瞼の裏に感じた光に、桔梗はゆっくりと意識を浮上させた。
辺りを見渡せば、薄汚れた壁と使われていない古い体育用のマットレスが目に入る。
埃の匂いと息苦しさに顔を顰めると、そこで初めて自分が拘束されていることに気が付いた。
花の女子高生にも関わらず、猿轡を回され、両手を荒縄で縛られている状態に、ふつふつと怒りが込み上がってくる。
「やあ、お目覚めかな?」
ふーっ、ふーっ、と手負いの獣よろしく息を荒く拘束から逃れようと躍起になっていた桔梗の前に、あの男が姿を見せた。
「……むーっ!! んんっ!!!」
言葉を発せない代わりに唸り声を上げれば、男が猫のようにスッと目を細めた。
「あまり暴れない方が良いよ? 少しでも動くと関節がキまるように結んでいるから、骨を痛めてしまう」
「!!」
「それに、君は大事な『商品』だからね。傷付けてしまうと僕がお説教を喰らうんだ。だから、大人しくしてもらえると嬉しいなぁ」
「……っ!!」
何と言った。
今、こいつは、私を「商品」と呼ばなかったか――。
猿轡を回されていなければ、桔梗の口は男に罵倒の嵐を浴びせていただろう。
顔を真っ赤にして怒りを露わにする少女に、男が困ったように眉根を寄せた。
「困ったなぁ。向こうへ送る前に目を覚ましたのは君が初めてだヨ。傷を付けると、後で怒られてしまうし、うーん……。どうしようかなぁ……」
唸り始めた男を見て、桔梗は己が置かれた状況をゆっくりと飲み込み始めた。
ぶつぶつと呟かれた言葉から察するに、人を誘拐するのは初めてではないのだろう。
現に先程も、保管中に商品が目を覚ましたのは「初めて」だと男が自ら告げていた。
「……」
尚も独り言を続けている男を尻目に、室内を更に観察することにした。
男の言葉にしっかりと聞き耳を立てながら、どのようにして脱出するべきか、考えを巡らせる。
幸いなことに、実家には頼れる兄貴分と恐ろしく頭の切れる先輩が居た。
聡い彼らのことだ。
桔梗の姿が見えないとなると、何らかの事件に巻き込まれたことくらい容易に想像がつくだろう。
ひとまず、助けが来るのは間違いない。
そう思うと、幾分か不安に傾きかけていた心も軽くなった気がした。
ふと、見上げた天井の一部が崩落していることに気が付く。
古い建物なのか、見慣れない板の色に桔梗は僅かに顔を歪めた。
(……旧校舎? それにしては、建物の劣化が激しすぎる。ここは、一体どこなの?)
差し込む陽の光から、攫われてから随分と時間が経っていることに、僅かな焦燥感が産まれる。
けれど、どこかで大丈夫だと思っている自分がいることが不思議だった。
脳裏に浮かぶのは、いつだって頼もしい同級生と、可愛らしい後輩。
そして、少しだけ愛情の示し方はおかしいけれど、優しく自分たちを見守ってくれる先輩たち。
桔梗、と自分を呼ぶ声が木霊する。
「お、静かになったね? それじゃ、僕も休憩にいこうかな。そのまま、大人しくしていてよ、お嬢」
狐のような顔をくしゃりと歪ませて、男は部屋から出て行った。
足音が遠ざかっていく。
それからたっぷり五分ほど、周りに気配が無いことを確認してから、桔梗は行動を開始した。
――まず、手近にあった硝子の破片を後ろ手で拾うと、ダメもとで荒縄に擦りつける。
少しちぎれるだけでも構わない、と期待していたのだが、結果は肌に傷を増やすだけで、ビクともしなかった。
もっと鋭利なものでなければ切れないらしい。
チッ、と誰かを思わせる鋭い舌打ちを放って、天井までの距離を測った。
何か踏み台に出来るものがあれば、身体を滑り込ませることが出来そうだ。
そう思って辺りを見渡すと、おあつらえ向きに木箱が積み上げられているのが目に入った。
ゆっくりと慎重に立ち上がると、音を立てないように細心の注意を払って、木箱を天上の下に運んだ。
その際、ドアノブに手を掛けてみたが、鍵が掛けられているのか、こちらからは空けられそうになかった。
二度目の舌打ちを落として、桔梗はドアから木箱に向かって走った。
(足を拘束しないなんて、随分間抜けな人たちよね)
学年で一、二を争う跳躍力と俊敏さを併せ持つ桔梗にとって、天井に飛び移ることなど容易かった。
板が斜めになっていたことも幸いして、あっという間に天井の穴へ飛び移ることに成功すると、息を殺して、ミノムシのような動きで移動を始める。
しん、と静まり返った建物の中で、自分が立てる物音がやけに大きく感じた。
(日の差し方がうちとは逆、となると、やっぱりここは旧校舎なのかしら? でもこんなに劣化が進んでいる建物なんてなかったはずよね……。あーん、こんなときに理世先輩が居たらなぁ!)
