辞儀して去っていったライトニング少年を見送って、ヴォルグは脱力した。
隣に座るナギの肩にしなだれかかって、肺の空気を入れ替える。
「珍しく緊張してたな」
「当たり前じゃないか。まだ小さいステラと婚約してって頼むんだよ。その場で断られたら、どうしようかと……」
怖かった、と歴代最強の名をほしいままにしてきた魔王が弱音を吐き出す。
その殊勝な姿がどうにも可笑しくて、ナギは声を殺して笑った。
「あの子は聡明ですから、大丈夫でしょう。普通、あんな風に尋ねられたら、歳の近いルナ姫様を相手に想像します」
「それはお前……。お前(マモン)が睨みを利かせていたら、誰でもステラを思い浮かべるだろ」
「…………睨んでませんが?」
「よく言うよ。背中からでも殺意がビシビシ伝わってきたぜ」
ナギがくつくつと肩を震わせながら笑えば、マモンが心外だと言わんばかりに眉間へ皺を寄せる。
「ま、あとはアレが色よい返事を返してくれることを願うばかりだな」
ナギの呟きに、ヴォルグとマモンは力強く頷いた。
◇ ◇ ◇
秋風が黄昏の波を緩やかに撫でる。
「随分と、懐かしい夢を見たもんだ」
そう言ってナギは長くなった前髪を煩わしそうに持ち上げた。
今日はステラの十八歳の誕生日。
――ライトニングとステラの結婚披露宴が行われる日だった。
いつにも増して色めき立つ城内に少しばかり嫌気が差して、準備もそこそこに抜け出してきたのだが、黄昏色を眺めている内に、いつの間にか寝入ってしまったらしい。
凝り固まった身体を解しながら、ナギは腰掛けていた一人掛け用のソファから立ち上がった。
「……こちらでしたか」
ふわあ、と大きな欠伸を落としたナギの耳に、少し掠れたソプラノが届く。
「よぉ、グレース。今、着いたのか?」
「はい。半刻ほど前に」
これから娘の姑になる女性が、朗らかに微笑む。
「クロドアは?」
「マモン様たちと話に花を咲かせていらっしゃいます」
「そうか」
不意に言葉が途切れた。
あの日、涙ながらに白煙を吹かせたグレースの顔が、隣に立つ彼女と重なる。
「グレース」
「はい?」
「…………今、幸せか?」
言葉を紡いだあとに、らしくなかったかと、ナギは顔を顰めた。
「……ええ。とっても」
「そうか」
「はい。だって、念願の『娘』ができるんですもの」
「せいぜい可愛がってやってくれ」
「ええ。勿論です」
遠くから、夫たちが自分たちの名前を呼ぶ声が聞こえてくる。
ナギとグレースは互いに顔を見合わせると、少女のように満面の笑みを浮かべた。
「今、行く!」「今、行きます!」
手に手をとって、石畳の上を走る二人の影が黄昏の光を浴び、楽しそうに踊っていた。