誰かを迎えに行くだけでこんなにドキドキしたのは、いつぶりだろう。
逸る気持ちを押さえつけるように、陽菜の手をぎゅっと強く握った。
「にい、痛いよぉ~」
「あ、わ、わり、」
「んも~! 気を付けてよね~!」
「ぶふっ。今の母さんの真似かァ? すっげー似てたぞ」
「へへん! 保育園の先生にもそう言われた!」
「なはは、そうかそうか」
嬉しそうに破顔した妹の頭を乱暴に撫で回す。
今日のために母親が奮発して買った白いワンピースは陽菜によく似合っていた。
「陽菜ぁ、兄ちゃんお願いがあるんだけどォ」
「なあに?」
「焼きそばとたこ焼きはまた今度にしような」
真剣な顔つきでそんなことを言う兄に、陽菜はムッと唇を尖らせる。
「え~~~!! どうして!? 今日は好きなものなんでも食べていいって言ったぁ!!」
「そうだけど、お前その服汚れたら絶対泣くだろ」
「泣かないもん!!」
「言ったな」
「絶対泣かない!!」
「ご近所迷惑ですよ、二人とも」
角を曲がれば侑里の家が見えてくる、そんな場所で言い争っていた所為か、ひょっこりと顔を覗かせた侑里に、桃麻は「え」と息を呑んだ。
白地に朝顔が描かれた涼しげな浴衣を着た侑里が二人を出迎える。
「ゆうちゃん~!! にいにが、いじわる言う~!!」
わあん、と泣きながら――先ほどの泣かない宣言は一体何だったのか――侑里に駆け寄った陽菜の背中を追うように、桃麻も侑里に歩みを寄せた。
「……意地悪じゃなくてお願いしただけだろーが」
「だってね、だってね! 好きなもの買ってくれるって言ったのに、焼きそば食べちゃダメって!」
同時に喋る兄妹に、侑里が口元を綻ばせる。
「ふふっ。おんなじ顔して拗ねないでください」
「拗ねてない」
「すねてないもん!」
「……っ」
「あ~! ゆうちゃん、また笑ったぁ!!」
笑わないで、と陽菜が侑里の浴衣の裾を軽く引っ張る。
「ごめんなさい。あのね、陽菜ちゃん。お兄ちゃんは多分、ワンピースが汚れちゃうから焼きそばはダメって言ったんだと思いますよ」
「でも、陽菜焼きそば食べたい!!」
「そうですか……。じゃあ、私のお古で良かったら、浴衣着ます?」
「いや、悪いよ。そんな、」
「大丈夫です。陽菜ちゃんと一緒にお祭りへ行くって伝えたら、おばあちゃんが用意してくれたので」
侑里が陽菜の手を引いて自宅まで歩いていくと、玄関でやる気に満ちた彼女の祖母が両腕を広げて待っていた。
「陽菜ちゃん、何色にする? おばちゃん、いっぱい出してきたから、好きなの選びなねぇ」
「やった~!!」
泣いた鴉がもう笑っている。
先ほどまでの涙は嘘っぱちだったのか、と疑いたくなるほど変わり身の早い陽菜の姿に、桃麻は呆れたように肩を竦めた。
「ごめんね、いいんちょ。陽菜の我儘に付き合わせて……」
「いえ、祖母も喜んでるので、気にしないでください」
浴衣に合わせているのか、綺麗に結い上げられた髪を揺らして、侑里が口角を持ち上げる。
「両親が健在の頃は、お習字の先生をしていたので、小さい子の相手をするのが好きなんですよ」
「そ、うなんだ」
「……柏原くんも着ます?」
「えっ!? 俺??」
「兄さんのだと、少し小さいですかねぇ」
陸よりも桃麻の方が背が高い。
そう考えると、自分と彼とでは、頭ひとつ分くらい身長差がありそうだ。
「俺はいいよ」
ぼうっとしていた侑里を、桃麻の声が現実に引き戻す。
「あ、ごめんなさい。無理強いしたかったわけじゃ、」
「いざってとき、動き辛いと困るでしょ」
「?」