もごもご、と猿轡の中でもがきながら、懸命に移動を試みていると、不意に話し声が聞こえてきた。
耳を澄ませると、どうやら丁度真下の部屋に誰か居るらしい。
「……で? あの娘の様子はどうだ?」
「はい。ぐっすりとよく眠っています。この分なら、薬を使わずに本国に送ることが出来るでしょう」
「そうか。それなら良いが。ああ、待て。送る前に、私が確認する。今夜また来るから、それまでに身体を綺麗にしておけよ」
「はい、大家」
その呼称には、聞き覚えがあった。
中国マフィアがボスのことを愛情と敬意を込めて「大家」と呼ぶのだ、と華月に教わったことがあったからだ。
(旭日兄さんがこっちに来たのは、この為だったのね)
どこまでも食えない人だ。
自分の身近にもう一人いる食えない人物と相性が良いのではないだろうか、と桔梗が肩を竦めていると、不意に視線を感じた。
背筋を冷たい汗が流れていく。
どこから、と桔梗が頭を振るのと、腕の荒縄が切れたのは、同時だった。
「しーっ。騒ぐなよ、桔梗ちゃん。今暴れると、板が抜けて悲惨なことになっちまうから」
「もふっ(夜雨っ)!?」
「だから、騒ぐなってば。いい? 布取るけど、声出すなよ??」
こくり、と桔梗が頷いたのを待ってから、夜雨は慎重に猿轡を外した。
一体、どれくらいの間、この布を当てられていたのか、普段は白磁人形もかくや、と言った同級生の肌は仄かに赤く、熱を帯びていた。
「だいじょぶ?」
「……おかげさまで、ね。皆は?」
「この先で合流予定なんだけど、どう。動けそうか?」
「あら、もしかして、心配してくれているの? らしくないわねぇ」
「そりゃあね、誰だって誘拐されたら心配するでしょうよ」
両手を上げておどけてみせた夜雨に、桔梗は今日初めて笑顔を見せた。
「ありがと。でも、大丈夫よ。アンタの顔を見たら、元気出たから」
「本当かニャ?」
「ほんと、ほんと」
ふふ、と普段の様子で笑みを零す桔梗に、夜雨は漸く常の調子を取り戻す。
郵便部の面々にとって、隠密行動など赤子の手を捻ることのように容易い。何より、桔梗と夜雨の二人は、郵便部が創設されたときからの仲だ。敵地から姿を消して、仲間と合流することなど朝飯前であった。
「行くわよ」
「ああ」
二人はそれきり、言葉を交わさなかった。
しん、と静けさを取り戻した空間を縫うように、桔梗と夜雨は先を急いだ。
「もう少し行くと、右に抜け穴がある。その下で、シアン先輩と紗七が待っているはずだ」
「分かった」
シアンの名を聞いて、僅かばかりに心臓が跳ねたが、今はそれどころではない。
ゆっくりと慎重に前進する桔梗たちを嘲笑うかのように、桔梗が手を置いた板にひびが入った。
「……夜雨、どうしよう」
「……いっそ、落ちて突っ切る方が早いんじゃね?」
「後で文句言わない?」
「んー、それは桔梗ちゃんの態度次第かなぁ」
「分かった。向こう一週間、学食奢ってあげる」
「良いね。恨みっこなしだぜ?」
「もちろん!」
言うや否や、桔梗はひびの入った板に体重を乗せた。
バキッと嫌な音を立てて、二人を支えていた脆い板が役目を終える。
身体を捻って、綺麗に着地を果たした二人を出迎えたのは、黒いスーツに身を包んだ強面の男たちだった。
「まあ、隣の部屋に先輩たちが居るし、騒ぎを起こせば気付いてもらえるだろ」
「……そうね。戦闘バカのシアン先輩なら、すぐに気付いてくれそう」
丸腰相手に短刀や銃を取り出した男たちに、桔梗と夜雨は思わず顔を見合わせた。
大人げない、と思いつつ、構えから大した技量のないことを視認して、体当たりを喰らわせる。
「いや、銃とか、マジでやばいやつ!!」
「逆に今までやばくないことあった!?」
「んー! ないにゃ!!」
「なら、大丈夫でしょ!!」
まるで、社交ダンスでも踊るかのような動きで互いに背中を預け、敵を次々に投げては蹴り、を繰り返していると、二人の真横の壁が音を立てて崩れ落ちた。
「桔梗!!」
木刀で壁をぶち破ったらしいシアンが、額に汗を浮かべて、こちらになだれ込んでくる。
