魔王が人間を新たな配下として迎え入れたらしい、という噂が魔界中を震撼させていた。
何故、人間のようにか弱い存在を自らの配下として迎え入れたのか、と魔王城には連日連夜、魔王に謁見を求める魔族が殺到していた。
「……本日も見事に、長蛇の列だな」
「ええ」
「まったく、我が君には毎度驚かされる」
はあ、と深いため息を同時に吐き出したのは、魔王の側近である三人の魔族だ。
「若様には若様なりの考えがあるのだろう。だが、長年争ってきた人間を血の眷属に迎え入れたとなれば、同胞たちの怒りが先立つのも無理はない」
長い前髪を掻き分けながら気怠そうに言葉を紡いだのは、初代魔王の時代から側近の席に名を連ねている最古の魔族ベルフェゴール家の現当主・ベルフェゴール公爵である。
「閣下。『若様』という呼称はお控えください。我らの『魔王陛下』は、今やヴォルグ様なのですから……」
二度目のため息を零しながらベルフェゴールの発言を咎めたのは、魔王軍参謀にしてヴォルグの世話係を一任されているベルゼブブ伯爵だ。
「これは失礼。何分、先代様に比べるとまだまだ幼さが残っているように見えてなぁ。以降、気を付けることとしよう」
「閣下!!」
ベルゼブブが座っていた椅子から腰を浮かせて、前のめりになった。
今にもベルフェゴールに掴み掛からんとした彼の腕を、陶器のように透き通った白い指先が諫める。
「お二人とも。そこまでになさってください。これから陛下に謁見するというのに、そう殺気立たれていては民のことをとやかく言えませんよ」
男性陣二人の間に割って入ったのは、女性として初めて王の側近である『三貴人(さんきじん)』に選ばれたレヴィアタン子爵だ。
刺すような冷たい彼女の視線にベルゼブブはグッと奥歯を食いしばり、緩慢な動作で椅子に戻った。
魔界において魔王の次に力を持つと言われている三人の貴族が円卓の部屋に召集された理由は一つ。
魔王が新しい政を始めるための会議を開くのである。
三貴人は初代魔王の折から、何かを決定する場には必ず同参したと言われていた。当代の三貴人もそれに倣い、魔王の召集があればどんなときにでも魔王城にやってくることになっている。
「それにしても、遅いな」
「ええ。一体何をしていらっしゃるのか」
少し見てきます、とベルゼブブが立ち上がったのと同時に、黒を基調とした重厚な扉が勢い良く開け放たれた。
「お待たせ!」
にっこりと満面の笑みで登場したヴォルグの姿に、一同は瞬きを繰り返す。
その傍らに見たことのない小汚い人間が抱えられていたからである。
「円卓の間に入ることを渋ってね。仕置きをしていたらすっかり遅くなってしまった」
「は、はあ……」
臣下たちの驚いた顔ももろともせず、ヴォルグは傷だらけになったナギを横抱きにして一人用の豪華なソファに腰を下ろした。
「悪いんだけど、立っているついでに何か飲み物を持ってきてくれないか? 小一時間は泣き喚いていたから、脱水症状になっていてもおかしくない」
「畏まりました」
傍仕えの侍女はヴォルグの命に恭しく頭を下げると、円卓の間からするり、と蛇のように扉の隙間を滑り出て行った。
「ソレが噂の人間ですか?」
口火を切ったのは、意外にも寡黙なことで知られているレヴィアタンだった。
普段ならば、必要最低限のことしか話さない彼女であったが、渦中の人間を前に動揺しながらも、王がご執心のそれに興味が勝ったのだろう。ちらちらとナギを視界の端に収めながらヴォルグの表情を窺うレヴィアタンに、ベルフェゴールが目を見開く。
「ああ。可愛いだろ? 気難しい猫みたいで、気に入っているんだ」
ゾッとするほどに美しい満面の笑みを浮かべたヴォルグに、レヴィアタンは首筋に剥き身の刀を突きつけられたような気持ちで彼からそっと視線を外した。
「恐れながら、申し上げます。何故、そのような人間を『血の眷属』として加えられたのでしょうか。私には魔王陛下の意図が理解できません」
「君も皆と同じことを言うんだねぇ。……そうだなぁ。強いて言うなら、顔が好みだったから?」
「真面目に答えてください」
「まあ、最後まで話を聞いてよ」
ヴォルグは、ぽつぽつとナギを配下に迎え入れることにした経緯を、三貴人に話し始めた。
