魔王の花嫁

 マリーがそれを思いついたのは、ほんの出来心だった。
 それと言うのも、以前ナギが夜会へ赴く際に着たドレスが、ひょっこりと顔を覗かせたからである。

……良いことを思いつきましたわ!」

 ふふふ、と一人笑みを浮かべた彼女の姿をナギが見納めていれば、一目散に逃げだすであろう表情だったのは言うまでもない。

……悪寒がする」
「何だか、以前にも聞いたことのあるセリフだねぇ」

 このところのヴォルグはすっかり駄目な夫面が板についていた。
 今も執務室のソファでナギを抱え込み、アフタヌーンティーを楽しんでいる。

「今すぐに離れろ。さもなくば、お前の喉元を掻っ切る」
「何だい、奥さん。今日はやけに物騒なお誘いじゃないか」
「ちょ、ホントに離れろ! マジで嫌な予感がするんだって!!」

 二人きりの執務室でそんな雰囲気になったことは、まだ数える程度しかないのだが、今日のナギはいつにも増して過剰な反応を示す。
 それがお気に召したのか、魔王陛下はここぞとばかりに細君へと詰め寄ってみせた。

「え~? なぁに?? 照れているのかい?」
「だぁら! 違うって!!」
「じゃあ、何さ?」
……突撃隣の仕立て屋さんの気配を察知」
「ぶっ」

 言い当て妙な例えに、ヴォルグが噴き出したのと同時――件の『仕立て屋さん』が来訪した。

「見つけましたわよ、妃殿下!!」
「げっ!!」
「まあまあ! 陛下もこちらにいらしたのですね!」

 お二人を探していたのです、とうっとりとした表情で微笑んだマリーにナギは冷汗が止まらない。
 姉のような存在に近い友人の登場にヴォルグは呑気にこてんと首を傾げた。

「どうしたんだい、マリー。君がこっちに来るなんて。随分と久しぶりじゃあないか」
「ふふ! よくぞ聞いてくださいました!」
……待て! 何も言うな! 聞きたくない! 聞きたくないぞ、俺は!」

 にやり、と緩められた口元を見て、ナギが悲鳴を上げる。
 けれどもそれで止まるマリーではない。

「お二人の結婚式を上げましょう!」
「ぎゃー!!」

 殆ど被せるような形で絶叫したナギを諌めるように抱きしめながら、ヴォルグは視線だけでマリーに続けるよう促した。

「先日、ハスター様の結婚式があったでしょう?」
「あー……。そう言えば、あったねえ?」

 ハスターと言うのは、先代のベルゼブブ――ヴォルグの父を殺した大罪人としてアスモデウスとレヴィアタンに処刑された――の配下にして、現ベルゼブブ領の領主代理を務めている青年だった。
 ベルゼブブには弟が一人いるのだが、彼はまだ幼く、領主を務められる年齢になるまでの間、代行としてヴォルグがハスターを指名したのである。

「それがどうかしたのかい?」

 ヴォルグの問いに、マリーがよくぞ聞いてくださいました、と瞳を輝かせた。
 ナギは、と言えば、既に茫然自失。言葉を無くしてしまったようで、遠い目をして現実逃避を図っている。

「こうして妃殿下も帰っていらっしゃいましたし、民の前にも貴方様の奥方がどのような方なのか、披露する機会があって然るべきだと思いまして」
「まあ、一理あるね」
「それに陛下へ言い寄る性悪な女たちに対する良い牽制にもなります。ほら、この通り、妃殿下はお顔だけは美しゅうございますから」
「お断りだ」

 ぴしゃり、と冷たい一言を放ったナギに、マリーは大袈裟なまでに困った、と言った素振りで顎に手を添えて唸った。

「そうは申されましても、殿下や姫様は大喜びで準備を始めてしまいましたよ?」
……おまっ、子供たちに言ったのか!?」
「ええ」
「悪魔だ」
「魔族ですから」

 人の話を聞かないどころか、先に外堀を埋められていた用意周到さに、ナギは今にももんどり打ちそうな思いを、夫の胸板に頭を打ち付けることで発散すると、当の夫と視線を合わせた。

(お前はやりたいのか?)