「陽菜やいいんちょを抱えて逃げないといけなくなることがあるかもだし」
「……バカなんですか、そんなこと起こるわけないでしょう」
「わかんないよ~! 俺が女子に囲まれたりするかもじゃん!」
「男子って本当、自分に都合の良い妄想ばかりするんですねぇ」
白い目で彼を睨んだ侑里だったが、その数十分後――フラグ回収という言葉を自分が身を持って体験することになるとはこのとき、思いもしなかった。
女子に囲まれた桃麻を遠目に睨みつけながら、侑里は深いため息を吐き出した。
かき氷を買ってくると言ったきり戻ってこない彼を探して歩いていると、同学年に捕まった桃麻の姿を発見したのである。
これは近付かないのが賢明だな。
りんご飴を右手に持ちながら、左手で繋いでいる陽菜の手に力を込める。
「にい、何してるの?」
「……学校のお友達に見つかっちゃったみたいですね」
「ゆうちゃんもあの人たちとお友達?」
「いいえ。ただのクラスメイトです」
「?」
「お友達じゃないけど知ってる人って意味ですよ」
「むつかしい」
「…………あっちで座って待っていましょうか」
「陽菜、にいとりんご飴食べたいのに!!」
「あ、陽菜ちゃん……!」
言うや否や走り出した陽菜の小さな背中を、侑里は慌てて追いかける。
「待って!」
ぱし、と彼女の手を掴んだのと、桃麻の取り巻きが侑里たちに気付いたのは殆ど同時だった。
「あれ、藤田じゃない?」
「本当だ。何してんの~~?」
「やっだ、こいつ浴衣着てんじゃん。なあに、彼氏とでも来てるわけェ?」
きゃらきゃらと甲高い声を上げながら近付いてきたクラスメイトたちに、侑里は露骨に顔を曇らせた。
眉間に深い皺を刻み、陽菜の姿を隠すように一歩前へ出る。
「友人と来ているだけです。あなたたちこそ、そんな露出の高い格好をして恥ずかしくないんですか」
「あ゛?」
「水着みたいな格好して……。ここはプールじゃないんですよ」
値踏みするように上から下までじっくり眺めてやれば、三人のうちの一人――網目が大きいサマーニットを着た女子が居心地悪そうに肩を震わせる。
チューブトップに短パン、シースルーのシャツに派手な柄の下着を透けさせている残りの二人も、嫌悪感を張り付けたまま微動だにしなくなった。
「ぐふっ、」
「ちょ、何笑ってんのよ! とぉま!!」
「そおよ! さっきは可愛いって言ってたじゃん!!」
侑里の嫌味がツボに入ったらしい桃麻が、堪えかねたように笑い声を漏らした。
それに女子たちが心外だと言わんばかりに詰め寄る。
今のうちに逃げようと、足を浮かせた侑里の腕を、リーダー格の女子が勢いよく掴んだ。
「何よ! 色気づいちゃって! 似合ってな――」
「ゆうちゃんに何すんの!!」
やめて、とそれまで隠れていた陽菜が侑里の前に躍り出る。
少女が着ている浴衣は侑里とよく似た朝顔柄のそれで、傍目に見れば侑里と姉妹に見紛うような姿だった。
「陽菜ちゃん――!」
「何よ、このガキ!」
乾いた音が、喧騒を割くように大きく響いた。
陽菜を庇った侑里の手の甲に赤い線が走る。
桃麻の視界に火花が散った。
「あのさあ……!」
自分でもびっくりするほど低い声が喉を衝く。
「誰の妹に手出してるか、分かってんの?」
「え、」
「ちょ、な、何で桃麻がキレて」
「に、にい~!」
ゆうちゃんが、と泣きながら桃麻の足元に抱きついた陽菜の姿を見て、女子三人組の顔から血の気が失われる。
「ま、まさか、」
「桃麻の妹だったの、」
「嘘でしょ、藤田の妹なんじゃ……!」