「最初は、互いに憎しみをぶつけ合うだけのただの敵だった。特に出会った場所が最悪でね……。人も魔族も分からない遺体が焼け野原になった森の中にごろごろ転がっていた。僕は魔力が尽きて、一旦引き上げようかと考えていた。そこに気力だけで立っている人間が現れたんだ。――そう。このナギがね。身動きが上手く取れなかったこともあって、危うく殺されそうになったけれど、攻撃を避けるときに誤って遺体を踏みそうになったんだ。まあ、咄嗟に避けることはできたよ。魔族だったらバツが悪いし、と。そしたら彼、どうしたと思う?」
まるで、子どもが母親にその日あった出来事を聞かせるように、饒舌にナギとの出会いを語る魔王に、ベルフェゴールとレヴィアタンは視線を交差させる。
「……どう、したのですか?」
恐れ多くも魔王に話の続きを催促する役割を、レヴィアタンは買って出ることになってしまった。
こういうとき、最年少であることを嫌でも感じさせられる。
先ほど、魔王に話を振ったのは己であるのだから致し方ないとはいえ、いつ不敬罪を通告されてもおかしくはないと冷たい汗が頸を滑り落ちていった。
「殺意に塗れた目をしながらこう言ったのさ。『お前にも「心」があるのか』ってね! もう僕、可笑しくってさぁ! 魔族にだって心はあるに決まっているだろって思ったのと同時に、この人間が欲しいって思った。魔族に対して、こんなに純粋な殺意を持てる人間を、僕のものにしたいと」
魔王の緋色の目が蝋燭の灯火のようにゆらりと揺らいだ。
しん、と静まり返った部屋の中には、この場に座する者たちの呼吸音が虚しく響いた。
次いで、ヴォルグの笑い声が静寂を打ち破る。
狂ったように笑い始めた魔王に、レヴィアタンは呆れたようにため息を吐き出した。
魔力の器量で魔王は選定される。ヴォルグが齢十二で魔王に選定されたのも、玉座が彼を魔王に、と望んだからだ。そうでなければ、ベルフェゴールやベルゼブブが大人しく彼に従うわけがなかった。
魔王に選出される者は、血気盛んな者が多いと聞く。
先代の王であったヴォルグの父、ヴァトラも温厚な見た目とは裏腹に戦場では鎧を返り血に染めていたという伝説が残っているくらいだ。まだ年若いとはいえ、魔族として――獣としての本能が強いところは父王に似たのかもしれなかった。
「だからと言って、血族に迎え入れる理由が分かりません。この者は、聖騎士団に所属していたと聞いています。御身に何かあれば、我らは立ち行かなくなるのですよ!」
ベルゼブブが、怒りで声を振るわせながらヴォルグを睨んだ。
ヴォルグの瞳孔がゆっくりと縦に広がり、鈍い光を放つ。
「本当にそう思っているのか? 一刻も早く、僕をこの席から引き摺り下ろしたくて堪らないって、その顔が雄弁に語っているけれど?」
鋭く尖った犬歯を見せて、人の悪い笑みを浮かべながらヴォルグが言った。
「陛下!!」
レヴィアタンが絹を裂くような悲鳴を上げて、ヴォルグを諌める。
戯れにしては、いささか言葉の選び方が悪かった。
部屋の中を包み込む険悪な雰囲気に、運悪くも水差しを持って戻ってきた侍女が「ひぃ」と引き攣った悲鳴を上げた。
最年長であるベルフェゴールだけが、静かに紅茶を嗜んでいる。
「……魔王、陛下」
件の人間――ナギが、緩慢な動作で瞼を持ち上げて、主人を呼んだ。
険しかったヴォルグの表情が、ゆるりと綻ぶ。
「ごめんね、ナギ。さっきは思いっきり殴ってしまって……。痛くはなかったかい?」
「いえ、」
「血が付いている。顔を上げて、よく見せておくれ」
よくよく見やれば、ヴォルグの腕の中に閉じ込められている青年は、美しい面立ちをしていた。
ほう、と息を飲むことも忘れて、主従のやり取りを見守っていた三貴人であったが、一足早く我に返ったベルフェゴールが舌を縺れさせながら声を荒げた。
「い、いけません! 魔王陛下! そのような下賎の者に御手を触れては!」
「下賎の者って酷いなぁ。仮にも僕が『剣』として選んだ勇者なんだけど……」
「はあ!?」
三貴人たちの困惑した声が、響き渡ったかと思うと、再び、部屋の中に静寂が舞い戻る。
今度は怒りのあまり、声も出せなくなってのことであった。
「お待ちください! まさか、この者を貴方様の『騎士』になさるおつもりですか?!」
「そうだよ?」
「な、なりませぬ!! 『騎士』は、代々魔王陛下のお傍をお守りしてきた我ら三貴人が選定する決まりです!! それを、こんなどこの馬の骨とも分からぬ小童を『剣』にするなど、我らは絶対に認めませぬぞ!!」