 マリーの手前、声に出すことが憚られて、咄嗟に心の声で問いかければ、ヴォルグの目が猫のように細められた。

……君が深紅のドレスを着てくれるのなら、」

 深紅は魔王を意味する特別な色だ。
 その色を己に纏えと宣った男に、ナギは瞑目した。

「お、俺にあの色は似合わないだろう?」
「そうかな? 着てみなければ分からないと思うよ?」
「で、でも」
「ねえ、ナギ。一度だけで良い。何なら、僕の前だけでも構わないから着てみせておくれよ」

 緋色の目が、真っ直ぐに自分を見つめている。
 ナギはヴォルグのこの目に弱かった。
 それを分かっていてこの男は。
 ナギを逃すまい、とでも言わんばかりに腰を擁している腕に力が込められる。

「い、一回だけだぞ」
「うん」
「挨拶も何もしないからな。お前が考えろよ」
「うん」
「あ、あと……

(深紅のドレスはお前の前でしか着ないからな)

 そっぽを向いて呟かれたそれにヴォルグは満面の笑みで、彼女の身体を強く抱きしめた。
 そして、背後に控えていたマリーにアイコンタクトを取れば、彼女は喜色満面の笑みで部屋を飛び出して行ったのであった。

◇ ◇ ◇

「ねえ、おじい様。母上は何色のドレスを着ると思う?」
「僕はね、赤が良いなぁ。だって父上の色なのでしょう? マリーが言っていたよ。赤は魔王様のお色ですから特別なのですよ、って」


 膝に乗せた孫二人に見上げられて、ベヒモスは笑った。
 娘が一人でここまで育てたとは思えないほど、素直で賢い孫二人は、両親が結婚式を挙げると聞いて、ワクワクが止まらないらしい。

……そうですねぇ。私もナギには赤が似合うと思います。あの子の浅葱色の長い髪がよく映える。ああ、でもヴォルグ様の御髪と同じ、夜色も似合いそうな気が致しますね」

 髪を伸ばした姿のナギを見たとき、真っ先に妻――チヨの顔が浮かんだ。
 歳を重ねる度、チヨへ近付いている気がするな、とベヒモスが目頭を熱くさせていると、そこへ妹のレヴィアタンが茶菓子を片手にやって来た。

「殿下方、おやつを持ってきましたよ。あちらに行って、食べませんか?」
『食べるー!!』

 二重奏で返事をした双子が走っていく姿に、ベヒモスが肩を竦めれば、レヴィアタンが可笑しそうに口元を手で覆った。

「ふふ。お小さい頃の陛下を思い出しますね」
「ああ。それに、ナギがここに来たばかりの頃も、な」
「あら、それは初耳です」
「言っていなかったか? あの子は存外に食べるから、厨房の者がよく泣かされていた」
「まあ!」

 こうして兄妹で穏やかに笑みを浮かべることが出来たのも、ナギのお陰だった。
 その娘を、今日はまだ見かけていないなと思っていると西の宮――アストライアの私室――の方から悲鳴が上がった。

「む、むりむりむり!! そんな、大切なドレスを俺が着るわけにはいきませんって!!」
「あら、どうして? これは私が先代陛下に嫁ぐ際に着たドレスなのよ? 私には娘が居ないから、結婚祝いにと思って……
「け、結婚祝いってそんな恐れ多い! 俺には似合いません!!」

 開け放たれた窓から聞こえてくる会話の内容に、ベヒモスが眉尻を下げていると、どうやらナギの視界に入ってしまったらしい。
 パッと顔を綻ばせたかと思うと、脱兎の如く、その窓から飛び降りて、こちらに走ってきてしまった。

「親父殿! 助けてくれ! アストライア様が、自分の花嫁装束を着せようとしてくるんだ!」
「ほう? それはようございましたな。あの方のご実家は宝石を手広く扱っておられます。そのドレスにもダイヤモンドやらルビーやらが敷き詰められ、さぞ美しいものなのでしょう」
「呑気にそんなことを言っている場合か! 俺は、本気で困っているんだ!! 助けてくれよ!!」