虚を突かれた男たちの中へ、するりと潜り込んだ紗七の一閃が綺麗に決まった。
「ひゅう~! 相変わらず綺麗な剣筋だこと!」
いい加減、拳が痛くなってきたから助かった、と夜雨が冗談めかして礼を述べれば、紗七が嬉しそうに微笑んだ。
「桔梗先輩がご無事で何よりです」
「ありゃ、紗七ちゃん? オレの心配は??」
「それは、私の仕事じゃありませんから。ちゃんと後で柚月に、顔を見せてあげてくださいね」
「お、おう。さ、最近、何か理世先輩に似てきたね」
にこり、と笑った顔まで、苦手な先輩を思わせる後輩ちゃんに、そう言えば従妹だったなと思い出しながら夜雨が、埃塗れになった同級生を振り返る。
そして、後悔した。
思わず、己の上着を手渡してしまうほど、桔梗の状態は酷い有り様だった。
天井を進んでいる時は、逃げることに必死で気付かなかったのだが、所々破れたり、返り血が付いたりしていて、彼女が身に纏っている浴衣の防御力はゼロに等しかった。
「何?」
「い、いいから黙って着て!!」
「はあ?」
眉間に皺を寄せたまま上着を受け取った桔梗は、そこで初めて己の恰好に気付いた様子で、頬を薄紅色に染めて固まってしまった。
「う、あ、ありがと」
「……どーいたしまして」
後は頼みます、と紗七を連れて先に部屋を出ていく夜雨の背中に「おう」と短く返事を投げつけて、シアンは桔梗の前に立った。
女子にあるまじき乱れた髪型と埃で汚れた肌に、思わず自然と手が伸びる。
触れた体温は、思っていたよりも数倍冷えていて、抑え込もうとしていたはずの苛立ちがまた顔を出す。
「怪我は?」
「……ありません」
「裸にされたくないなら、今すぐ見せろ」
有無を言わさぬ口調で告げられた死刑宣告に、桔梗は渋々と言った様子で、両腕を差し出した。
荒縄で縛られていた所為と、無理矢理ガラスで切ろうとした際に出来た傷が赤く腫れあがっている。
「理世の言う通り、救急箱を持ってきておいて正解だったな」
「どういう意味ですか、それ」
「お前が無茶していそうだから、って意味だよ。ばーか」
生憎、清潔な水が見当たらなかったので、同じく理世に持たされていたアルコール入りのウェットティッシュで傷口を軽く拭うと、顔を顰めた桔梗に気付かない振りをしながら、手早く応急処置を済ませていく。
仕上げに巻いた包帯が、手首の細さを更に際立たせて見えて、シアンの眉間に深い皺が刻まれた。
「……動けそうか?」
「大丈夫です」
両手をぐーぱーと広げてみせた桔梗を他所に、シアンは彼女の足元に目線を移した。
一体どれほど酷使したのかは知らないが、年頃の女子だと言うのに、膝や脛に青痣をこさえて平然としている彼女に、深い溜め息が零れる。
「今日のお前の発言は全く信用できないな。仕方ない。ほら、」
そう言って、両腕を広げたシアンに、桔梗はぱちり、と瞬きを落とした。
「ほら、とは?」
「運んでやるってんだよ」
「……だ、だったら、その構えはおかしいでしょう!?」
「前にも運んでやっただろ。今更、何を照れるんだよ」
「だ、だって」
「だって?」
うぐ、と言葉を飲み込んだ桔梗の顔をシアンが覗き込めば、後輩は心底困ったと言わんばかりの表情でこちらを見上げた。
「下着を着けていないから、色々見えちゃいそうで怖いんですよ……」
何の前触れもなく投下された爆弾に、シアンは堪らず飛び退いた。
上から下までじっくり眺めたくなる衝動を必死に堪えて、明後日の方向へと顔を逸らす。
「……ボタン、全部きっちり閉めろ。それから、足の上にコレ掛けとけ」
片言で手渡されたのは、シアンが身に着けていたストールだった。
首の古傷を隠すために巻かれている大事なそれを惜しむことなく自分へ差し出した彼に、桔梗の目が零れ落ちんばかりに見開かれる。
「え、」
「早くしろ」
そう言いながら、無理矢理ストールを持たされてしまえば、断ることなど出来るはずも無い。大人しく従う姿勢を見せると、腕を引っ張られた。
額が着地した先は言うまでもなく、シアンの逞しい胸板で――強かにそこへ鼻を打ち付けた桔梗が文句を言おうと顔を上げれば、存外に真剣な眼差しを向けられて、僅かばかりに身じろいだ。