珍しくも声を荒げて非難轟々にヴォルグへ詰め寄ったベルフェゴールであったが、その言葉はヴォルグには欠片も響いてはいなかった。
むしろ、煩いと言わんばかりに、眉間には深い皺が刻まれ、腕の中にいるナギの身体をギュッと強く抱きしめる始末である。
「君たちを疑っているわけじゃないんだけどさぁ。最近、僕の命を狙う不届き者が増えているとは思わないかい?」
「そ、それは、こやつら人間の仕業ではっ」
「だ~か~ら~、さっきから最後まで話を聞けって言ってるだろ? 何度言わせれば気が済むんだ」
ギロリ、と真正面からヴォルグの鋭い視線を浴びたベルフェゴールはその場に固まるしかなかった。
指先一つ動かせば、悲鳴を一つでも漏らせば、殺される。
そんな空気を纏ったヴォルグを前に、三人の臣下はさっきまでの喧騒が嘘のように静かに口を噤んだ。
「魔界で過ごしているときの方が、刺客に襲われる頻度が多いんだよね。それってつまり同族に狙われているってことでしょう? これは仮定の話だけれど、もし君たちの中に僕の命を狙っている者がいて、僕を殺すための『騎士』を選んだとする。騎士は常に行動を共にする義務がある。いつでも僕を殺せるチャンスが増えるということだ。僕の椅子が空いたあと、次の魔王に誰が選出されるのか見ものだね?」
ぐうの音も出ないとはこのことだった。
三貴人たちは互いに顔を見合わせることしか出来ず、力なく頭を垂れることで魔王に最大限の謝意を表することに徹した。
「いくら僕が歴代屈指の魔王だと言われていても、用心するに越したことはない。――だから、彼を『剣』に選んだのさ」
皮肉たっぷりにそう告げられてしまえば、二の句を告げる者など、この場には誰もいなかった。全員が冷や汗をだらだらと流しながら、魔王の次の言葉を死刑宣告のように待つ時間が続いた。
耐えきれない重圧に、レヴィアタンが右手を上げながら発言の許可を取る。
ヴォルグは静かな声で彼女の名前を呼んだ。
「何だい、レヴィ」
「お、恐れながら、申し上げます。その者は、ヴォルグ様の『剣』に値するほどの強さを持っているのでしょうか」
これにはナギが面食らった。
言われてみれば、彼に実戦で勝利を収めた試しがない。
ちら、と未だ対面で『抱っこ』された状態のまま、ヴォルグの顔を窺えば、彼は悪戯が成功した子どものような笑顔を浮かべて、くすくすと笑っている。
「おい、魔王」
皆には聞こえない程度の小さな声で彼を呼ぶと、緋色の双眸がナギを捉えた。
寝起きで訳の分からないまま円卓の間の前まで連れてこられたかと思えば、これから三貴人に会うと言われて、ナギは盛大に暴れた。
謂わば、敵の大将のところに、丸裸で放り込まれようとしていたのだ。
誰だって抵抗するに決まっている。
けれども、ヴォルグはそんなナギの想いを無視して、強行突破を図った。
顎へと放たれた掌底を避け損ねて気絶したナギを抱えたまま、円卓の間に突入したのである。 すっかり毒されていた所為で忘れていたが、こいつ魔王だったと改めて思った瞬間であった。
気絶する寸前にも見たにやり、とした人の悪い表情に、ナギが「うげ」と悪態を吐き出す。
「ナギ」
蜂蜜を煮詰めたように甘い声が、ナギと三貴人の耳朶を震わせた。
少しだけ乾燥して皮が捲れている指先がナギの頬を覆う。
「これは、」
ヴォルグの声が、不自然に揺れた。
何かを探すようにジッと己を覗き込む彼に、ナギがクッと喉を鳴らして笑う。
(俺は、お前が選んだ剣なんだろう? ならば、何を迷うことがある?)
黄金に輝く眼が、真っ直ぐにヴォルグを見ていた。
それに応えるように、ヴォルグはナギの髪を一房持ち上げる。
ちゅ、と小鳥が果実を啄むように、柔く口付けを落とす。
「これは、俺が選んだ至高の剣だ。疑うのであれば、お前が直接相手をすればいい」
王の口付けは、最高の賛辞。
口を利くことも許されぬまま、眼前で繰り広げられた出来事に三人は静かに気を失っていた。
「と、いうことらしいですが、どうなさいます? っておい、白目剥いてんぞ」
「ははは! やっぱり、君を選んで良かったよ!」
「どういう意味だ」
「退屈とは無縁になりそうってことさ」
けらけらと笑いながら、円卓の間をでていくヴォルグの後ろを、ナギが不満そうな顔で続いた。
「…………厄介な者を招き入れおって」
静まり返った円卓の間に、舌打ちと共に小さく響いたそれは、誰が放ったのか、扉の閉まる音に掻き消されたのだった。