 隣でクスクスと笑うレヴィアタンには気付かずに、必死に父親を説得しようとするナギを無情にもアストライア付きの侍女たちが迎えに来てしまった。

「さ、参りましょう。宮様がお待ちかねです」
「い、嫌だ! 着ないって言ってくれ!」
「はいはい。文句は直接、宮様に仰ってくださいねぇ」

 流石、長年魔王城を取り仕切ってきたメイドである。
 颯爽と二人でナギの両脇を掴んで去っていった後姿を、ベヒモスとレヴィアタンは声を立てて笑いながら見送った。

 二人の結婚式の準備は順調だった。
 日取りは一週間後の満月の日。
 どうしてその日を選んだのか、とヴォルグに聞いても彼は笑って誤魔化すだけで、応えてくれそうになかった。
 その間にも、やれお肌の手入れだの、ドレスを着るための食事制限だの、とナギに課せられた職務は多岐に渡る。
 特に参ったのが、食事制限であった。
 朝はパンとスープだけ。昼は抜いて、夜には野菜を中心に肉は一切食べられず、極めつきには間食を禁止された。
 戦闘の次に食べることが好き、と言っても過言ではないナギにとって、食事を制限されるのはこれ以上ないほど、苦痛だった。

…………腹減った」
「あと二日の辛抱ですわ、ナギ様。それに、当日は腕によりをかけて妃殿下を満足させてみせますと料理番が張り切っておりましたから、お色直しが終わったら好きなだけ、食べてくださいまし」
「まだ二日もあるのかよぉ」
「まあまあ、そう言わずに、ほら。先日に比べれば、ここまで入るようになりましたのよ? 食事制限の賜物ですわね」

 そう言ってマリーが鏡に向かって微笑む。
 ナギが今着ようと試みているドレスは、かつてアストライアが花嫁装束として身に纏った大変貴重な代物であった。
 加えて、当時のアストライアは今よりも小柄で腰が細く、マリーが仕立て直しの魔法を使っても、広げられるサイズに限度がある為、ナギがこれを着るためには、腰回りの肉を少し落とす必要があったのである。

「やっぱり、無理だって。体格差を考えろよ。俺とアストライア様じゃ、まず身長が違う。それに、肩だって」
「そこはそれ、当日までに私が何としても直して差し上げますので、ご安心ください」
「まったく……。どうしてそんなにやる気なんだか」
「うふふ」

 マリーはすっかり長くなったナギの髪をうっとりとした表情で梳くと、鏡の中で困惑している彼女に再び笑いかけた。

「だって、またこうして貴女を着飾ることが出来るのですもの。美しいものを美しく着飾る。これ以上ないくらい幸せなことですわ」
……
「さ、出来ましたよ。当日はこんな髪形でどうでしょう?」

 しおらしく見えたのも一瞬で、通常営業に戻ってしまったマリーにナギは適当に相槌を返すことしか出来なかった。

「なあ、ヴォルグ」
「んー?」
「まさかとは思うが、お前が言い出したわけじゃないんだよな?」
「何をだい?」
「結婚式、だよ」
「まさか」


 ちゅ、と下りてきた唇に、ナギは顔を顰めた。

「本当に?」
「初代様に誓って、それは無いよ。マリーに言われるまで、ハスターの結婚式を行ったことさえ忘れていたのだから」
「それはそれで、酷い主だな」
「ふふ、君が言う?」
「どういう意味だよ」

 緋色の目が、ゆらりと揺れた。

「僕に内緒で子供を産んでいたじゃないか」
……それは、言える状況じゃなかったから」
「でもレヴィは知っていた。それから、君はまた向こうでも暴れたんだろう?」
「オイ待て、それはどこから漏れた情報だ。叔母上にはそこまで言っていないぞ」
「僕たちの可愛い小悪魔ちゃんたちから、だよ」

 にやり、と細められた目は悪戯が成功した子供のそれだった。
 それに対して、ムッと唇を尖らせれば、慰めるように上唇を甘噛みされた。

「あいつらが覚えている訳ないだろ。まだ三歳だったんだぞ?」
「君と僕の子だよ? 何か不思議な力を宿していても、僕は驚かないね」

 そう言って片眉を上げたかと思うと、ヴォルグはナギの身体を寝台に縫い付けた。
 こちらに戻ってきてから身体を重ねたのは、まだ二回ほど。
 一晩じっくりと愛することが出来る日が限られている所為なのもあるが、初心な奥方がそれとなく行為を避けているのも、原因の一つである。