「せ、先輩?」
慣れない距離に、呼びかける声も自然と上擦る。
どうしたのだ、と視線で訴えかけるも、シアンはそれに応えるつもりはないのか、無言のまま視線が交差する。
時間にしてほんの数秒が、とてつもなく長く感じられた。
「……ここ、どうした?」
静寂を打ち破ったシアンの指が、桔梗の蟀谷を掠める。
「天井に入る時に、ぶつけたのかもしれません」
人間、許容範囲を超えてしまえば、一周回って冷静になるらしい。
どこか他人事のように自分のことを分析しながら、忙しなく鼓動を打ち鳴らす心臓に気付かない振りをして、シアンの問いに桔梗は答えた。
何かおかしなものでも、付いているのだろうか。
そう思って、桔梗も蟀谷に手を伸ばせば、シアンの大きな掌に遮られてしまった。
触れた指先は、まるで炎に触れているのかと錯覚してしまうほど熱くて、逃れようとすれば、もう片方の手で腰を擁されてしまった。
近付いてくるシアンの気配に、思わずギュッと瞼を閉じる。
鼻先が触れて、それから――。
「ふっ、」
堪えられなかった笑い声がすぐ傍で聞こえてくるのに、桔梗の頬がひくりと引き攣った。
「……さいてーですね」
唇を尖らせても、顔の美しさを損なわない白磁人形のような容姿を持つ後輩の拘束を、肩を竦めながら解くと、その表情は益々不機嫌の色を濃くした。
「悪かったって」
「絶対思ってませんよね、それ」
――キスされるのかと思って、ドキドキしたのに。
小さく呟いた声はシアンの耳にはっきりと届いたらしい。
途端に常の仏頂面からは想像もつかないほど赤く顔を染めた彼が、あわあわと唇を震わせて怒鳴り声を上げた。
「ばっ!? はあ!? 何で、そ、そんなことされると思うんだ、この馬鹿!!」
「先輩って意外と語彙力低いですよね。文系なのに」
「今は、そんなことどうでも良いんだよ! 大体、何で、俺がお前にキス……!?」
ふわり、と鼻先を桔梗の香りが掠める。
「だって、私のこと好きでしょう?」
「じ、自意識過剰にもほどがあるだろっ!!!!」
「冗談ですよ」
「笑えねえっつの!!」
華奢な指先が、シアンを宥めるように優しく肌の上を這っていく。
「……私『は』、先輩のこと、好きですけどね?」
シアンの唇に触れた指先にキスを落としながら、桔梗がそっと目を細める。
にこり、と笑った少女の顔は目だけが笑っておらず、遠回しにしか伝えることの出来ない自分を見透かされているようで恥ずかしかった。
「仕切り直しを要求する」
「どうぞ?」
「…………す、きだ」
渋々、嫌々、と言った表現がぴったりの告白に、桔梗は笑いを堪えることに必死だった。
けれど、漸く待ち望んだ言葉を聞けて、今にも駆け出してしまいたくなるほどの喜びが胸の内を温かく満たしていく。
「私も、貴方のことが好きです」
照れ隠しにストールを頭から被りながらそう言えば「……花嫁にでもなったつもりか」と先程の意趣返しをされて、桔梗は喉を詰まらせた。
「そこは黙ってキスの一つや二つするところなんじゃないんですか?」
「ロマンチックな展開がお望みなら、最初からそう言え」
「……女の子は誰でもファーストキスに夢を持つものですよ」
じとり、とした視線でそう告げれば、今度はシアンが瞑目する番であった。
「はじめて?」
「……悪いですか」
「別に」
言いながら、意地悪く距離を詰めようとする眼前の男に、桔梗は舌打ちを零した。
さっきまでの大人しい態度はどこへやったのだ、と思わず叫び出しそうになっていると、不意に頬を大きな掌に覆われた。
「最後のキスも、俺にしておけ」
「は、」
どういう意味だ、と尋ねようとした言葉は喉の奥に引っ込む他なかった。
熱い体温が唇を通して伝わってくる。
ん、と鼻から漏れた甘い声に、桔梗が肩を震わせれば、シアンが追い打ちを掛けるように舌をねじ込んできた。
「ちょ、まっ、んう」
初めての相手にするようなキスではない、と桔梗が音を上げるのと、集合時間になっても待ち合わせ場所に現れない二人に、痺れを切らした理世が扉をぶち破ったのは、殆ど同時であった――。