9話『ざんねつ』

かしわばらくん。

掠れた声が、桃麻の名前を紡いだ。
目元を真っ赤にして、頬を涙に濡らした侑里と目が合う。

「…………藤田に、何した」
「何も? これから楽しくなるところだったのに、意外と来るのが早かったな」

男が軽薄そうな笑みを浮かべる。
無骨な手は侑里の顎に添えられており、桃麻はぴくりと片眉を持ち上げた。
挑発するように鼻を鳴らした男の視線を追って、拳に力を込める。

無惨に切り刻まれた制服から、侑里の白い肌が見えていた。

唇を強く噛んだ所為で、血の味が舌に広がっていく。

「てめえっ!!」

一足跳びで男との距離を詰めた桃麻は、勢い良く拳を振り翳した。

――ゴッ!

鈍い音が古い倉庫の中に響き渡る。
それを合図に、四方八方のシャッターが一斉に開いた。

「ひひっ、本当に来やがった」
「おい。パイプ持って来い。一気に畳んじまおうぜ!」

進んでお近付きにはなりたくない風貌の男たち――着込んでいる制服は隣町の男子高校の物によく似ていた――が、桃麻と侑里、二人の周りをぞろぞろと取り囲んだ。

「……委員長」

侑里の制服をボロボロにした男は、桃麻の所為ですっかり伸びてしまっている。
それを無造作に放り投げると、桃麻はゆっくりと侑里の前にしゃがみ込んだ。

「ごめんね。ちょっと汗臭いかもだけど、これ着てくれる?」
「か、柏原くん」
「だいじょーぶ。俺ひとりじゃないし」
「え、」
「こんなカッコの委員長見たら、あとで半殺しにされちゃうかもだけど、実はね――」

陸さんと瀬尾も一緒に来てるんだ。

桃麻がそう言ってにっこり笑ったのと、二人を取り囲んでいた男たちにどよめきが走ったのは殆ど同時だった。

「てめぇら、誰の妹に手ェ出したか分かってんだろうなァ!?」
「ちょ、ちょ、陸さん!! 俺の方にばっか、投げて来ないでくださいよ!! 危ないでしょうが!!」
「あ゛ァ!?」
「生意気言いました!! すんません!!」

ぎゃあぎゃあと騒ぎながらも、陸と瀬尾の二人が退路を確保してくれたようだ。
僅かに開けた道を見て、桃麻は口元を綻ばせる。

「どう? 立てそう?」
「……あ、足が、震えて、」
「うーん。じゃあ、ちょっと失礼して、」
「え? ひゃ、ひゃあ!?」

突然、身体を襲った浮遊感に侑里が堪らず悲鳴を上げた。

「どうした侑里!!!!」

倉庫全体を震わせるほどの大きな声で、陸が叫ぶ。

「だ、大丈夫っす!! 歩けないみたいなんで、お姫様抱っこしただけです!!」
「お、おお。そうか――って、てめえ! 桃!」
「は、はい!」
「落としたらぶっ殺すからな!!」

次はてめえがこうなるぞ、と陸が高く掲げたのは、殴られすぎて顔がパンパンに腫れ上がった男である。
桃麻は無言で激しく頷きを返すと、一刻も早くこんな血生臭い場所から侑里を連れ去るべく、全速力で駆け出した。

恐怖と緊張からか、侑里の身体は酷く冷たくなっていた。
薄着で冬の寒空に放り出されたかのように、冷えた身体を抱く腕に、桃麻はぎゅっと力を込める。

「柏原くん?」

すぐ近く、吐息のかかる距離で聞こえてきた声に、桃麻は答える代わりに視線を送った。

「あの、い、痛いです」
「……あ~ごめん。でも、もうちょっとだけ我慢してくれる?」

外には侑里の救出後を想定し、陸が車を用意してくれていた。
運転手はもちろん、陸の舎弟である。

「こっちだ! 桃麻!」
「すんません! あと、よろしくです!」
「ちょ、」
「…………巻き込んで、ごめんね」

後部座席に侑里を乗せるや否や桃麻が踵を返す。
その日を最後に、桃麻は侑里の前に姿を見せなくなってしまった。

◇ ◇ ◇

桃麻と瀬尾の二人に停学処分が下されたのだ。
他校生を数名、病院送りにしたため、一週間ほど停学すると副担任が簡潔にホームルームで告げる。
侑里は絶句した。
あの日、帰ってきた兄は笑顔で「お前が心配するようなことは何もない」と呑気に宣っていたのに。