「それより、こっちに集中してくれないかな。僕は早く君とシーツの海に溺れたいんだ」
「は、恥ずかしいこと言うな! 馬鹿!」
「もっと恥ずかしいこと、色々しているじゃないか」
「わー!! みょ、妙なことばかり言うなら、俺は今日もあいつらの部屋に行くからな! というか、金輪際しないぞ!!」
「それは困るな。ほら、ナギ。もう変なことは言わないから、キスをしておくれよ。今日はまだ、君から触れてもらっていない」

 ん、と眼前に差し出された唇に、ナギは戸惑った。
 こんな恥ずかしい状況で、更に恥を上塗りしろと言うのか。
 カッと頬が熱くなる。
 そのまま、固まってしまったナギを見て、ヴォルグは笑いそうになるのを必死に堪えた。
 次いで、遠慮がちに近付いてきた細君の顔にゆっくりと瞼を下ろす。
 重なった唇からは火照ったナギのそれとは違う、冷たい彼の体温がゆっくりと伝わってきた。

…………やっっっっっと解放される!!!」

 天高く拳を突き出したナギに、新婦控室で厳かに準備を進めていたマリーとレヴィアタンは苦笑を零した。

「そうですわね。お肉解禁日ですから、存分にお食べになってくださいまし」

 ふふ、と笑いながら最後の仕上げ――髪結いに取り掛かったマリーの目が心なしか潤んでいるような気がする。

「マリー?」
「どうしました?」

 ナギとレヴィアタンに鏡越しに顔を覗き込まれて、マリーは「イイエ」と首を振った。
 何てことはない。
 ただ少し感傷的な気分になってしまっただけだ。
 もう二度と会うことはないと思っていたナギにこうしてまた会えて、あまつさえヴォルグと二人の結婚式を挙げることが出来る。これ以上ないくらいの幸せに、 涙腺が遅れて刺激されたのである。

「さ、ナギ様。ヴォルグ様がお待ちです。参りましょう」
「お、おう」

 マリーとレヴィアタンの手を借りて、ナギは慎重に立ち上がった。
 ただでさえ着慣れないドレスな上に、かつてアストライアの花嫁道具の一つであったこれを汚すことは勿論、破いてはならないと、戦闘時の比ではないほど目を尖らせるナギに、レヴィアタンが笑い声を上げる。

「そんなに緊張せずとも大丈夫ですよ、ナギ。そのドレスはアストライア様からの贈り物なのですから」
「うえ!?」
「あら、聞いていなかったのですか?」
「き、聞いていない!! 初耳だ!!」
「まあ、意地悪ねマリー。貴女に言伝を頼んだとアストライア様が仰っていたのに」

 叔母と姪、二人分の非難の視線を一身に受けて、マリーは両手を上げて降参の意を示した。

「申し訳ありません。当日まで言わないように、とヴォルグ様に口止めされていましたので」
「アイツ……!!」

 ナギの目に怒りの炎が光った。

「さあさ、参りますよ。ヴォルグ様が待ちくたびれてしまいます」

 マリーに手を引かれてしまえば、後退するわけにもいかず、ナギはそのまま一歩、足を踏み出した。
 カツン、とナギの髪に合わせて見繕った緋色のハイヒールの音が魔王城の廊下に高く響き渡る。
 それから三人は手に手を取り合って結婚式会場へと急いだ。

「母上、まだかなぁ」

 ソルがそわそわとした様子で会場の入り口を見つめるのに、ルナは溜め息を吐き出した。

「さっきから煩いよ、ソル。そんなに心配しなくても、レヴィのおばさまが一緒なんだから大丈夫だって」
「だけどさー」
「そんなに気になるなら迎えに行ってあげなさいよ。私はここで父上と留守番しているから」
「えー! そんな一人でなんて嫌だよ! 姉ちゃんも一緒がいい!」
「私はここから動きたくないの。行きたいなら一人で行って」
「やだよぉ! 姉ちゃんも一緒に行こうよぉ!!」

 階下で騒ぐ子供たちの様子にヴォルグは眦を和らげた。
 ナギが守ってくれたお陰ですくすくと成長した子供たちは、もう直ぐ十一歳になろうとしている。
 叶うことなら赤子の頃から育てたかったな、と親心が顔を覗かせるが、今の二人も十分可愛いので赤子の時から育てていれば間違いなく今よりも親ばかになっていた自信があった。