歌うように紡がれる言い訳に耳を貸す仕草も見せずに、桃麻は黙ったまま侑里に近付いた。
抱き上げた陽菜の涙で、片口がじんわりと濡れている感触が伝わってくる。
地面に落ちたりんご飴をぼうっと眺める侑里の右手へ、恐々と手を伸ばした。
居心地悪そうに俯いたままの彼女に、桃麻は唇をきつく結んだ。
「ごめん。痛かったでしょ」
「……平気です」
「でも、腫れてる」
「あの、」
「ん?」
「手を、」
離してください、と告げるはずだった声は、触れた肌の温度がやけに熱い所為で喉の奥に落ちていく。
「と、とぉま」
「ごめんてぇ」
「そんな怒んなくてもいいでしょ……。か、勘違いしただけじゃん~~」
甘えるような声が、二人の背中に投げかけられる。
けれど、桃麻は振り返らなかった。
「――俺が誘ったんだよ。藤田のこと」
「え、」
落とされた声は、侑里のものだったかもしれないし、彼女たちのものだったかもしれない。
けれど、それを問い質すよりも早く、桃麻は侑里の手を掴んだまま走り出してしまった。
悪態が遠く矢のように桃麻の背へと降り注ぐも、桃麻はそれらを悉く無視した。
妹を抱きしめる腕と、細い腕を掴むもう片方の手に力を込める。
「…………柏原くん、ちょ、止まって、くださ、」
はあ、と喘ぐように侑里が息を吐き出したのを合図に、桃麻は漸く走るのを止めた。
気が付けば、祭りの気配も薄れた何もない夜の公園に迷い込んでしまったらしい。
唯一無事だったたこ焼きの袋をぶらぶらさせながら、三人でベンチに腰を落ち着かせることにした。
「こわかったよぉおおお」
今になって叩かれそうになった恐怖が襲ってきたのだろう。
わんわん泣き叫ぶ陽菜の小さな身体を優しく抱きしめる。
せっかく侑里の祖母に編み込んでもらった髪型も走った所為で乱れたのか、ぐちゃぐちゃになってしまっていた。
「泣かないで、陽菜ちゃん。ほら、陽菜ちゃんのりんご飴は無事ですよ」
差し出された赤い果実を見て、陽菜がぴたりと泣き止む。
現金な奴だな、と小さく笑みを噛み殺していれば、陽菜を挟んで座っていた侑里が自分をじっと見ていることに気が付いた。
「な、なあに?」
「別に」
「別にって顔じゃないでしょ、それ」
「……さっきの」
「?」
「誤解されましたよ、きっと」
「何が?」
そう聞かれると何を言い返しても墓穴を掘ってしまいそうで、言葉に詰まる。
うぐ、と唸り声を上げた侑里に、桃麻は不思議そうに首を傾げた。
「あなたが私をデートに誘った、みたいに、聞こえました」
「事実じゃん」
「じゃ、なくて、私は陽菜ちゃんにお誘いを受けただけで、」
「陽菜に先越されちゃったけどさ。あの日は元々、祭りに誘おうと電話したんだけど」
恥ずかしげもなくそんなことを宣う彼の様子に、こっちが恥ずかしくなる。
頼りない街灯の所為で辺りが暗くて本当に良かった。
火照る頬を悟られないよう、走ってきた所為で暑いと言わんばかりに手団扇で風を顔に当てる。
「……」
「何?」
「…………何でもありません」
「そ。あ、それ一口ちょーだい」
「良いですけど、これ陽菜ちゃんの食べかけですよ」
「いいのいいの。どうせこいつそんなに食えねえんだから」
「あ! それ陽菜のぉ!!」
「げ、気づかれた」
常の騒がしさを取り戻した二人に、侑里は漸くホッと安堵の息を漏らした。
さっきまで強張っていた身体が嘘みたいに軽い。
「そーいえばさ、」
「はい?」
「……浴衣、似合ってるよ」
最後に落とされた爆弾に、侑里は力無くベンチに身体を預けることしか出来なかった。