号令を合図に、クラスメイトがそれぞれ散っていく中、侑里は一人身動きが取れないまま、机を睨め付けていた。

「どうした、まだ帰らないのか?」

副担任の山田の声が、侑里を現実へと引き戻す。
ぱちり、と瞬きを一つ。
緩慢な動作で視線を持ち上げれば、心配そうな表情でこちらを見下ろす山田と目が合った。

「先生、」
「ん?」

教師になって三年目の山田は年齢も近く、生徒たちから『兄』のように慕われている。
かくいう侑里も面倒ごとを押し付けられること以外を除けば、彼のことを一教師として好ましく思っていた。
他の教師だったら、こんなこと言おうなんてきっと思わない。
声を掛けてくれたのが山田だったから。
侑里は意を決して、唇をきゅっと引き締めた。

「柏原くんたちが喧嘩に巻き込まれたのは、私の所為なんです」
「どういうことだ?」
「……私が、連れ去られそうになったのを、助けに来てくれて、」

元を辿れば、原因は桃麻にあったかもしれない。
けれど、あの日桃麻を巻き込んだのは、侑里の不注意が原因だ。

車が近付いてきていることにもっと早く気付いていれば。
あのとき、桃麻の名前を呼んだりしなければ。

『たられば』が侑里の脳内を埋め尽くさんばかりに、次々と沸いてくる。

目を閉じれば、あの日最後に言葉を交わした桃麻の後ろ姿が嫌でも浮かんできた。

『…………巻き込んで、ごめんね』

どんな顔をして、その言葉を吐き出したんだろう。
桃色の髪に隠れて見えなかった表情を想像しては、侑里の胸は軋むような痛みを訴えた。

「そうか。俺が、あいつらから聞いた話とは随分と違うな」
「え?」

今度は侑里が疑問符を頭の上に浮かべる番だった。
鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしていたのか、固まった侑里を見た山田の表情が僅かばかりに綻ぶ。

「下校中に喧嘩を吹っ掛けられたので買いました、と柏原も瀬尾もその一点張りでなあ」
「どうして、」
「さあな。だけど、二人ともお前の名前は一度も出さなかったぞ」
「……」
「これは、あくまで俺の憶測だけど、お前が誘拐されて何かされたとかそういう『よくない噂』が立たないように、と思ったんじゃないか」

山田の言葉に、侑里は喘ぐように息を吸い込んだ。
連れ去られてされることの想像といえば、確かにそういった印象が強い。
改めて、あのとき引き裂かれた制服を思い出して、新しく買ったばかりの制服の胸元をきつく掴んだ。

「ごほん。あ〜〜、これから言うことは先生の独り言なんだが、」
「?」
「実は柏原も重傷らしくてな。今朝、お母さんから骨にひびが入っていたみたいですと連絡があった」
「そんな……!」
「停学処分が明けても登校出来るか分からないから、休学届の書類を届ける予定だったんだ」

でも、先生はあいつらの所為で忙しくてなあ。
悪戯っ子のような顔で片目を瞑った山田が、一枚のプリントを侑里の前に差し出す。

「頼りになる風紀委員の委員長が届けてくれたりするととっても助かるんだ」
「せ、先生」
「まあ、これはあくまでも俺の独り言だ。聞かなかったふりをしてくれてもいい」

それじゃ、と手を振って教室を後にした山田と、机上に置かれたプリントを見比べる。
少し摺り足気味の山田の足音が聞こえなくなるのを待ってから、侑里はそのプリントを綺麗に折り畳んで鞄の中へ滑り込ませた。
次いで、逸る気持ちを押さえつけながら、教室を飛び出す。

行き先は、決まっていた。