「二人とも、少し静かにね。あんまり煩く騒いでいると、民に聞こえてしまうよ」
『はぁい。ごめんなさい、父上』

 二重奏のしゅんとした声に、ヴォルグは苦笑しながら階段に足を掛けた。
 そのタイミングを見計らっていたかのように重厚な扉が古めかしい悲鳴を上げて、左右に開く。

「母上!」

 一番に飛び出して行ったのは勿論、ソルだった。
 ヴォルグの髪を彷彿とさせる、夜色のドレスを纏ったナギの姿に、ヴォルグとルナは、口を開けて固まってしまったのだ。
 そっくりな顔で固まった二人を見て、ナギが片眉を上げる。

「何だよ、二人して。締まりのない顔だなァ」

 けけ、と新婦にあるまじき笑い声を奏でた愛しい人に、ヴォルグがゆっくりと近付く。

「とっても、綺麗だ。ナギ」
「ああ、そうかい」
「僕の愛しい人はどうしてそんな、ご機嫌が斜めなのかな?」
「お前、これがアストライア様からの贈り物だって知っていたんだろう?」

 じろり、とした瞳に睨まれて、ヴォルグは両手を上げて降参の意を示した。

「黙っていてごめんよ。だけど、そうでもしないと君、絶対に着てくれないじゃないか」
「それは……

 黙ってしまったナギに、ヴォルグはそっと膝を折った。
 あまりにも自然な流れで膝をついた男に、ナギが目を剥いた。

「お、おい!」
「なあに?」
「なに、じゃねえ! おま、仮にも王が、そんな簡単に膝を……!」

 その手に握られている指輪を見て、ナギの表情が更に強張る。
 ヴォルグの掌の中に収まっていたのは、あの日――二人が「さよなら」を交わした最後の日に渡された思い出の指輪だった。
 左手を優しく持ち上げられたかと思うと、手袋が外される。
 次いで、冷たい感触が薬指に触れた。

「は、恥ずかしくないのかよ」
「何が?」
「こんな、劇作家も真っ青な甘ったるいこと、して」
「そう思ってもらえたのなら、本望かな」

 ふふ、と弧を描いた唇が、手の甲を掠めていく。
 それが少しだけくすぐったくて、思わず「ン」と声を漏らせば、立ち上がったヴォルグに腰を抱き寄せられた。

「ヴォ、ヴォルグ!」
「んー?」
「こ、子供たちが見てる……!」
「うん、知っているよ」
「ちょ、」
「しぃ。ほら、大人しくして。キスしかしないよ。それとも、わざと煽っているのかな?」

 息のかかる位置でそんなことを言われて、ナギの眦に羞恥の涙が浮かんだ。
 父と母が何を話しているのか分からずに、二人の足元で子供たちが心配そうに両親を見上げている。

「ほら、仲良しってことを示さないと、不安そうだよ?」
「このっ」

 殴りかかろうと振り上げた拳は、容易く掴まった。
 文句を言おうと開いた唇にがぶり、と容赦なく噛みつかれる。
 もう何度目になるのか分からないくらい触れているというのに、彼とするキスには慣れそうになかった。
 きっとこれから先も慣れることはないかもしれない。
 触れた舌は冷たくて、己の体温が上がっていることを嫌でも教えられる。

「も、いいだろっ」
「えー?」
「しつこい!!」

 ゴン、と鈍い音がヴォルグの額を襲った。
 痛みのあまり蹲る王を尻目に、ナギが子供たちに柔らかな笑みを浮かべながら近付いた。

「さあ、お前たち。あっちでごちそうが用意されているらしいから、先にレヴィおばさまと行っておいで」
『はぁい』

 可愛らしく手を繋いだ二人は、ナギの頬にキスをすると笑いながらレヴィアタンの方へと走っていった。
 未だにうんうんと唸り声の上がる方を振り返れば、恨みがましそうにこちらを睨むヴォルグと目が合う。

「何だよ」
「どう考えてもやりすぎだよ。これから人前に立つっていうのに、コブが出来たらどうしてくれるのさ」
「先に調子に乗ったのはお前だろうが」
「可愛い奥さんを愛でたいと思って何が悪いのさ」
「そういうところだよ、バカ」

 はあ、と深い溜め息を吐き出すと、ナギはヴォルグの前に手を差し出した。
 いい加減立ち上がらなければ、ベヒモスやアスモデウスの前に無様な姿を晒すことになる。
 ん、と顎で持つように示してみれば、ヴォルグが人の悪い笑みを浮かべてその手を握った。

「ねえ、ナギ」
「何だよ」
「耳が赤いよ?」
「なっ!?」

 思わず反対の手で耳を隠そうとするが、時既に遅し。
 強い力で腕を引っ張られたかと思うと、再び魔王の懐の中に逆戻りしていた。

「んふふ~」
「な、何だよ、気色悪いな」
「いや~僕の奥さんは本当に可愛いな、と思ってね」
…………馬鹿じゃねえの」

 呆れて物も言えない。
 はあ、と本日何度目になるのか分からない溜め息を吐き出して、ナギは蟀谷を押さえた。
 鼻先を擽るヴォルグの匂いに、こうしてまともに触れあうのも実に一週間ぶりだ、ということに気が付いてしまう。
 気が付かなくても良いことに気付いてしまった、と顔を赤らめたり青褪めたりを繰り返すナギに、ヴォルグがそっと目を閉じた。

(ば、ばかばか……! 何で今思い出した俺! やばい、やばいって……!)

 何がやばいのだろう、と考えて、ナギの項に汗が滲んでいることに気が付いた。
 情事の際だけ触れることを許された急所が淡い桜色に染まっている。

「あーナギ?」
「な、何だよっ!」
「触ってもいいかな?」

 遠慮がちに告げてみれば、ナギは一瞬だけ驚いたように目を丸くしたが、次いでじわりとその頬を赤く染め上げた。

「な、何言ってんだ! 今から式典があるって言ったのは、お前だろ!」
「そうなんだけどさ。こんなに可愛い恰好をしている君に触れられないまま、隣に立たれるのは少し辛いというか、何というか……

 そう言いながら、ヴォルグの掌は悪戯にナギの身体をドレス越しに這っていく。

「ちょ……ン、あ……だ、駄目だってば……ッ! ヴォルグ!」
「少しだけだから、ね?」
「や、折角マリーが着付けてくれたのに、あ…………やだぁ」

 いやいや、と首を振り始めたナギを見て、ヴォルグの中に渦を巻いていた熱が更に温度を増した。

「大丈夫。痛いことは何もしない。気持ち良いことだけだから、ほら。口を開けてよ。ナギ」

 ナギの苦手な甘ったるい声でわざとそう告げれば、彼女の華奢な腰から力が抜けた。
 そして、ささやかな胸元へと手を遣れば、底冷えのする声がヴォルグの耳朶を襲う。

…………ヴォルグ様??」

 ちら、と声の主を振り返れば、身の丈を遥かに超える巨大な鋏を手にしたマリーがこちらを睨んでいた。

「もうすぐ式典が始まるのにお姿がないと思っていたら……。一体何をなさっているのです?」
「え、えーっと、これはその、」
「結婚式なんてやるだけ無駄だと仰っていましたのに、ナギ様のドレス姿を見た途端にそれとは――見損ないました」

 そう呟いたのを合図に、マリーの鋏はヴォルグを標的として捉えた。
 大聖堂の床が壊れるのも構わずにブンブン、と鋏を振り回すマリーにヴォルグが悲鳴を上げる間もなく逃げ回る。
 次いで、辿り着いた逃げ道はと言えば、群衆が国王夫妻を待ち詫びるテラスだけで。

「う、わわ!」
「うお!?」

 マリーはしてやったり、と言った表情で二人を見送る。
 歓声に迎えられた二人は、思わず顔を見合わせて固まった。
 そして、どちらからともなく笑みを零すと、ゆっくりと唇を重ねる。

「これで、もう僕から離れられないね」
「ふふ。物騒な口説き文句だな」

 二度目の口付けは深く、息を奪うほど濃厚で。
 堪らず唇を離したナギの首元に、ヴォルグが鼻先を埋めた。

「ちょ、」
「やっと手に入れた」

――僕の、お嫁さん。

 小さく呟かれた言葉に、ナギの顔がこれ以上ないほどに真っ赤に染まる。
 ヒューヒューと囃し立てるように中庭から響く口笛が、二人の新しい門出を祝福していた。